女性は太陽、男はツバメby平塚らいてう
昭和二十六年(1951年)12月19日、平塚らいてうらが再軍備反対婦人委員会を結成しました。
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4年と10カ月にして、このブログに初登場の平塚さん・・・
本日は、「再軍備反対婦人委員会・結成」の日づけではありますが、(私の)苦手な近代史でもありますので、まずは、おさらいがてらのご紹介という感じにさせていただきます。
・‥…━━━☆
そのお名前は、漢字で雷鳥と表記される事もある平塚らいてう(らいちょう)さん・・・本名は明、または明子とも言い、明治十九年(1886年)に東京に生まれました。
父は会計検査院の次長も務めた高級官吏でしたから、彼女自身も上流階級のお嬢様として、厳しいながらも幸せな少女時代を過ごします。
ただし、「女に学問は必要ない!」とする父の反対を押し切って日本女子大学に進学するなど、この先の行く道を思わせる一面もありましたが、この頃は、まだまだ・・・哲学や宗教を「もっともっと知りたい!」という純粋な勤勉意欲による進学でした。
なので、女子大を出た後は、このままお嫁にに行って、良き母になって・・・というお決まりのお嬢様コースに乗っかるはずだったのです。
しかし、ここで、一つのターニングポイント・・・
文学に興味を持ち始めた彼女は、東京帝大出の新任教師・生田長江(ちょうこう)と、作家の森田草平(そうへい・米松)が主催する文学講座に通うようになります。
そこで、彼女の才能を見出した長江にすすめられて「愛の末日」という小説を書き上げるのですが、その作品を草平がベタ褒めした事から親しくなり、ついに二人は恋仲になってしまうのです。
しかし、草平には妻も子供もいます。
思いつめた二人・・・と言っても、初デートから、わずか1~2ヶ月なんですが、明治四十一年(1908年)3月、二人は心中という道を選びます。
らいてう、22歳の春でした。
とは言え、結局、未遂に終わってしまったこの事件・・・「塩原事件」なる名前で、東京日日新聞に一部始終を報道されてしまい、一大スキャンダルとなってしまいます。
現在の感覚なら、浮気する男にも大きな責任があるわけですが、当時の一般的な見方は、「妻子ある男に恋をして心中に引きずり込んだ女」として、一方的に彼女がトンデモない悪女と見られるわけで、ここが、らいてう女史のキレどころ・・・
・・・と、ここに、またまたグッドタイミングで声をかけたのがかの長江・・・
「女性だけをターゲットにした文芸誌を作ってみない?」
と・・・
世間の冷たい視線にさらされながら
「女だけが、なんで(#`皿´)」
と、不満ムンムンだった彼女に
「かつてのイギリスでは、貴族の女性たちが集まってブルーストッキングというサロンを作っていたんだ」
と話す長江・・・
もともとフランスをはじめとするヨーロッパの上流階級の女性たちが仲間の邸宅に集まり、文学論や演劇論などの知的な会話を楽しみながら、教養を身につけていく社交界がサロンの始まり・・・ちなみに、余談ですが、「そこで配られた巷の話題など最新情報の書かれた紙がニュースペーパー=新聞の始まり」とも言われています。
つまり、仲間の邸宅を紙上に置き換えて、上流婦人の教養を高める文化サークル的な物を作ってみようと言うのです。
こうして、明治四十四年(1911年)その名も青鞜社(せいとうしゃ・ブルーストッキングの直訳)を設立し、機関紙『青鞜』を創刊したのです。
ここでは、与謝野晶子(よさのあきこ)や田村俊子、長谷川時雨(しぐれ)や岡本かの子といった豪華メンバーに執筆をたのみ、もっぱらプロデュース的な役割をした彼女でしたが、その創刊号の巻頭には、自身の言葉を記しました。
「原始、女性は実に太陽であった。
真正の人であった。
今は月である。
他に依って生き、他の光によって輝く、
病人のような蒼白い顔の月である」
これが、女性たちからは大きな共感を呼ぶ一方で、男性、そして、未だ男性中心だった社会からは、ただ彼女たちの行動を興味本位でスキャンダラスに取り上げられるだけだったのですが、それこそが、女性たちの被差別意識を高める事となり、女性の行動に理解を示さない男性に対して、女性解放の必要性を、一般の女性もが感じるようになっていったのです。
・・・と言いながらも、らいてう自身は、大正元年(1912年)に知り合った5歳年下の画家志望の青年・奥村博史と恋に落ち、3年後には同棲を始め、やがてはその生活のために青鞜の運営に専念できなくなり、伊藤野枝(のえ)らに後を任せますが、結局、青鞜は大正五年(1916年)に五十二号で廃刊となってしまいました。
ちなみに、この博史がらいてうと別れる時に残した
「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。
若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」
という手紙が、一大ブームとなり、女性より年下の恋人を「若いツバメ」と呼ぶそうな。
しかし、らいてうの婦人運動は、むしろ、これから始まります。
なんせ青鞜は、あくまで教養を高める文化サロンであったわけで、社会運動ではないのですから・・・
工場の視察など行い、すでに工場や家庭内での女性の労働条件の悪さに憤りを感じていた彼女は、大正八年(1919年)、市川房枝(ふさえ)らの協力を得て新婦人協会を設立・・・「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的かつ社会的自由を確立させるため運動をスタートさせるのです。
・・・と、らいてうさんの運動は、まだまだ始まったばかりではありますが、個々の運動や、もう少し細かな事は、また、いずれの機会にか書かせていただきたいと思いますので、本日は、このへんで…
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コメント
『不倫は文化』なんて言った有名人がいましたね。
>「静かな水鳥たちが~
水鳥とは言い得て妙です。
水面下では、いろいろあったのでしょうか?(妄想中)
投稿: ことかね | 2010年12月25日 (土) 11時47分
ことかねさん、こんにちは
>水面下では…
ホントですね~
水鳥かシンクロか…
水中では、トンデモない事になってるかもww
投稿: 茶々 | 2010年12月25日 (土) 16時32分
再軍備反対婦人委員会というものをはじめて知りました。
詳しく知りたいです。
きな臭いご時世だからブログ記事にするのは難しいでしょうか。
投稿: りくにす | 2012年12月20日 (木) 00時52分
りくにすさん、こんばんは~
そうですね…(^-^;
本文にも書かせていただいた通り、近代史の苦手な私は、まだまだ勉強中です。
それこそ、難しいテーマなので、中途半端な知識で書くわけにはいかず…
いつか、堂々とupできるように、日々、精進しますです。
投稿: 茶々 | 2012年12月20日 (木) 02時22分
茶々様、レスありがとうございます。
昨日の書き込みで忘れたのですが、記事中ほどの「女性たちの差別意識」は何か他の表現に訂正されたほうがいいと思います。女性側が差別しているみたいですので。
ところで雷鳥さんが亡くなったのが1971年だった事さえ存じませんでした。再軍備反対婦人委員会も戦後のことなんですね。来年1月のNHK教育『日本人は何を考えてきたか』に平塚雷鳥と市川房江が登場するそうで、今から楽しみです。
投稿: りくにす | 2012年12月21日 (金) 19時14分
りくにすさん、こんばんは~
お言葉を受けて「被差別意識」とさせていただきました。
>雷鳥さんが亡くなったのが1971年だった
そうですね。。。私も、何年何月何日という事を覚えていたわけではありませんで、「長生きされた方だった」という印象でした。
投稿: 茶々 | 2012年12月22日 (土) 02時51分