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2010年12月14日 (火)

忠臣蔵で不忠の悪役~大野九郎兵衛の汚名を晴らしたい

 

元禄十五年(1702年)12月14日、忠臣蔵でおなじみ・・・ご存じ!赤穂浪士の討ち入りの日ですね。

って事で、本日は、途中で大石と袂を分かち、赤穂を出て行ってしまうため、お芝居では卑怯な不忠者として描かれる赤穂藩家老・大野九郎兵衛さんについて・・・
(大野さんについては、以前の【忠臣蔵のウソ・ホント】=2006年12月14日>>で、チョコッと書かせていただいていますので、内容がかぶる部分があると思いますが、ご了承くださいませ)

・・・・・・・・・

さてさて・・・
元禄十四年(1701年)3月14日に起こった、例の赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)江戸城・松の廊下吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りかかった刃傷事件(3月14日参照>>)・・・

この一報が、早水(はやみ)藤左衛門萱野(かやの)三平(1月14日参照>>)・両名の早駕籠による昼夜の走りまくりで、播州(ばんしゅう・播磨・兵庫県南部)赤穂城にもたらされたのは5日後の3月19日の事でした。

「もう、ウチの殿さん、何してくれとんねん!」
まさに、お家存亡の一大事!

筆頭家老の大石内蔵助良雄(くらのすけよしお)は、早速、在国藩士・2百数十人に登城の命令を発します。

この時の赤穂藩には大石を含め、藤井又左衛門宗茂(またざえもんむねしげ)安井彦右衛門(ひこえもん)大野九郎兵衛知房(くろべえともふさ)という4人の家老がいましたが、藤井と安井は江戸駐在・・・しかも、事件の時にブチ切れ殿様を補佐できなかった事で、今後の展開では、ほとんどシカトです。

・・・で、城にいた家老は、残る大石と大野なわけですが、もともと大石以外は全員、その才能によって抜擢された一代だけの家老でしたし、当然、石高も違っていたわけですから、城内での主導権は大石が握る事に・・・

とは言え、さすがは塩の製造販売で才能を発揮し、組頭から大抜擢の大野さん・・・お家の一大事とあっては、上司もヘッタクレもなく、自らの意見を述べます。

そう、この時、二人の家老の意見は、真っ向からぶつかるのです。

大石の意見は籠城・・・とは言え、こんな少人数で城を守りきれるはずもありませんから、意地の籠城の末、抗議の気持ちを込めた切腹によって自らの気持ちを天下に知らしめようというもの・・・

一方の大野の意見は開城・・・公儀の心証を悪くしないためにも、ここは素直に開城しておいて、その後、新たに、お家再興を図るべきであると主張します。

さらに、藩士への分配金(退職金)でも・・・

大石は、「小禄低所得者)の者を助けるためには、その配分を小禄の者ほど割高にして高禄の者は減らすべき」と言いますが、
大野は、「高禄の者ほど(引っ越しなどの)出費が多くなるのだから、全員一律にすべき」
と・・・

う~~ん、どちらも一理ある・・・って事で、この分配金に関しては、両者の意見を組み合わせた折衷案が実行される事になりましたが、籠城か開城かについては、決着がつかないまま時間だけが過ぎていきます。

ところが、4月11日の夜・・・突如として大野は、一族郎党を引き連れて赤穂城を出てしまうのです。

おそらくは、事務職で理性の固まりのような大野にとって、過激発言を曲げない大石に「これ以上、ついていかれへんわ」てなところでしょうが、これによって大野九郎兵衛という人物は、史実とされる歴史から姿を消してしまうのです。

もちろん、彼の他にも・・・
結果的に、大石の意見に賛同した60名ほどが城に残りました。

とは言え、ご存じのように、残った大石も、結局は籠城してません。

それは、広島浅野本家・・・籠城して切腹なんて、真っ向から幕府に反発するような行為をとられたら、後日、本家にだって、その影響が及ぶかも・・・いや、おそらく、何らかの処罰を喰らう事になるでしょう。

「せやから、アホな事はやめてチョーダイ」
と本家から泣きの頼みが入り、結局、大石は4月19日に、赤穂城・開城に踏み切ったのです。

その後は、多くのドラマで語られるような展開の末、元禄十五年(1702年)12月14日浪士の討ち入り(2009年12月14日参照>>)・・・となるのですが、気になるのは、かの大野さんのその後・・・

もちろん、先に書かせていただいたように、史実とされる歴史には、そのまま登場しないので、あくまで伝説の域を超えない物ですが、その逸話はいくつかあります。

それも、お芝居で描かれるような卑怯な悪役ではなく、どちらかと言えば、カッコイイ逸話です。

まずは、群馬県安中市磯部(いそべ)・・・

ここには、近在の子供たちに手習いを教える林遊謙(ゆうけん)という人のいいオッチャンが住んでましたが、かの赤穂浪士による討ち入りのニュースが、この村にも伝わった時、オッチャンは数日間姿を見せず、家に閉じこもったままだったとか・・・

その後、彼は、この地で亡くなり(お墓もあるそうです)が、その時、身よりの無かった彼の遺品を整理していた村人が、1通の手紙を発見・・・

それは、
「万が一、本懐を遂げる事ができなかった時には、第2陣として上野介の首を挙げてくれ
という内容が書かれた大石から手紙で、ここで初めて、村人は、遊謙という人物が、かの大野九郎兵衛であった事を知ったのだとか・・・

ただ、残念ながら、村人が供養のために墓のそばに埋めたこの手紙は、盗まれてしまって現存しないとの事・・・

しかも、この群馬という場所・・・実は、ここには、吉良上野介の領地・1000石があったのです。

もし、大石らの襲撃を受けた上野介が生き残ったとして・・・
さすがに、そのまま屋敷に戻る事はできないし、実子・綱憲(つなのり)がいる米沢上杉家は、受け入れてくれる保証はない・・・吉良さんの本領は三河(愛知県東部)ですが、もはや芝居にもなって(8月14日参照>>)仇討気分高まる中の東海道を下っていくなんて事もできない

「って事は、この上州(群馬)に来る可能性は大いにある」
と、考えて、ここに身を隠していた・・・伝承とは言え、ドラマのようですなぁ。

そして、もうひとつ、東北の山形にも大野さんの伝説があります。

米沢に近い板谷峠という所に、「南無阿弥陀仏」と彫られた16基の碑があって、これが大野九郎兵衛一族のお墓だと言われているのだとか・・・

もちろん、ここにいたのは、上記の息子のいる上杉家を、上野介が頼って来た時に、この峠で待ち伏せするためだったとされ、ここでの伝承も、大石失敗時の第2陣という設定になってます。

しかも、ここにいた大野さんとおぼしき人物は、赤穂浪士の討ち入りが成功して本懐を遂げた事を聞いた後、「もはや思い残す事はない」と、自ら割腹して果てたのだとか・・・

いずれにしても、このカッコ良すぎる逸話は、何で???

と、ここからは、勝手な憶測になりますが、いつの世も、私のようなあげ足取りや、天の邪鬼はいるもので、あの「仮名手本忠臣蔵」がお芝居として大ヒットすればするほど、そこで完全なる悪役にされている大野さんの味方をしたくなるわけで・・・

かの大河ドラマを見ちゃ、
「あれはちょっと…」とツッコミ入れたり、
「龍馬一人でやったんちゃうわ!」と吠えたり、
「中岡の出番、少なすぎる!」と叫んだり、
そんな気持ちと、似ているのかも知れませんね。

なんせ、実際には、赤穂の藩士の中で、討ち入りした人よりも、はるかに多くの人が討ち入りに参加しなかったわけですから・・・

なのに、大野さんら一部だけが、不忠の人として悪役にされている事に、江戸の人々の中にも、少々ツッコミを入れたい人がいたのかも・・・

「アイツらだけがヒーローちゃうわい!」
とか、ね・・・

Omurosakura800
京都・仁和寺(ここにいたという大野さんの弟の文書が残ります)
大野さんも、桜を見たのかなぁ(゚▽゚*)
 ,

 

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コメント

全くスタンスが同じです(笑)
「龍馬一人でやったんじゃない!」
「中岡の出番、少なすぎる!」
まーったく同じことを言ってました(笑)

なにが気に食わないって、中岡が完全に格下みたいな描かれ方をしていたことですよ。
長州にあれだけ接近してるのに、奇兵隊はさも高杉ひとりで作り上げたかのような描かれ方で、大村益次郎について全く触れなかったことですよ。

あげ足取りや、天の邪鬼ですみませんが、真田幸村より毛利勝永のほうがいいんですよ。

投稿: よっすぃー | 2010年12月14日 (火) 15時54分

「歴史から消えた」大野九郎兵衛がいつ何歳でこの世を去った、と言う記録がないようですね。確かに大石らとは討ち入りに加担しなかった他の浪士が、事件の後にどうなったかはいちいち記録がないですね。

仮名手本忠臣蔵が出てきましたが、これさえも創作が多いと言われてますね。享保時代には上演されたようですが、当時はまだ浅野方・吉良方の遺族が健在で、「あの場面はおかしい」と言う人もいたでしょうね。忠臣蔵関係は「鵜呑み」に見てしまいがちですね。
11年前の「元禄繚乱」は、あえてこれを是正する意図でしたが、支持は今ひとつでした。これでも大野は途中で消えました。

投稿: えびすこ | 2010年12月14日 (火) 16時33分

よっすぃーさん、こんばんは~

そうですね~
大村益次郎も出てませんでしたね。
新撰組も、いつも3~4人しかいなかったし…

最近は、不思議な大河が多いです。
来年に期待を…

投稿: 茶々 | 2010年12月14日 (火) 18時54分

えびすこさん、こんばんは~

「仮名手本忠臣蔵」は完全にお芝居ですからね~

それこそ、江戸時代の人は創作だとわかって見ていたと思いますよ。

年月が経って、逆に、どこが創作でどこが事実かが曖昧なってしまった感があります。

歴史の場合は、「忠臣蔵」と言えばお芝居の方、史実の出来事は「元禄赤穂事件」と呼んだりしますよね。

投稿: 茶々 | 2010年12月14日 (火) 19時00分

syunchanからしゅんにしました。
このサイトは有力なので、来年の大河ではNHKのスタッフも必ず見るハズですから、少しでも史実に近づけるように、頑張りましょう。
なんて言ったって直系のお茶々さんなんですから・・
①先日、赤穂に往って来ました。お城の再建は法で、なかなか許可が下りないみたいでした。
ご先祖様のお陰で浪士の子孫は反映してました。以前にはなかった大石神社の浪士の石像の寄進者の多くが親族と思われる方の氏でした・・②昨日は流星が流れた半月でしたが、太陰暦の14日はほぼ満月に近かったんですよね!

投稿: しゅん | 2010年12月15日 (水) 07時28分

しゅんさん、こんにちは~

大石神社…
このあいだ、映画公開関係のテレビでチラッと映ってましたが、なにやら兵馬俑みたいな四十七士の石像がズラリと建ってましたね~

ちょっと驚きましたが、子孫なら、私も建てちゃうかも知れません。

投稿: 茶々 | 2010年12月15日 (水) 10時55分

>(「龍馬伝」では)新撰組はいつも3~4人で行動…。

新選組ってだいたい10人~15人で見回りますよね?「数人」だけでは相手の数の方が多い事があるので。
赤穂浪士なら個別に行動してもおかしくないですが。でも、「47士」がまとまって行動していたのは、仕上げの時くらいですね。新撰組の独特の衣装は赤穂浪士からあやかったので、忠義と言う意味では同じポリシーですね。

投稿: えびすこ | 2010年12月15日 (水) 15時53分

えびすこさん、こんばんは~

赤穂浪士がそうであったように、新撰組も、あのお揃いの衣装は、ほとんど着た事がなかったみたいですね。

いざという時のためにいっちょうらはとっておかないといけませんもんね。

投稿: 茶々 | 2010年12月16日 (木) 01時19分

お殿様初めまして。
私の地元の青森の津軽半島の今別に本覚寺があるのですが、この寺の扁額の揮毫が大野さんの手によるものと伝承されております。津軽に落ち延びたらしいのです。討ち入りが行われたとした事が津軽に情報がもたらされました。その時の和尚が村人を前に語ると、一人の男が急にその場を立ち去ります。何故か訳あると問いただしますと、その者は大野であると。この寺で生涯を閉じた事になっております。この寺は津軽家にも縁があり、津軽家は豊臣氏や石田三成にも縁があるので、こうした秘密事は大野さんの伝承も満更嘘でないようにも思えます。
お殿様のブログは楽しく見ました。

投稿: 喜右衛門 | 2017年5月14日 (日) 18時31分

喜右衛門さん、はじめまして…

なるほど…青森にも伝承があるのですね。
まさに、ドラマのように討ち入りが成功して本懐を遂げる事ができましたが、実際討ち入る前には、成功するかどうかわからないわけですから、第2段、第3段の作戦があった可能性もゼロでは無いような気がしますね。

投稿: 茶々 | 2017年5月15日 (月) 01時58分

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