賊軍の会津藩主・松平容保が残した物は
明治二十六年(1893年)12月5日、幕末に京都守護職となって京都の治安維持に努め、その後、会津戦争にて官軍に敗れた会津藩主・松平容保が59歳で亡くなりました。
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- 1月9日:鳥羽伏見の戦い終結>>
- 1月23日:徳川慶喜、恭順を決定>>
- 2月10日:松平容保、会津へ帰還>>
- 4月11日:江戸城無血開城>>
- 5月1日:白河口攻防戦>>
- 5月3日:奥羽越列藩同盟、結成>>
- 8月21日:母成峠の戦い>>
- 8月22日:十六橋・戸ノ口原の戦い>>
- 8月23日:城下での戦いが始まる>>
:白虎隊の悲劇>> - 8月25日:娘子軍の奮戦>>
- 8月29日:長命寺の戦い>>
- 9月8日:飯寺の戦い>>
- 9月14日:会津若松城・総攻撃開始>>
- 9月22日:会津若松城・開城>>
・・・と、これまで、会津戦争については、上記の通り、いくつか書かせていただいていますので、本日は、その後の松平容保(かたもり)さんについて・・・
慶応四年(明治元年・1868年)9月22日、降伏謝罪状を、新政府軍の軍監・中村半次郎(後の桐野利秋)に提出した容保は、城中の藩士に見送られ、一旦、滝沢村の妙国寺に入りました。
その後、一命を助けられ、10月中旬には、すでに東京と改称されていた江戸在沖の鳥取藩主・池田邸に永預けとなりますが、翌年には、罪は謹慎に減じられます。
そして、ご存じのように、実子である松平容大(かたはる)に家名再興が認められ、会津藩は斗南(となみ)藩と名を変えて、極寒の地・下北半島に3万石を与えられました。
しかし、以前も書かせていただいたように、当時の下北は、未だ寒風吹きすさぶばかりの未開の荒地・・・この移転は「全藩流刑」と称されたほど過酷な物でした。
かつての家臣たちが北の果ての地で苦労をしている事を伝え聞いた容保の胸中はいかばかりであったでしょうか・・・
やがて明治五年(1872年)、謹慎を解かれた容保は、その8年後の明治十三年(1880年)2月、日光東照宮の宮司となりました。
この宮司時代には、参拝に訪れた徳川慶喜(よしのぶ)との再会もあったと言いますが、果たして、どのような心境だったのか???
・・・と、「胸中はいかばかり」とか、「どのような心境だったのか?」とか、曖昧な表現となってしまいましたが、そんな風にしか書けないほど、容保は、幕末の頃の事を、多くを語る事なく、明治二十六年(1893年)12月5日、東京の小石川にて、59歳の生涯を閉じたのです。
ただ一つ・・・容保が、入浴の時以外は、肌身離さす持っていた小さな竹筒を残して・・・
亡くなった後、遺族によって明らかにされたその竹筒の中身は・・・
文久三年((1863年)10月9日付の、第121代・孝明天皇の宸翰(しんかん・天皇の直筆文書)でした。
「堂上(とうしょう)以下 異
論を陳(の)べ 不正の処置
増長につき 痛心に堪え難く
内命を下せし処(ところ) 速やかに
領掌し 憂患掃(ゆうかんそう)
攘(じょう) 朕(ちん)の存念貫徹
の段 全く其の方の忠誠にて
深く感悦の余り 右
壱(いち)箱之(これ)を遣(つか)わすもの也り」
つまり・・・
「確かに、外国には出てってほしいって思うねんけど、三条実美(さねとみ)とかが、何やら長州藩と組んでたくらんでる事って、ちょっと過激すぎる気がするねん…あんなん耐えられへんわぁ」
と、孝明天皇が日ごろから漏らしていた中、中川宮朝彦(なかがわのみやあさひこ)親王(2009年8月18日参照>>)と会津藩・薩摩藩が組んで、朝廷内の過激な尊攘派を一掃した、あの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)・・・
この宸翰は、そのクーデターを決行して成功させてくれた容保に
「ホンマ、願いを叶えてくれてアリガトゥー…これも、君の忠誠のたまものやで、感謝してるで」
と、送った手紙なわけです。
これとともに・・・
♪たやすかざる 世に武士(もののふ)の 忠誠の
こころを よろこびてよめる ♪
♪和(やわ)らぐも たけき心も
相生(あいおい)のまつの落葉の
あらす栄へむ
武士と心あはして いはほをも
つらぬきてまし 世々のおもひで ♪
という2首の歌も与えています。
しかし、この2年後、孝明天皇は突然崩御し、その後を継いだ新天皇は、幕府を、そして会津を朝敵(国家の敵)として討伐命令を下します。
この時、会津藩は、まずは恭順の姿勢を取り、謹慎処分を願う嘆願書に、この宸翰の写しを添えて、官軍となった諸藩に提出しています。
しかし、それらはすべて、握り潰されました。
倒幕を掲げる薩長にとって、会津は、天皇に刃向かう賊軍でなければならなかったわけです。
それでも、後世の人間から見れば、「もっとうまく立ち回っていたなら、多くの犠牲者を出さずにすんだのに・・・」と、最後まで貫き通した容保の姿勢に苦言を唱える人も多いでしょう。
結局、多くの犠牲者を出しながら、張本人の彼は生きのこっていたわけですし・・・
越前(福井県)の松平春嶽(しゅんがく・慶永)なんかも、自らは幕府内に力を持っているにも関わらず、会津藩祖の保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の家訓をたてに、容保にヨゴレ役の京都守護職を押し付けておきながら、ヤバくなったらおとなしく引き下がる・・・
あの慶喜だって、大坂城にてヤル気満々ぶりを見せておきながら、敗戦となった途端に、トカゲのしっぽ切りのように、会津の容保を孤立させて、自らは、ただひたすら恭順に・・・
そんな中で、不器用なほど忠誠を貫き通した会津の方針が、容保の本心だったのか、周囲に流された結果なのかは、ご本人のみの知るところですが、そんな彼が、この宸翰を、肌身離さず持ち続け、決して処分しようとは思わなかったわけで・・・
そこには、いつか、この書簡の内容が明らかになり、会津の家臣たちが朝敵として死んでいったのではない事が証明される日を待ち望んでいた彼がいたのかも知れません。
♪今もなほ したふ心は かはらねど
はたとせあまり 世は過ぎにけり ♪
「今も、(亡くなった家臣たちを)慕う気持ちは変わらないのに、もう20余年も過ぎてしまった」
これは、容保が亡くなる3年前、戊辰戦争戦没者招魂碑が建てられる事になった澄月寺(ちょうげつじ)にて戦没者の23回忌が行われた時に、容保が詠んだ歌・・・
おそらくは、首から下げた竹筒を握りしめるたび、彼には、口には出せない思いがあった事でしょう。
それは、亡くなるその日まで、終始変わる事なく・・・
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コメント
『創業は易く守成は難し』
ふと、この言葉が思い出されました。
投稿: ことかね | 2010年12月 7日 (火) 15時28分
ことかねさん、こんばんは~
やはり、守り抜く事は難しいのですね~
投稿: 茶々 | 2010年12月 7日 (火) 23時56分
今日が命日なんですね。8日の八重の桜の第49回で登場しますがこれが最後かな?
ちょうど120年前だから今年と干支が同じ(2順前の「癸巳」)です。
折しも昨日は東日本大震災発生から1000日目です。
投稿: えびすこ | 2013年12月 5日 (木) 10時48分
えびすこさん、こんにちは~
このあいだの放送で久しぶりに秋月さんが出て来たので、もうすぐ西田敏行さんの西郷頼母も出るんでしょうか?
最終回へ向けて、順々に会津の人が登場するのかも…
投稿: 茶々 | 2013年12月 5日 (木) 12時05分