右近衛大将を3日で辞任した源頼朝の思惑
建久元年(1190年)12月1日、前年に奥州藤原氏を倒した源頼朝が右近衛大将および権大納言に任じられました。
・・・・・・・・・
ご存じ、壇ノ浦で平家を滅ぼし(3月24日参照>>)、その後、合戦に功績のあった弟・源義経(よしつね)を追放し(10月11日参照>>)、今度は、それをかくまったとして、奥州平泉に文句をつけた源氏の棟梁・源頼朝(みなもとのよりとも)・・・
そんな頼朝が、約100年・4代に渡って奥州に君臨した、その藤原氏を攻め滅ぼしたのは、文治五年(1189年)秋の事でした(8月10日参照>>)。
そして、あの征夷大将軍に任命されるのが、ご存じ建久三年(1192年)・・・(7月12日参照>>)
以前は、これを鎌倉幕府の成立として、「イイクニ(1192)造ろう鎌倉幕府」との語呂合わせで覚えるのが定番でしたが、最近では、すでにそれ以前に、頼朝政権の関東での支配が行われていたとして、「イイハコ(1185)造ろう」と覚えるそうで・・・
・・・で、この頼朝さん、冒頭に書かせていただいた通り、征夷大将軍に任命される2年前の建久元年(1190年)12月1日、右近衛(うこのえ)大将と権大納言に任じられていました。
ところが、その在任期間はわずか3日・・・そう、この12月4日には右近衛大将を辞任しちゃいます。
なぜに???
実は、この時、すでに頼朝は、征夷大将軍が欲しかったのです。
いや、厳密には、この時じゃありませんね~
あの、打倒平家を夢見て伊豆で挙兵したあの日(8月17日参照>>)から、平家の次は奥州と心に決めていたのかも知れません。
それは、約100年前にさかのぼります。
そもそもは、蝦夷(えみし)という差別用語で呼ばれ、長きに渡って中央政府に敵対していた東北地方を、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が平定しますが(11月5日参照>>)、そこに先住していたすべての人が滅ぼされたわけではなく、多くの子孫は日本名を名乗り、中央の傘下として同化する事で生き残ってきたわけです。
それが、安倍氏や清原氏・・・そこに、中央から、統治あるいは監視役のような形で派遣されていたのが源頼義(よりよし)であり、その息子の源義家(よしいえ)というわけです。
義家は、八幡太郎という名でよく知られる源氏きっての猛将ですが、その名でおわかりの通り、頼朝の4代前の曽々ジッチャンに当たります。
その頼義の時代に、反乱を起こしたとして安倍氏が滅ぼされた戦いが前九年の役(9月17日参照>>)と呼ばれる戦いで、残った清原氏の内部抗争が後三年の役・・・
・・・で、この時、後三年の役に参戦した義家が、「私的なお家騒動に中央政府から派遣されている者が関わった」として、陸奥(むつ)の国司を解任されてしまい、残った清原氏の清原清衡(きよはらのきよひら)が、父方の藤原姓を名乗り、火事場泥棒的に統治を開始・・・これが、奥州藤原氏の誕生となったのです(11月14日参照>>)。
つまり、その義家の直系子孫である頼朝からみれば、
「ホンマやったら、ここ(東北)は俺らが統治する場所やんけ!」
との思いがあるわけです。
そして、例のごとく、治承四年(文治元年・1185年)、平家を滅ぼした頼朝・・・いよいよ奥州に手を伸ばしたいところですが、さすがに関東一円から信州・北陸・東海を手中に収めている頼朝と言えど、勝手に手を出すわけにはいきません。
しかし、文治三年(1187年)10月・・・奥州藤原氏の大黒柱として君臨していた3代目=藤原秀衡(ひでひら)が亡くなります。
しかも、頼朝にとって幸いな事に、鎌倉の許可を得ず勝手に官位を受けた事で怒りを買った弟・義経が、この奥州・平泉に逃げ込んでいます(2月10日参照>>)。
早速、翌年の2月、朝廷から義経追討の院宣(いんぜん・法皇の命令)を受け取った頼朝・・・これで、正当な理由のもと、藤原氏にチョッカイを出せます。
さらに、同じ年の10月にも、のらりくらりとかわす新当主・藤原泰衡(やすひら)に揺さぶりをかけるべく、再び・・・2度目の義経追討の院宣を受け取ります。
そして、翌・文治五年(1189年)6月、その揺さぶりに屈した泰衡が義経を追い詰め、その首を差し出します・・・と、本来なら、ここで頼朝の奥州追及は終わるはず・・・
しかし、それから1ヶ月とたたない6月25日、頼朝は、今度は、その泰衡追討の院宣を朝廷に求めるのです。
これで、堂々と奥州を攻める大義名分を得たというわけです。
こうして、念願だった奥州藤原氏を倒した頼朝・・・
しかし、上記の院宣は、あくまで「藤原泰衡を追討せと」という院宣・・・泰衡が死んだとは言え、それだけで、この先、この地を統治できるという事にはなりませんから、やっぱり、欲しいのは征夷大将軍という東北のあらゆる敵を、正々堂々と倒せる役職・・・
もちろん、この右近衛大将というのが朝廷を守る大将で、京都に常駐しなければならないという点も蹴った理由の一つでしょうが・・・なんせ、頼朝は、関東に地盤を置きたいのですから・・・
しかし、ここに頼朝の征夷大将軍・就任に反対していた人が・・・それが、誰あろう日本一の大天狗=後白河法皇でした。
やがて、右近衛大将を蹴ってから2年後の建久三年(1192年)、後白河法皇が亡くなって、頼朝は、やっと征夷大将軍の座を手に入れたというわけです。
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コメント
「武士の棟梁=征夷大将軍」と言うブランドが確立したのもこの時ですね。
ところで先日、「平清盛」の頼朝の父・源義朝役に玉木宏さんが内定したのですが、NHK大河ドラマで主要配役が、「放送前々年」に決まるのは異例ですね。
投稿: えびすこ | 2010年12月 3日 (金) 08時48分
えびすこさん、こんにちは~
義朝は、頼朝が大人になる前に亡くなるので、俳優さんの起用も、あまり悩まずにすみますね。
投稿: 茶々 | 2010年12月 3日 (金) 13時23分