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2010年12月28日 (火)

武田信玄の初陣~海ノ口城・奇襲戦

 

天文五年(1536年)12月28日、この年に元服したばかりの武田信玄が、信濃海ノ口城を攻め落とし、初陣を飾りました。

・・・・・・・・・

甲斐(山梨県)の守護・武田信虎(のぶとら)が、自国に進攻して来た福島正成を撃退したという飯田河原の戦い(10月16日参照>>)・・・その真っ最中に生まれたとされる武田信玄は、天文五年(1536年)、16歳で元服し、第12代室町幕府将軍・足利義晴(よしはる)の一字をもらい、晴信(はるのぶ)と名乗りました(ややこしくなるので本日は信玄で統一させていただきます)

当時の甲斐は、東は北条氏相模(さがみ・神奈川県)、南は今川氏駿河(するが・静岡県中央部)という大国と接し、西は赤石山脈という巨大な壁に阻まれて、なかなか他国との往来も困難でした。

さらに、この甲斐という国・・・一説には、その語源が山狭(やまかい)からきていると言われるくらい山や谷だらけの平地が少ない領地でもありました。

農業が主たる財源であった当時の状況から見れば、そんな甲斐の北方に広がる信濃(長野県)とても魅力的・・・

しかも当時の信濃は、守護大名の小笠原長時(ながとき)府中(松本市)にいるものの、その勢力は周辺の松本盆地付近に限られていて、それ以外は、地元の豪族や国人が、それぞれにひしめき合っている状態・・・

それらを一つ一つ倒し、信濃を自国の領土にする事は、信玄の父・信虎にとって悲願だったのです。

天文五年(1536年)の年の暮れ、約7千の兵を率いて佐久(長野県南佐久郡)方面に侵出した信虎は、佐久平賀城主・平賀玄信(げんしん・源心・成頼)ら2千の籠る海ノ口城に攻め寄せました。

この戦いに、信玄が父に従って参戦・・・これが、信玄の初陣とされます。

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武田信玄初陣の図(信松院蔵)

しかし、多勢で城を囲んだとは言え、もはや極寒の信濃・・・36日間囲んでも攻め落とせなかった信虎は、天文五年(1536年)12月28日真冬の到来とともに、兵を退きあげる事にします。

この時、自ら志願して殿(しんがり)をかって出た信玄・・・

殿とは、ご存じのように、軍団の最後尾の事・・・撤退戦では、追いすがる敵と戦いながらの最も難しい役なわけですが、300ほどの手勢を従えた信玄は、信虎以下、すべての武田軍が去った後に、海ノ口城を後にしました。

いや・・・後にしたフリをしました。

撤退したと見せかけて、近くの山間に身をひそめ、一夜を明かしたのです。

一方の海ノ口城では、武田軍の撤退を確信して、多くの城兵が帰ってしまいます

やがて、白々と夜が明け始める早朝・・・油断して守りが手薄になった海ノ口城に戻った信玄は、一気に奇襲をかけ、見事、敵将・玄信の首を討ち取ったのです。

父が1ヶ月かかって落とせなかった城を、わずか1日で・・・
それも、初陣で・・・

後の天才的な戦略ぶりをうかがわせる、まさにサラブレッドのデビュー戦といった感じですが、残念ながら、この合戦の記録は、あの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にしか書かれておらず、現在では、「おそらく創作であろう」というのが一般的な見方です。

一説には、この見事な奇襲戦の勝利をも、父・信虎が信玄の手柄と認めなかった事が、父子の確執を増幅させ、後の「信虎追放」にもつながる・・・なんて事も言われますが、この合戦自体が創作で、しかも佐久平賀城主・平賀玄信なる人物の存在も疑問視されているのですから、そうなるとその父子の確執もあったような、無かったような・・・って事になります。

ただし、当時の風習として、元服のすぐ後に初陣を飾るという事はよくあったそうなので、この年の信玄の元服が、事実であろうと思われる以上、事細かな逸話は別として、この頃に初陣を経験したであろうという事は、間違いないようです。

まぁ、とりあえずは、戦国屈指の名将のデビューですから、多少尾ひれのついた華やかな一戦とするのも、ドラマチックでよいのではないかと・・・

そして、この5年後・・・信玄は父・信虎を追放して、武田家を掌握する事となるのですが、そのお話は2008年の6月14日のページでどうぞ>>
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コメント

後にライバルとなる上杉謙信の初陣も鮮やかと聞きます。確かに「初陣でドジを踏んだ」と言う武将はあまり聞きませんね。
山梨県の人は「山ばかりなのにヤマナシ」とよく言いますが、「甲斐」の語源はあながちそういう感じかも知れないですね。あと山梨県は「出身文化人」が少ない土地柄らしいです。

投稿: | 2010年12月29日 (水) 09時37分

P.S.
ごめんなさい。名前を書き忘れました。

投稿: えびすこ | 2010年12月29日 (水) 09時38分

茶々様、こんにちは。
大事な跡取りに危険なしんがりを任せる? 変な話のような気がします。

投稿: いんちき | 2010年12月29日 (水) 12時36分

えびすこさん、こんにちは~

>山梨県は「出身文化人」が少ない土地柄…

そうなんですか?
「ケンミンショー」にはどんなゲストが出てるんでしょ?
今度チェックします。

投稿: 茶々 | 2010年12月29日 (水) 15時21分

いんちきさん、こんにちは~

>大事な跡取りに…

ドラマや小説などでは、この後の信虎追放と絡めて、やはり父子には確執があって、「信虎は、弟をあと取りにしようとしていた」という描き方をされる事が多いですね。

投稿: 茶々 | 2010年12月29日 (水) 15時24分

山梨県出身の芸能人。「ケンミンショー」に何人か出ますね。山梨県には割とすし屋が多いんです。

そういえば笑点の企画で、「卓球川中島」と言う事をやりまして、武田信玄に扮した三遊亭小遊三師匠(山梨県人)と、上杉謙信に扮した林家こん平師匠(新潟県人)が対戦しました。

投稿: えびすこ | 2010年12月29日 (水) 21時53分

えびすこさん、こんばんは~

>山梨県には割とすし屋が…

そうなんですか?
海がないぶん、人が欲するのでしょうか?
おもしろいです。

投稿: 茶々 | 2010年12月29日 (水) 23時44分

信玄初陣は事実である、敵将平賀源心の首塚が山梨の若神子にあり胴塚が平沢峠にあります、又武田信玄100回忌の奉納絵【信玄初陣の像】が八王子信松院に秘蔵の事実。近年、甲陽軍鑑の史料として高く評価.東大名誉教授黒田日出男・東北大名誉教授浅野祐一・作家井沢元彦が力説している。

投稿: 山田昌夫 | 2021年11月 9日 (火) 15時04分

山田昌夫さん、こんばんは~

初陣は事実だと思いますが、問題はそこに付属する物語ですよね。
後に信玄がカリスマ的存在になるので、お話に、少々の尾ひれがついてしまうのも致し方ないところだと思います。

投稿: 茶々 | 2021年11月10日 (水) 04時33分

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