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2010年12月20日 (月)

男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日

 

天平勝宝五年(753年)12月20日、鑑真が6度目の渡航で日本に到着しました。

・・・・・・・・・・・・

昨年の1月16日・・・鑑真和上(がんじんわじょう)平城京へと到着した日づけのページ(1月16日参照>>)でも、その理由を書かせていただきましたが、当時の日本には、授戒(戒律を授ける事)を授ける高僧が一人もいない状況で、僧の質の低下が大きな問題となり、正しい仏教の戒律を確立させる必要があったわけです。

そこで、遣唐使とともに唐へ渡った興福寺の僧・栄叡(ようえい)普照(ふしょう)が、本場・(中国)にて高僧の誉れ高い鑑真に、日本への訪問を懇願したのです。

Ganzin1 その昨年のページでは、すでに名誉も地位も得ている鑑真が、なぜ?5度も失敗してもなお、日本に来たかったのか?というお話を、トンデモ説を交えて、少しイジワルな見解に持って行きましたが、本来は、やはり、僧としての純粋な情熱によるものと思いたいですし、実際にそうであったのだろうと思います。

・・・というのも、この時の栄叡と普照が、まず来日を懇願したのは、鑑真本人ではなく、その弟子たちのうち誰か」という事だったのです。

なんせ、上記の通り、鑑真はすでに重鎮・大御所ですから、とてもじゃないけど、「来てください」なんて事は言えず、「せめて、そのお弟子さんに…」って事だったわけですが、その話を、鑑真が弟子たちに振ってみたところ、誰一人として行きたがらない・・・

そう、以前書かせていただいたように(4月2日参照>>)、すでに、この時、朝鮮半島と関係悪化によって、遣唐使船のルートが変更されてしまっていて、とても危険な状態・・・ほとんど命がけの航海だったのです。

誰も手を挙げない状況を見た鑑真・・・
「ならば、俺が行こう!」

慌てた弟子の一人・祥彦(しょうげん)は、
「かの国は、メッチャ遠くて、ホンマ、命がけで、百回に1回も成功しませんって…」
と、鑑真の渡海に猛反対して、
「人身は得難く、中国には生じ難し」
(人はこの世に生まれて来る事自体が偶然なのに、まして、それが中国だというのは奇跡に近い)
と、引きとめたと言います。

しかし、鑑真の決意は固い・・・

すると、あれだけ手を挙げなかった弟子が、
「鑑真さんが行きはるなら…」
と、40名もの人数が同行を願い出たというのです。

この逸話を見る限り、鑑真は尊敬されるべきすばらしい人物で、その仏教への篤い思いこそが来日の理由であると思えますね。

とは言え、祥彦が言った通り、その来日は困難を極めました。

最初の試みは743年(天平十五年)の夏の事でしたが、寸前になって、怖くなった弟子の一人が、港の役人に日本僧を訴えたため、日本の僧らが追放処分になり、鑑真は身柄を確保されてしまいました。

2回目は、翌年の1月・・・この時は、無事、船に乗れて出港しましたが、暴風雨に遭い、やむなく帰国しなければなりませんでした。

この後、すぐに、3回目に挑戦しますが、鑑真の日本行きを惜しむ弟子の一人が、役人に密告し、なんと栄叡は捕えられてしまいます。

しかし、めげません・・・脱獄した栄叡と落ち合った鑑真は、すぐさま4回目に挑戦・・・しかし、またもや弟子の一人が役人に訴えて、渡航を阻止されてしまいます。

1年に3回も挑戦するとは・・・その執念はスゴイw(゚o゚)w

・・・と、さすがにほとぼりがさめるのを待ったのか、4年置いた748年(天平二十年)に5回目の挑戦・・・

今回、見事、出港に漕ぎつけたものの、またまた暴風雨に遭い、船ははるか彼方の海南島へ漂着・・・ここで、約1年を過ごした鑑真一行は、やがて中国本土へ戻りますが、その途中で栄叡が病死・・・帰らぬ人となってしまいました。

彼の死で悲しみに打ちひしがれた鑑真は、「もはや中国を離れて天竺(てんじく・おそらくインド)に行こう」とまで考えますが、さすがに思いとどまり、次ぎのチャンスを待つ事にします

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鑑真渡航の苦難を描いた東征伝絵巻(唐招提寺蔵)

やがて752年(天平勝宝四年)、日本から強い味方がやってきます。

藤原清河(きよかわ)大使とする第12回遣唐使が、日本から派遣され、鑑真に面会した清河は、「必ず連れて行きます!」と、約束してくれたのです。

ところがドッコイ、時の玄宗(げんそう)皇帝が、鑑真の渡航に猛反対・・・しかたなく、清河は諦めます。

しかし、諦めなかったの副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)・・・古麻呂の手配により、こっそりと鑑真が乗船した遣唐使船が、日本に向けて出港したのは、その年の11月の事でした。

とは言え、今回も来ます暴風雨・・・同時に出港した遣唐使船ともはぐれ、バラバラになりながらも天平勝宝五年(753年)12月20日鑑真の乗った遣唐使船は、なんとか薩摩(鹿児島県西部)の坊津(ぼうのつ)に到着したのでした(普照は鑑真とともに無事帰国しています)

ちなみに、同時に出港した別の遣唐使船には、あの安倍仲麻呂(あべのなかまろ)が乗船していましたが、彼の船はベトナムに到着してしまったため、帰国する事はできませんでした(8月20日参照>>)

こうして、やっとの思いで6度目・・・密航してまでの渡航に成功した鑑真・・・途中、あまりの苦難に失明していたとも言われる悲願の来日、鑑真66歳の時でした。

来日の翌年には、あの東大寺に、僧の学び舎とも言える戒壇を築き、上は上皇から下は名もなき僧尼まで、約400人に戒律を授けたと言います。

後に鑑真が建立した唐招提寺には、「本物の仏教を学びたい!」と、夢あふれる若者の訪問が絶えなかったのだとか・・・

こうして、腐敗しかけた奈良時代の仏教が、鑑真によって救われたのです。

天平宝字七年(763年)5月6日76歳で亡くなるその日まで、学僧のレベルアップはもちろん、貧困者や孤児などを収容する福祉施設=悲田院(ひでんいん)を作って、貧民の救済にも取り組んだ鑑真・・・

現在の唐招提寺では、月遅れのご命日に合わせて、毎年6月5日から7日までの3日間、鑑真和上像の特別開扉とともに法要が行われ、境内の廟に訪れる人も絶えません。
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奈良時代」カテゴリの記事

コメント

1000年以上前、66歳といえば、高齢だったはず。地位も名誉もあったのに。鑑真の情熱には驚きです。玄宗皇帝の政治に失望していた?楊貴妃にも。

投稿: やぶひび | 2010年12月23日 (木) 12時45分

やぶひびさん、こんにちは~

ホントですね~
渡航を決意した段階で、すでに55歳…
頭が下がります。

投稿: 茶々 | 2010年12月23日 (木) 15時16分

あ、まさにこれは昨日のNHKの番組で知ったこと達です。本当に素晴らしい執念。こうして鑑真和上が日本に来てくれたからこそ今の日本の仏教があるのですね。東山画伯がその鑑真和上の故郷と日本の海を描いた唐招提寺の襖絵、ますます感動させられます。

投稿: maxmom | 2015年9月10日 (木) 08時20分

maxmomさん、こんにちは~

こちらも読んでいただいたんですね。
鑑真和上の執念、スゴイです。

この20年ほど前には菩提僊那>>というインド僧も日本を訪れているのですが、彼らの存在が無ければ、日本の仏教も危うかったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2015年9月10日 (木) 17時09分

茶々さん、こんにちは。
鑑真和上は命がけの来日をしたと思います。それも仏法を伝えるためにです。
盲目になっても日本へ行くと信念は今の現代人のお手本になると思います。
和上が来日しなかったら大乗仏教は消えたでしょうし、最澄も空海も出てこなかったでしょう。ある意味で言いますと日本仏教の祖と言えます。
妙なスパイ説とかを和上にも三蔵法師にも書く人がいますがスパイだとそこまでして来日やインドに行くかなと思うのと仏教の経典を書き続けないと思いました。三蔵法師のお陰で仏教は救われ、和上のお陰で日本仏教は救われました。その恩人の関係する薬師寺、唐招提寺には感謝しないといけないと思います。

投稿: non | 2017年2月 4日 (土) 15時32分

nonさん、こんばんは~

鑑真はスゴイです。

投稿: 茶々 | 2017年2月 5日 (日) 01時05分

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