24歳からの再出発~若き日の前田利家
天文七年(1538年)12月25日、後に加賀百万石の祖として知られる前田利家が誕生しています。
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今日は、前田利家(としいえ)さんのお誕生日という事で、すでに有名な話かも知れませんが、その前半生・・・若き頃のお話を・・・
とは言え、その内容は、主に『亜想公御夜話(あそうこうおんやわ)』という文献に登場するお話・・・この『亜想公御夜話』は、『陳前録(ちんぜんろく)』とも『利家夜話(としいえやわ)』とも呼ばれる物で、晩年の利家が、若き家臣たちに語って聞かせた夜話=武勇伝なわけで、
ひょっとしたら、どう考えてもそうは見えない中年のマジメなサラリーマンが「俺は昔、相当なワルでさぁ」とハッタリをかましてる・・・あのお笑い芸人さんの「切れたナイフ」発言に似た所のあるシロモノかも知れないわけですが、成功者の回顧録というのは、多かれ少なかれ、そういった尾ひれがつくのも当たり前なわけで、
とりあえずは、そんなこんなを踏まえて、ガンバッた先人の昔語りをひも解いてみましょう。
・‥…━━━☆
尾張荒子城(おわりあらこじょう・名古屋市)主の前田利昌(としまさ)の四男として生まれた利家は、14歳の時、五十貫文(125石相当)を貰って、織田信長の小姓となりました。
この頃の信長は、ご存じのように、とても殿さまとは思えない風貌で領内を闊歩していた「うつけ」の真っ最中・・・
同じように利家も、城主の子とは思えない派手ないでたちで流行りの小歌をがなり立てながら、イキがっては喧嘩にあけくれる「かぶき者」の代表格だったのです。
しかも、彼は少し腕に覚えがある・・・そう、当時、又左衛門と名乗っていた利家は、後に「槍の又左」と称されるほどの槍の名手で、すでにこの時、これまた派手なこしらえをした槍を持って、肩で風切って城下を練り歩いていたわけで、遠くから彼の姿を見つけた人々が、すかさず木の影に隠れて、何とかやりすごすといったくらい、関わりたくない不良少年だったのです。
しかし、やがて訪れた19歳の時・・・その自慢の腕が功を奏します。
信長の弟・信行が、「我こそは織田の後継者」とばかりに、兄・信長に反旗をひるがえした(11月2日参照>>)尾張稲生(いのう)の戦いでした。
ここで、敵の小姓頭・宮井官兵衛なるツワモノを倒した利家・・・おかげで、プラス十貫文の加増を受け、家臣も持てるようになり、あのまつ(7月16日参照>>)との結婚も果たしました。
ところがドッコイ、22歳の時に事件を起こしてしまうのです。
もともとは、同じ織田家内で雑用係のような事をやっていた拾阿弥(じゅうあみ)なる人物が、利家が大事にしてる刀の笄(こうがい・鞘についてる飾り)を盗んだ事にはじまる・・・つまり、相手が悪いわけですが、
最初は、信長に「拾阿弥を成敗させてください」と、丁寧に願い出ていた利家でしたが、信長にとっては、拾阿弥もまた、可愛がってる小姓なわけで、なかなかOKしてくれません。
しかも、佐々成政(さっさなりまさ)のところに逃げ込んだ拾阿弥は、利家が手出しをできないと知るや、イイ気になって、まったく反省の色も無く、むしろ「ざまぁ見ろ」と言わんばかりの態度・・・
これに、とうとうブチ切れる利家・・・
その昔、城下を走り回ってブイブイ言わせた頃の族魂がムクムクとよみがえり、なんと、信長の目の前で、その拾阿弥をブッタ斬ってしまったのです。
当然、激怒する信長・・・即座に「死罪」を申しわたされた利家でしたが、そこに入ってくれたのがあの柴田勝家・・・
勝家の助け船によって、なんとか死は免れたものの、その処分は出仕停止=つまり織田家をクビになっちゃいました。
「やって、もぉた…ヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ」
そう、族の頭として走り回っていた昔と違い、今は、嫁も子供もいる身・・・落ち着いて考えたら、大変な事をしでかしてしまいました。
しかし、「やってもぉた」物は、もう、どうしようもありません。
こうなったら、なんとかこの腕一本で勝負に出るしかない!
最初のチャンスは、その翌年、すぐにやってきます。
それは、あの桶狭間の戦いでした(5月19日参照>>)。
この時、利家は、ただ一人で参戦し、敵将の首を挙げ、信長のもとに馳せ参じます。
しかし、ご存じのように、この戦いは、いわゆる奇襲戦・・・未だ、一地方侍の信長にとって、海道一の弓取り=今川義元(よしもと)を討つだけの戦いであったわけで、むしろ、その1点集中だったからこそ成功した戦いでしたから、信長が欲しいのは義元の首のみ・・・
なので、結局、利家の功績は無視されてしまったのです。
しかし、ここで諦めては男がすたる・・・
さらに1年経った頃・・・今度は、美濃(岐阜県)に矛先を向けた信長が斉藤龍興(たつおき)と戦った時、またまた単独で参戦した利家は、敵の豪将・足立六兵衛の首を討ち取ったのです(5月14日参照>>)。
「心は富士山ほど高く・・・」
これは、晩年に昔語りをする利家が、聞き入る家臣に何度も何度も言い聞かせた言葉・・・
「富士山ほどに高い心を以って主君に仕えなさい」
という意味ですが、この時の主君というのは、もちろん信長の事・・・
後に、足軽時代の親友だった豊臣秀吉の傘下で、天下人にも匹敵するほどの力を持つ利家ですが、晩年になっても、やはり彼にとって主君と呼べる人は、信長、ただ一人だった事でしょう。
この後、おじいちゃんになっても消えないような主君への思い・・・信長も、そんな利家の思いを、この二度目の首献上で感じたのかも知れません。
この足立六兵衛の首と引き換えに、信長は利家を許し、彼は、織田家家臣に復活したのです。
さぁ、男・利家、24歳からの再出発の始まりです。
*その後のお話は、ご命日である3月3日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々さんメリークリスマス!(もうおわりましたが…)
クリスマスが利家誕生日なんですね~
本人もキリスト教を信じてたようですから、(高山右近かばったりしたんですよね?)自分の誕生日がイエス様と一緒だと本人も知ってたかもしれませんね。ひそかに祝ってたらおもしろいかも…あ、戦国時代は誕生日は祝わないんでしたっけ?だったらないか…
「男・利家、24歳からの再出発」続き期待してます!
長々とすみませんでした!
投稿: 暗離音渡 | 2010年12月26日 (日) 00時41分
暗離音渡さん、メリークリスマス
そうですね、能登のお寺にはキリシタン灯籠を配したお庭があるそうですし、前田家はキリシタンに寛大だったと言いますから、利家さんも喜んでいたかも…ですね。
投稿: 茶々 | 2010年12月26日 (日) 02時00分
「利家とまつ」の序盤でも触れていましたね。あれからもう8年(年が明ければ9年)ですか。懐かしいですね。
茶坊主を斬り捨てにして蟄居された事は記憶していましたが、「結婚後の事件」だったとは忘れていました。
だいたい「1貫=2.5石」なんですね。覚えておきます。
投稿: えびすこ | 2010年12月26日 (日) 09時03分
>五十貫文(125石相当)
いまいちピンとこないので調べてみました。
貫:1貫文=1,000文=永楽銭1,000枚
永楽銭≒五円玉の重さ3.75g=1匁
50貫文は、五円玉5万枚くらいで約190kg。重っ!!
石:1石=1,000合≒1人/1年間で米を食べる量
=1反(約1,000㎡)の田んぼから取れる米の量
1反≒2.5俵収穫
125石分は、約313俵。
五公五民として250石、25万㎡の土地が必要。
なんと東京ドーム5個分!!(って、よけいワカラン!)
↓円換算はこちら。1貫文の画像あり。
ttp://members2.jcom.home.ne.jp/s0810matsui/sizen/kanrinin/040904-3kan.htm
投稿: ことかね | 2010年12月26日 (日) 17時01分
えびすこさん、こんばんは~
「利家とまつ」の頃は多忙な時期で、ドラマは見てませんが、やってたんですね~
投稿: 茶々 | 2010年12月27日 (月) 01時17分
ことかねさん、こんばんは~
私には「100万石はスゴイ」くらいの事しかわかりません┐( ̄ヘ ̄)┌
投稿: 茶々 | 2010年12月27日 (月) 01時18分