世渡り上手に交渉上手~松前・蠣崎慶広の生き残り
文禄二年(1593年)1月5日、戦国大名・蠣崎慶広が、豊臣秀吉から正式に蝦夷地の支配を認められました。
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もともとは、若狭(福井県南部)を統治していた源氏の流れを汲む若狭武田氏の武田信繁(のぶしげ)の近親者であった者が、15世紀半ばに、若狭から下北半島へと移住し、陸奥(むつ・青森県)や出羽北部(でわ・秋田県)を治めていた安東政季(あんどうまさすえ)の娘婿となった後、蝦夷地(えぞ・北海道)に渡って蠣崎季繁(かきざきすえしげ)と名乗り、道南一帯に館を建て、アイヌとの交易窓口の一つとなっていたとされます(伝承の域を出ない話ではありますが…)。
しかし長禄元年(1457年)、アイヌとの間に発生したトラブルが武力闘争に発展したコマシャインの戦いで館のほとんどを落とされ、季繁が窮地に立っていたところ、蠣崎氏の客将として滞在していた、やはり若狭武田氏出身の武田信広という人物の大活躍で九死に一生を得たのだとか・・・
この功績から、信広は季繁の婿養子となって蠣崎氏を継ぐ事になり、蝦夷地での蠣崎氏の支配勢力も確固たるものになったとの事・・・
で、今回の主役である蠣崎慶広(かきざきよしひろ)さんは、その信広から数えて、5代めの当主に当たります。
しかし、この頃の慶広は、安東氏からの離脱を考えていました。
ご先祖が婿養子という立場だった事からか、未だに、その安東氏の家臣として扱われる事に、かねがね不満を持っていたところ、絶好のチャンスがやってきたのです。
時は天正十八年(1590年)・・・そう、あの豊臣秀吉の小田原征伐(11月24日参照>>)です。
ご存じのように、この時、秀吉は、全国の大名に、豊臣側からの参戦を呼びかけました。
それは、未だ秀吉の支配の及んでいない東北にも届き、実際に、この時に速やかに参戦しなかった武将は「豊臣の傘下になる気はない」とみなして、小田原の北条氏を倒した後すぐ、秀吉は奥州征伐を行ってます(11月24日参照>>)。
・・・で、もとより安東氏からの離脱を夢見る慶広は、この呼びかけに答えていち早く上洛し、秀吉に謁見・・・従五位下・民部大輔(みんぶたいふ)の官位の取得に成功しています。
その後、奥州征伐がらみでの九戸(くのへ)の乱(9月4日参照>>)でも、九戸城を包囲する豊臣軍の一翼を担い、毒矢などを駆使して奮戦しつつ、その討伐に貢献しました。
やがて文禄元年(1592年)・・・ご存じの朝鮮出兵=文禄の役(4月13日参照>>)です。
この時も慶広は、いち早く、出兵の拠点となる肥前(ひぜん・佐賀県)名護屋城(唐津市)に駆けつけています。
しかも、もはや、秀吉の性格を心得たもので、その拝謁には、蝦夷錦の派手な衣服を身にまとっての参上・・・その思惑通り、異国の雰囲気を感じるその衣装に、遠い蝦夷地から、この九州まで馳せ参じてくれた事を痛感する秀吉・・・
そうです。
この秀吉の感激が、そのまま、翌・文禄二年(1593年)1月5日に、正式に蝦夷地の支配を認められるという結果をもたらしたのです。
う~ん、コノ世渡り上手(*゚∀゚)=3
この慶広の世渡り上手は、秀吉が亡くなった後のややこしい時期にもいかんなく発揮されます。
すばやく、徳川家康に近づいた慶広は、慶長四年(1599年)に、その姓を蠣崎から松前に改めて心機一転・・・東軍の松前慶広(まつまえよしひろ)として関ヶ原に参戦し、しかも、家康への臣下の証として蝦夷地図も献上しています。
一説には、かの「松前」という姓も、家康の旧姓の松平の「松」と、前田利家の「前」から一字ずつとったとも言われ、一時期の秀吉を彷彿とさせる「人たらし」ぶりは、どんだけウマイねん(*^m^)って感じですな。
その献身ぶりが功を奏したのか、
家康が征夷大将軍になった翌年の慶長九年(1604年)には、家康から蝦夷地における交易独占権を公認されます。
松前氏の蝦夷支配を公認する徳川家康の黒印状(北海道開拓記念館蔵)
ここに、やっと悲願の独立領主の座を手に入れたのです。
その後、完成した松前城に拠点を移し、江戸を通じて松前藩として存続する事になった松前氏・・・
勘違いのないように申し上げておきますが、かの「世渡り上手」というのは、私にとって褒め言葉であります。
支配者がコロコロと変わる戦国の世・・・一人の主君に忠誠を誓って華々しく散るのも戦国武将なら、時々の情勢を読み取って家の存続を第一に考えるのも戦国武将・・・
ともに張り巡らす策略が小気味いいのです。
その点、この慶広さんは、動乱の中で多くの東北の雄が散る中、見事、家を守って生き残り、松前藩の礎となった・・・その交渉術・外交手腕は、一級品と言うべきでしょう。
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コメント
蠣崎氏(松前氏)の始祖が若狭武田の流れを組むのとは『新羅之記録』にありますね。
武田信広は実在性の不確かな人物で出自も不確定ですが、陸奥には南部氏や浅利氏など甲斐源氏の一族が勢力をもっていて、遡れば新羅三郎義光が後三年戦役で陸奥を平定した歴史的由緒があり、蠣崎氏は東北・北海道において地歩を築くために、甲斐源氏後裔を称したのではないかと言われていますね。
若狭武田・南部・蠣崎の三者は海上交易もしているらしく、「甲斐源氏」という広い一族間の交流史はあるみたいです。
投稿: 黒駒 | 2011年1月10日 (月) 03時36分
黒駒さん、こんばんは~
もう、戦国時代になると出自も言いたい放題ですからね。
家康自体が怪しいので、もう、止める人もいないんじゃ?って思います。
投稿: 茶々 | 2011年1月10日 (月) 21時57分
勉強になりました。安東俊幸
投稿: 安東俊幸 | 2011年2月 4日 (金) 07時04分
安東俊幸さん、こんにちは~
安東氏の研究をされている方から見れば、つたない内容でしょうが、また、ご訪問くださいm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2011年2月 4日 (金) 14時35分
はじめまして。
自分の苗字の歴史を調べていたところ、こちらのサイトを発見し拝見させて頂きました。
アイヌとの歴史については、そこそこイメージできていたのですが、こちらのサイトでは安東氏、豊臣氏、徳川氏との接点がすごくわかりやすくイメージできました。
すごく勉強になりましたのでお礼の書き込みです。
ありがとうございます。
投稿: 蠣崎 | 2011年9月25日 (日) 00時49分
蠣崎さん、こんばんは~
そうですか…ひょっとしたらご先祖様かも知れないのですね。
ルーツを探っていくのは、わくわくします。
また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2011年9月25日 (日) 01時54分
松前藩の礎を築いた蠣崎慶広(後の松前慶広)は、我々日本人が、北海道で暮らす上での、先駆者といっても過言ではないでしょう。それに、今年の3月26日に、北海道新幹線が開業したことを考えると、戦国時代において、慶広が、北海道の歴史に大きな1ページを書き込んだと思います。その一方で、アイヌの人たちが、迫害を受けてしまった歴史があったことを忘れてはなりませんね。あと、世渡り上手という点では、細川幽斎(剃髪前は、藤孝)&忠興親子や藤堂高虎にも匹敵しますね。
投稿: トト | 2016年3月27日 (日) 14時34分
トトさん、こんにちは~
いつの世も、世渡り上手でないと生き抜いていけませんね~
投稿: 茶々 | 2016年3月27日 (日) 16時54分