長宗我部元親を変えてしまった息子・信親の死
天正十四年(1586年)12月12日、九州征伐を開始した豊臣秀吉の軍と、迎え撃つ島津家久の軍が戸次川にて交戦・・・長宗我信親が討死しました。
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『南海治乱記』には、この日の戸次(へつぎ)川の戦いについて、逸話が紹介されています。
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徐々に戦況がヤバくなってきたこの戦いの最中、十河存保(そごうながやす)は、自らの家臣に向かって
「俺が昔、阿波(あわ・徳島県)の領主やった頃、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の息子・信親(のぶちか)とも、何べんも戦うたけど、とうとう決着がつかんかった。
正直なところ、今でも恨みがあるよって、アイツの首を見てみたいもんやと今でも思てる…
せやよって、信親に声をかけて、討死させるようにして、恨みを晴らすつもりや」
と、いきなりの宣言したのたとか・・・
そして、信親のもとに使者を送り
「今日の戦いは仙石久秀のアホな作戦が敗因とは言え、負けたなら、大将である俺らの恥じにもなりまっせ。
せやから、ワイが加勢しますよって、信親はんも引き返して島津との勝負を決めてください」
と伝えて、自らは颯爽と敵陣に向かって突っ込んで行ったのです。
自身も勇猛果敢な武将だった信親は、快く了承・・・敵の真っ只中に突っ込んで行って激しく戦い、二人ともに壮絶な死を遂げたました。
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・・・と、確かに、この十河さん、
三好義賢(みよしよしかた)の息子として生まれながらも、十河氏を継いだ後、兄・三好長治(ながはる)とともに阿波・讃岐(さぬき・香川県)に勢力を伸ばすも、長宗我部軍によって虎丸城を落とされて降伏・・・元親に四国の平定を許してしまったという過去があります(9月21日参照>>)。
しかし、何たって、「昨日の敵は今日の友」の戦国です。
今や、お互いが、四国を平定した豊臣秀吉の配下となり、ともに島津と戦っている状況下で、未だ33歳の男盛りの命を懸け、自らの十河家という家をも犠牲にしてまで、以前の恨みを晴らすとは、とても考えい難い・・・(存保には幼い後継ぎがいましたが、この敗戦の責任を負わされて領地を没収されています)
おそらくは、将来有望な若き武将の死にざまを、劇的に演出したい軍記物特有の創作なのでしょうが、存保も、そして信親も、ともに、この戸次川の戦いで、壮絶な討死を遂げた事は確か・・・
この戸次川の戦いの内容につきましては、以前、この戦いの開始の日づけでブログにて紹介させていただいていますがので、ソチラで見ていただくとして(11月25日参照>>)・・・
この時、島津から手痛い敗北を喰らう豊臣軍・・・
軍監の仙石久秀(せんごくひさひで)だってなかなかの名将・・・長宗我部元親だって、土佐の出来人としてその名を馳せ(5月26日参照>>)、一度は、四国平定を成し遂げた武将なのは、皆さまご存じの通りです。
しかし、いくら名将揃いでも、ともに戦う以上、そのチームワークによる連携プレーが一番のかなめなわけで、ひとえに、この戸次川の敗因は連携の悪さにあったと言えるかも知れません。
天正十四年(1586年)12月12日・・・この日、討死した信親は、その言葉づかいと言い、立ちい振る舞いと言い、にじみ出るやさしさの中に、その知勇を兼ね備えた元親自慢の嫡男であったと言われています。
実際には、この時、久秀からの戸次川渡川の命令を受けた信親は、
「今、川を渡るのは、罠に挑むキツネと同じ・・・まったくの自滅だ!」
と、まさに、あの
「事件は会議室で起きてるんじゃない!」…by青島刑事
のごとき言葉を吐き捨て、配下の優秀な家臣団=700人とともに、敵陣に突っ込んで行ったと言います。
・・・で、この優秀な後継ぎを失った父・元親の落ち込みぶりは、相当なものだったとか・・・
この翌年、元親の傷心を慰めようと、秀吉は、元親に大隅国(鹿児島県東部)を与える事を打診しますが、彼はこれを辞退・・・
戦いから2年後の天正十六年(1588年)には、四男・盛親(もりちか)を後継者に指名しますが、これに反対した一族や家臣団に死を命じてまで、強引に進め、それは、まるで人が変わったようだったと言います。
その後は、浦戸城(うらどじょう)にて、領国の経営に尽力したという元親ですが、やはり、現役の頃のスルドさはなかったとも・・・信親の死が、元親にとって、いかに大きかったかを物語っているようです。
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コメント
それまでがとても素晴らしい人物だっただけに元親のこの後の所行は見るに堪えないものがあります・・・
信親の娘を盛親に娶らせた辺りにも、どれほど信親を元親は愛していたか。
てなわけで秀久は私にとって最も憎い戦国武将です!←
投稿: ポリー | 2010年12月14日 (火) 01時11分
ポリーさん、こんにちは~
>私にとって最も憎い戦国武将…
確かに、長宗我部側から見れば、そうですよね~
信親さんが後継者になっていたら、関ヶ原も少し変わっていたかもしてません。
そしたら、土佐に山上一豊が来る事もなく…
でも、そうすると幕末は…っと妄想が膨らみますね~
投稿: 茶々 | 2010年12月14日 (火) 09時26分