幕末・維新の激流の中…国父・島津久光の泳ぎ方
明治二十年(1887年)12月6日、幕末期の政情に深く関わった薩摩藩の国父・島津久光が、71歳でこの世を去りました。
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ともに、第10代藩主・島津斉興(なりおき)の息子でありながら、正室の弥(いよ)姫を母に持つ兄・斉彬(なりあきら)が、江戸藩邸で生まれ育ち、将来の藩主候補として徹底的な帝王教育を受けたのに対し、8歳年下の弟・島津久光(ひさみつ)は、母がお由羅(ゆら・由良)という父の側室であったため、ず~っと鹿児島育ちの身の上でした。
20歳の時に重富島津家の千百子(ちもこ)の婿養子となり、以来、鹿児島城を出て重富邸に住み、その家督を継ぎました。
しかし、ここに、父・斉興の後継者問題が勃発します。
・・・というのも、父・斉興がなかなか隠居せず、藩主という地位に居続けた事で、兄の斉彬は40歳になっても未だ世子のままだったので、ず~っと江戸藩邸暮らしで、一度も鹿児島に来た事がなかったのです。
確かに、英明だともっぱらの噂ではある江戸の斉彬ですが、一方の鹿児島では、そばにいる優秀な後継者=久光を次期藩主に・・・という声が出て来るようになったのです。
しかも、このタイミングで斉彬の子供たちが次々と亡くなるという出来事が起こり、斉彬を支持する者たちからは、「お由羅が、我が子を藩主にしたいために呪いをかけている」との噂が急上昇・・・斉彬派は、久光を推す側近らの暗殺計画まで立てていたのだとか・・・
世に言う「お由羅騒動」ですが、結局この問題は、幕府老中の阿部政弘が間に入り、嘉永四年(1851年)に、斉興=隠居、斉彬=11代藩主という事で決着します(12月3日参照>>)。
そんなこんなで藩主となった斉彬ですが、ご存じのように、この斉彬さんが、幕末屈指の名君との評判高く、薩摩藩の近代化に努める一方で、中央でも力を持つようになりますが、そんな中で起こったのが、例の次期将軍問題・・・
第13代将軍・徳川家定の後継に、紀伊の家茂(いえもち・当時は慶福)か、水戸の徳川斉昭の息子で一橋家を継いでいる慶喜(よしのぶ)か・・・というアレです。
慶喜を推す斉彬は、その主張のために兵を率いて上洛する計画を立てていたとも言われますが、残念ながら、そんな矢先に急死してしまいます(7月16日参照>>)。
死の直前・・・斉彬は、次期藩主に久光の息子・茂久(もちひさ・後の忠義)を、久光は、その後見人となって采配を振るよう藩の未来を託したのだとか・・・
結局、江戸の将軍就任も家茂に決定し、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)によって、あの安政の大獄(10月7日参照>>)が実施されます。
この急展開に、斉彬の下で頭角を現しつつあった西郷隆盛は自殺未遂するし(11月16日参照>>)、大久保一蔵(後の利通)は倒幕のために脱藩しようとするし・・・大慌ての久光は、「兄貴の遺志を継いで頑張るさかいに!」と、なんとか彼らの動きを止めました。
しかし、今度は、その井伊直弼が桜田門外で暗殺され(3月3日参照>>)・・・「これで、全国の尊王攘夷派が巻き返してくるかも知れない」とばかりに、中央では、公武合体(朝廷と幕府が協力)が急がれるようになり、その象徴とも言うべき、将軍・家茂と、孝明天皇の妹・和宮の結婚が決まりました(8月26日参照>>)。
この公武合体に尽力していた久光は、無位無官の陪臣(ばいしん・直臣ではなく家来の家来)でありながら、幕府の人事にも口出すほどの存在となり、文久二年(1862年)、1000人余りの兵を率いて上洛します。
しかし、一方で、未だ残る薩摩藩内の尊王攘夷派は、この久光の上洛を機会に薩摩藩の方針を一気に尊攘派へ傾けようとの計画を練ります。
この計画を阻止しようとして、薩摩藩士が薩摩藩士を殺害するという騒動・・・これが、あの寺田屋事件です(4月23日参照>>)。
国父(藩主の父)自らが、藩士を討つ命令を出すという荒療治ではありましたが、この行動によって朝廷内の公家たちからの信頼をも勝ち取った久光・・・孝明天皇の命を受け、その足で江戸城へと向かい、慶喜の将軍後見職、松平春嶽(しゅんがく・慶永)の政治総裁職を任命するという政治改革をも行います。
まさに、久光絶頂の時・・・ですが、ここで急展開!
その江戸からの帰り道、久光の行列を横切った外国人たちを無礼撃ちした・・・そう、あの生麦事件(8月21日参照>>)です。
これをきっかけにイギリスとの間で勃発した薩英戦争(7月2日参照>>)・・・結果的には引き分けとなったこの戦いですが、西洋の先進技術を目の当たりにした薩摩は、逆に、イギリスの援助を受けながら藩の武力増強をはかる道へと進み始めます。
この間に八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央政界から追われた長州藩が、巻き返しをはかって大挙押し寄せた禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・
この結果行われた第1次長州征伐では、幕府側にたっていた薩摩藩も、徐々に、その姿勢を変えつつあり、このあたりから、未だ公武合体の夢を捨てきれない久光は、だんだんとカヤの外の置かれるようになり、主導権は西郷隆盛ら志士と呼ばれる人たちに移っていきます。
やがて、西郷らの手によって結ばれる薩長同盟(1月21日参照>>)・・・その後に行われた第2次長州征伐には、表立って参加しなかった薩摩ですが、その長州の処分をめぐっての会議では、家茂亡き後、すでに将軍となっていた慶喜に、長州の冤罪解消を訴える久光でしたが、その願いは一蹴されてしまいます。
この時、遅ればせながら、やっと久光も武力倒幕路線へと切り替えたのです。
やがて、慶喜が大政奉還を決意した、その日、薩摩には討幕の密勅が下され(10月13日参照>>)、こうして、久光は維新を迎える事となります。
生前の兄・斉彬は、弟の久光を勝海舟に紹介する時、
「ちっちゃい時から勉強家で、その博識ぶりは僕なんか到底及ばんマジメ人間ですわ」
と絶大なる信頼を置いて紹介しています。
おそらくは、久光さん自身も、なかなかの人物だったと思います。
しかし、名君と呼ばれた兄の陰で、ひょっとしたら、その後を任されたプレッシャーという物もあったのかも知れません。
その兄に追い付きたい!追い越したい!と奔走する中で、世の中は予想以上の速さで展開し続ける・・・
さらに維新が成った後、評価されるのは、兄の行った産業文化政策や西洋技術の導入であり、最後まで西洋文化に馴染めなかった久光は、むしろ、薩摩の歩みを止めた人と称される・・・
新政府の中心人物を輩出しておきながら、廃藩置県のニュースを正式発表まで、聞かされていなかったという久光さん・・・その時彼は「西郷と大久保に騙された」と言ったとか・・・
それでも、中央政府に呼ばれて、明治六年(1873年)からは内閣顧問や左大臣なども務めましたが、やはり、西洋風な新政府の運営には馴染めず、まもなく鹿児島へ帰って隠居し、郷土史の研究に没頭する毎日だったとか・・・
こうして明治二十年(1887年)12月6日、久光は、波乱万丈の生涯を終えました。
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コメント
「龍馬伝」では島津家の影が薄かったですね。記事にある廃藩置県の際にやけくそになって、花火を打ち上げたと言う逸話もあります。「篤姫」では「主人公の親戚」と言う事で、かなり登場しましたが。「薩摩で生まれ育った」から、薩摩弁をしゃべってもおかしくないですね。
余談ですがNHK大河ドラマは、「玄人(製作する側や年配の視聴者)に受ける作品は視聴率が低い(=素人には不評)」と言う傾向にあります。反対に言うと「玄人に受けない作品は視聴率が高い」らしいです。
投稿: えびすこ | 2010年12月 7日 (火) 09時01分
えびすこさん、こんにちは~
>「玄人に受けない作品は視聴率が高い」
へぇ~
そうなんですか…
「質」を取るか
「実」を取るか
NHKも難しいところですね。
でも、あまりに完璧だとツッコミどころがないので寂しいかも…
投稿: 茶々 | 2010年12月 7日 (火) 11時54分
島津久光に対する印象ですが、どちらかと言えば、考え方の古い人物かもしれません。異母兄である島津斉彬に対して、強い尊敬の念を持っていたようですが、薩摩での暮らしが長かったこともあってか、西郷隆盛からは、田舎者扱いされてしまいました。ただ、久光が国父として、薩摩藩の実権を握り続けていたことを考えると、有能だったのではないでしょうか。余談ですが、明治の世になってからは、久光は、廃藩置県に対する不満から、憂さ晴らしとして、花火を打ち上げさせる行為をしたようですが、もしかしたら、久光は、明治天皇が、日本の頂点に立つことには賛成だが、大名としての地位を保証して欲しかったのではないかという気がしました。
投稿: トト | 2018年7月30日 (月) 22時15分
トトさん、こんばんは~
今年の大河での久光さんは、俳優さんが気の毒なくらい残念な描き方をされてますね~
まぁ、ドラマなので、主人公をカッコ良く見せるためには仕方ないのかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2018年7月31日 (火) 03時27分