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2010年12月 2日 (木)

国人から戦国大名へ~毛利元就を支えた国衆

 

弘治三年(1557年)12月2日、毛利元就が重臣とともに傘連判による契状をしたため、安芸と備後の国衆との連帯を強めました。

・・・てな事で、本日は、土着の国人から西国の雄へと変貌する毛利元就(もうりもとなり)の支えとなった、その家臣団についてご紹介させていただきましょう。

・・・・・・・・・・

そもそも元就は、父・毛利広元(ひろもと)の次男として生まれたので、毛利家の後継ぎではありませんでした。

やがて父が、長男の興元(おきもと)に家督を譲って引退すると、父とともに本拠地の安芸(あき・広島県西部)郡山城を出て、多治比(たじい)猿懸(さるがけ)に引っ込みました。

しかし、その父は永正三年(1506年)、元就がまだ10歳の頃に亡くなってしまいます。

以来、父の隠居後の所領を継いで「多治比殿」と呼ばれた元就・・・この頃の元就の家臣は、平佐元堅(ひらさもとかた)など、ごく少数しかしませんでした。

その10年後、兄・興元が24歳の若さで亡くなり、その息子・幸松丸がわずか2歳で家督を継ぎます。

Mourimotonari600 これを受けて、21歳になっていた元就は、幸松丸の後見人という形で、ようやく表舞台に登場する事となり、華やかな初陣を飾る(10月22日参照>>)事になるのですが、ここでも、毛利家譜代の家臣は、あくまで主君である幸松丸の家臣という事になりますので、庶家の立場である元就の家臣は、それほど多くはなかったのです。

しかし、結果的には、それが功を奏したとも言える事に・・・実は、この時代に、後に元就を支える家臣たちが続々を集まっているのです。

たとえば、後の毛利五奉行の一人・児玉就忠(こだまなりただ)などは、安芸国賀茂郡地頭の息子で、若い頃から元就に奉公し、一人前の武将となるべき訓練の受けた人物・・・つまり、元就のもとでは、譜代の家臣が少ないぶん、これまでの系譜や家柄にこだわらず、実力さえあれば、上へ上へとのしあがっていく事ができたのです。

そうなれば、自然と、「我こそは!」と思う優秀な者が集まってくるのは当然ですよね。

そして大永三年(1523年)、今度は、かの幸松丸が、わずか9歳で病死してしまい、元就が毛利家を継ぐ事になり郡山城に入城します。

この時、元就を支えたのは、広元・興元・幸丸の3代で執権を務めた志道広良(しじひろよし)
「(3月19日参照>>)など、親類に当たる家臣たちでした。

しかし、この毛利家を元就が継ぐ事を、多くの譜代の家臣たちが賛成していたとは言え、未だ反対意見もあり、一枚岩とはいかなかったのです。

それは、元就の異母弟の相合元綱(あいおうもとつな)・・・彼を後継者に推す声が一部にあったのです。

しかし、それを押さえつけてくれたのが、父・広元の時代に頭角を現して来た井上元兼(もとかね)とその一族・・・しかし、これが、押さえつけてくれたがは良いが、その功績により、あまりにも特出した力を毛利家内で握ってしまいます。

「このままでは、こっちがヤバイ(;´Д`)
と思った元就・・・天文十九年(1550年)、井上一族を排除し、その家臣・238名に、元就に忠誠を誓う連署起請文を提出させて、やっと毛利家内を一枚岩にする事に成功しました。

このように形成された毛利家の家臣団は「吉田衆」と呼ばれましたが、この時点では、毛利は、未だ大内氏の配下にある安芸・備後(びんご・広島県東部)国衆のうちの一人でしかありません。

国衆とは、室町時代の地頭・御家人の系譜を引く国人領主・・・ここらたりから、同格である彼らから一歩抜きん出た元就・戦国大名への道が始まります。

自立意識の高い国人衆を毛利の支配下に置くために元就がとった作戦は、婚姻や養子縁組による強固な関係を築く事・・・

元就の次男・元春吉川家に、三男・隆景小早川家(9月27日参照>>)・・・って話は有名ですが、この二人以外にも、四男・元清に伊予水軍配下の来島通康(くるしまみちやす)の娘を娶らせて穂田資元(すけもと)の養子に、五男・元秋椙社家(すぎのもり・周防国)に、六男・元倶(もととも)出羽家(いずは・石見国)に、七男・元政天野家(あまの・安芸国)にと、子だくさんフル活用で、養子に送り込んでいます。

また、自らの娘を安芸五龍城主の宍戸隆家(ししどたかいえ)に嫁がせ、二人の間にできた娘を、孫の輝元の嫁にするといった相互関係の構築も・・・

こうして、徐々に国衆の中での地位を獲得していく元就は、やがて周囲の国衆への軍事指揮権も行使できるようになり、いよいよ天文二十三年(1554年)、それまでは、持ちつ持たれつの関係にあった陶晴堅(すえはるかた)と決別し(4月8日参照>>)、翌年には、あの戦国三大奇襲=厳島の戦い(10月1日参照>>)で、その実力を見せつけます。

とは言え、これらの国衆は、あくまで独立した存在で、いざ合戦となった時、どれくらいの軍勢を率いて参戦するかには明確な基準もなく、その都度、毛利と各国衆の間で、個別な協議が行われて決定されていたのです。

つまり、まさかに時の為に、日ごろから国衆との関係を良好に保つ必要があったわけです。

しかし、弘治三年(1557年)2月19日に毛利が攻撃した周防(山口県)須々万沼(すすまぬま)の攻防戦では、小早川家以外の国衆の軍勢の数は、元就の家臣団よりも少なかったのだとか・・・

弘治三年(1557年)12月2日に行われた(からかさ)連判による契状は、その連帯の再確認・・・こうして、常に子に衆との連携を強めておく事こそ、西国に君臨した毛利家の土台となっていたというわけです。
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