ガンと戦いながらの執筆~東洋のルソー・中江兆民
明治三十四年(1901年)12月13日、明治の思想家・ジャーナリストで「東洋のルソー」と称される中江兆民が54歳で、この世を去りました。
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「坂本龍馬の額が禿げあがってるのは、梅毒(女遊びのしすぎ)で髪が抜け落ちたから・・・」
と、龍馬ファンにとっては、あまりうれしくない証言をしてくれちゃってる中江兆民(ちょうみん)・・・
フランスの思想家・ルソーの『社会契約論』を漢文に約した『民約訳解』を発表した事から、「東洋のルソー」として有名です。
高知城下の足軽身分の家に生まれた兆民は、文久二年(1862年)に開校したばかりの藩校・文武館に入学し、その後、土佐藩の留学生として長崎にやってきました。
龍馬と親交があったのはこの頃で、未だ少年だった兆民は、よく龍馬に頼まれてタバコなどを買いに行ったという、要するに「パシリ」だったわけで、「やっぱ、大物は違うなぁ~」という褒め言葉がありつつも、まぁ、ちょっとくだけた爆弾発言もしちゃうような間柄だったのかも知れません。
とは言え、この長崎でフランス語を学び、わずが数年後には、開港したばかりの兵庫(神戸)で、フランス外交団の通訳ができるくらいに上達するのですから大したものです。
やがて維新が成ると通訳を辞職し、大久保利通(としみち)に頼み込んで、明治四年(1871年)に派遣された岩倉使節団(10月8日参照>>)の一員となってフランスに渡り、ここで2年間を過ごします。
帰国後は、その海外経験を生かして、フランス学の普及を目指す仏学塾を開校します。
その後、後藤象二郎を通じて、一時は元老院にもなった兆民でしたが、明治十年(1877年)に辞職してからは、仏学塾での研究と教育に没頭し、2度と官職に戻る事はありませんでした。
そんなこんなの明治十四年(1881年)、フランス時代から親交のあった西園寺公望(さいおんじきんもち)らとともに東洋自由新聞の刊行をはじめ、フランス的自由民権の確立を目指しつつ藩閥政治批判を展開する言論活動へと向かっていきます。
兆民自ら執筆する自由新聞の社説は、なかなかの評判だったとか・・・
これらの政府批判で一時は追放処分を喰らった兆民でしたが、明治二十二年(1889年)に処分が解けて出馬した選挙では、見事トップ当選を果たして国会議員となり、立憲民主党の結党にも奔走しました。
しかし、明治二十四年(1891年)、ともに戦っていたにも関わらず、政府側に妥協した自由党土佐派の裏切りに怒り爆発して「議会は無血虫の陳列場や!」との捨てゼリフを残して辞職します。
無血虫(むけつちゅう)=つまり「国会は、血の通わない虫みたいなヤツらばっかり」って事・・・なんか、今でも通じるような言葉ですね。
その後も、新聞での執筆活動や、仲間の応援に出かける兆民でしたが、明治三十四年(1901年)3月、旅先の大阪で呼吸困難になって倒れてしまいます。
・・・と言っても、少し前からノドが痛かったり、声がかれたりという自覚症状はあったのですが、倒れるまでになったのは、この時がはじめて・・・
そして、医者の診断は・・・食道がん
「大事にすれば1年半はもつかも・・・」
そう、今で言う「告知」を受けたのです。
病室のベッドに横たわりながら、もはや、声を出す事が苦痛となっていた兆民は、無言のまま・・・枕元に置いていた原稿を手に取り、その一番目のページに「一年有半」の文字を書きました。
これが、身近な事から同時代の人物や政治、文学から芸能に至るまでを随筆風に書いた社会批評の著書『一年有半』・・・幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らの手によって出版されたこの本は、兆民の遺書と宣伝され、大変なベストセラーとなります。
東京に戻り、5月にはノドを切開する手術に挑みながら、病ををおして、さらなる執筆活動を続ける兆民・・・もはや、書き続けられないほど病気が悪化する日もあったものの、医者と相談しつつ投薬を続けながら、なんとか完成させました。
明治三十四年(1901年)12月13日、結局は、医者の告知した1年半を待たずにこの世を去る兆民・・・思えば、その無理をおしての執筆が、彼の死期を早めたのかも知れませんが、そうしてまでも書きたかった最後の著書が、哲学・宗教への激烈な批判を展開させ、兆民思想の総決算の書とも言われる『続一年有半』でした。
この最後の2冊は、発売から1年で30万部を越える大ヒットになったとか・・。
ちなみに、「葬式はするな」という彼の遺言に従って、直後の葬儀は行われませんでしたが、後に有志によるお別れ会のような物が行われる事となり、その死亡広告で初めて「告別式」なる言葉が使われ、現在の告別式という言葉の元祖となっています。
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コメント
連投で済みません。長曽我部、中江兆民と高知ゆかりのかたが続いているのにコメントがないのは残念ですネ!これも、大河ドラマのコウイショウでしょうかね!福〇龍馬一人を英雄にしすぎた・・。これは妻〇〇直江でも・・
ところで、十河一族は未だに香川では強い団結力ですし、お父様が香川出身の同級生の十河君は大柄で、いかにも武将体形です。また偶然かも知れませんが、先祖、直系が武家だという人の多くは体格は立派な人も見られますね。勿論、今映画で話題の算盤が得意な武士もいたでしょうが・・頭の髪の毛の禿げ方も逃亡者のリチャードキンブル型??・・
投稿: syunchan | 2010年12月14日 (火) 01時08分
syunchanさん、こんにちは~
>これも、大河ドラマのコウイショウ…
アハッ!そうかも知れませんね。
「龍馬伝」はなかなかおもしろかったですが、なにやら、龍馬というスーパーマン一人で、すべてを成し遂げたかのような雰囲気には、私も少々…
もう少し、青春群像的な造りの中での龍馬と土佐の偉人たちの絡みを見てみたかったですね。
弥太郎はたっぷり絡んでましたがΣ(;・∀・)
投稿: 茶々 | 2010年12月14日 (火) 09時22分
中江兆民(本名は篤介)が若い頃に、大久保利通が馬車に乗って移動している時に、「国家のために、私をぜひ留学させて下さい。」として、直訴したという話は、聞いたことがあります。兆民からの直訴に対して、利通は、後藤象二郎や板垣退助に相談した上で、留学生として採用したようですね。最終的には、留学生としての兆民の経験が、自由民権運動や執筆活動の礎になったのだと思います。話は逸れてしまいますが、兆民にとっては恩人であった利通が、紀尾井坂の変において、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名の不平士族に暗殺されたことを、兆民は、どう思っていたのでしょうか?
投稿: トト | 2015年12月23日 (水) 08時45分
トトさん、こんばんは~
維新が成った明治には、「学問で1発当てて成りあがってやろう」という気概のある若者と、金と名誉を持つ人が「それを育てて行ってやろう」という土壌がありましたね。
投稿: 茶々 | 2015年12月24日 (木) 02時24分