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2010年12月15日 (水)

恭仁京?志香楽宮?~聖武天皇・迷走の謎

 

天平十二年(740年)12月15日、第45代・聖武天皇が恭仁京に遷都しました。

・・・・・・・・・・

藤原不比等(ふひと)の意向により、藤原一族の繁栄のシンボルとして誕生した聖武天(8月3日参照>>)・・・しかし、その不比等の息子たち藤原4兄弟が、流行の天然痘などで次々と死亡し、情勢は少しずつ変化してきます。

奥さんの光明皇后の異母兄にあたる橘諸兄(たちばなのもろえ)(11月11日参照>>)や、学者の吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)を側近に親政を行う聖武天皇ですが、その頃には、皇后の甥っ子の藤原仲麻呂(なかまろ・恵美押勝)も力をつけてきます。

そんなこんなの天平十二年(740年)9月、大宰府に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)が、中央政界に力を持つ現側近らの排除を要求して、九州にて蜂起したのです・・・ご存じ藤原広嗣の乱です(9月3日参照>>)

早速、討伐軍を派遣する聖武天皇ですが、その一方で、その経過を見届けないままの9月26日・・・

いきなり
「朕(ちん)思うところあって、しばらく関東に行っちゃうもんね~~」
と、言い、さっさと平城京を後にしてしまったのです。

以前も大仏建立に絡めて書かせていただいた(10月15日参照>>)聖武天皇・迷走の旅の始まりです。

乱が平城京にまで波及するのを恐れたのか?
天然痘の恐怖にじっとしていられなかったのか?

今もなお、様々な憶測を呼ぶ謎の行動ですが、行幸には、光明皇后も諸兄も同行している事から、単なる逃避行の可能性も高く、中には、はりきって始めた親政に、批判の乱が勃発した事で、ノイローゼになった天皇が起こした、まったく意味のない行動・・・なんて事も言われたりします。

とにかく、秋に平城京を出て、三重県を通り、冬には滋賀県へと入った天皇・・・この年の12月には恭仁(くに)の地(京都府木津市加茂町)都の造営を開始し、天平十二年(740年)12月15日恭仁京(くにきょう・くにのみや)に遷都したのです。

平城京を出てから、ほぼ毎日移動し続けた2ヶ月半・・・おそらく同行していた人たちもホッとした事でしょう。

ところがドッコイ
この聖武天皇の迷走は、ここから5年間も続きます。

この時、遷都された恭仁京・・・天平十五年(743年)の12月まで続けられた、この恭仁京の造営事業でしたが、未だ、完成を見ないうちに、聖武天皇は、今度は近江志香楽宮(しがらきのみや・滋賀県甲賀市)(5月24日参照>>)造営も開始しちゃいます。

なのに、未だ志香楽宮造営の真っ最中の天平十六年(744年)閏正月・・・
「なぁ、都を恭仁にするか難波にするか迷てんねん」
と、官人たちに質問を投げかけたあげく、

「恭仁京にすべきでっせ」
という圧倒的な意見を無視して、2月26日には、強引に難波宮(なにわのみや)を都に決定して引っ越してしまいます(12月11日参照>>)

「ほな、なんで、俺らに聞いてん!」
という官人のツッコミの嵐もなんのその・・・

翌年の正月には、またまた志香楽宮に引っ越しておきながら、その5月には、結局、平城京へと戻って、やっとこさ落ち着きます。

まぁ、後半のウロウロについては、恭仁一帯は橘諸兄の本拠地で、志香楽宮一帯は藤原仲麻呂の故郷・・・って事で、この2大勢力の誘致合戦のハザマでの天皇の迷走とも言えなくもないのですが・・・今も昔も、権力者の一声は大きいからなぁ

Syoumumiyukiroot330
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・と、ここで、一つ、聖武天皇の名誉のためにも、最初の頃の迷走について、ある一つの仮説をご紹介します。

秋から冬の、平城京から恭仁京・・・この進路を見て、何か感じませんか?

そうです。

あの壬申の乱で、吉野を出た大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)のたどったルートです(7月4日参照>>)

大いなる戦いに挑み、それを勝利に導いた曽祖父=天武天皇のたどった道を、再び歩く事で、今、直面している政情の不安に、「全員一丸となって立ち向かって行きたい!」

聖武天皇にとっては、逃避行でも迷走でもなく、自らとその仲間の士気を高めるための旅だったかも知れないのです。

まぁ、単に、街道として機能していた道を通っただけなのかも知れませんけどね(゚ー゚;
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コメント

志香楽宮の方は一昨日の夜の、「水戸黄門」で触れていましたね。現在の「信楽」ですね。
焼き物で有名ですが、一時は日本の首都だったんですね。
「平城京1300年」で沸いた今年ももうすぐ終わりますね。来年2011年は大正元号なら「100年」ですね。

投稿: えびすこ | 2010年12月15日 (水) 15時25分

えびすこさん、こんばんは~

そうですか…水戸黄門で…

水戸黄門は以前に枚方宿の話をやった事もあり、けっこうマイナーどころをチョイスしてくれます。

投稿: 茶々 | 2010年12月16日 (木) 01時22分

お遍路さんを連想しました。管総理もしてましたね。
何か情けない理由で。

でも、5年は長い。かえって病気になりそうですが。

ところで、
>しばらく関東に行っちゃうもんね~~
       ↑ここはツッコんだら負けでしょうか?

投稿: ことかね | 2010年12月17日 (金) 12時19分

ことかねさん、こんにちは~

>しばらく関東に…

まぁ、この時代の「関」は不破の関って事で…
それでも出てませんなぁ((・(ェ)・;))

投稿: 茶々 | 2010年12月17日 (金) 14時13分

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