若い嫁にはご注意を~北条時政の失脚と牧の方
建保三年(1215年)1月6日、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子の父である北条時政が、78歳でこの世を去りました。
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「歴史は勝者が作る物」なんて事、言われます。
それは、記紀が編さんされた奈良時代から・・・いや、それ以前からあった事でしょう。
戦いに勝利して政権を握った者は、自分がいかにして、その政権の樹立したかを、自分の目線で記録に残しますが、それは、大体において、それまでの歴史を末梢してしまうという事でもあります。
まぁ、そういう所の隠れた部分を推理していく事こそが歴史の醍醐味なんですけどね。
そんな中、源平の争いに撃ち勝って、鎌倉幕府をいう本邦初の武士政権を樹立した源頼朝(みなもとのよりとも)・・・しかし、考えてみれば、頼朝の直系は、思い通りの手腕を発揮できないまま、わずか3代で絶え、その後、約130余年に渡る鎌倉幕府を牛耳るのは、執権となった北条氏なのですから、あの源平争乱の真の勝利者というのは、この北条氏だったのかも知れません。
そして、その鎌倉幕府の公式記録とも言えるのが、あの『吾妻鏡(あずまかがみ)』・・・上記の「歴史は勝者が…」の原理からいくと、おそらくは、その内容も幕府に都合の良いようにわん曲されている可能性大で、江戸の昔から、その真偽のほどが研究され続けてきました。
しかし、そんな幕府寄りの記録にも関わらず、北条時政(ほうじょうときまさ)の出自についてはウヤムヤにゴマかされたままとなっています。
こういう場合、大抵は、多かれ少なかれのハッタリをカマして、高貴な血筋とつなげてみたり、けっこう勢力を誇っていた一族のように書き残すのが、公式記録の常套手段ですが、時政に関しては、その官位すら残っておらず、おそらくは、そんなハッタリをカマす事もできないほどの、小さな地方豪族であったのでしょう。
しかし、娘婿がらみとは言え、そんなところから天下を掌握する地位にまで上り詰めるのですから、その先見の明や対応能力という物には、目を見張る物があったという事でしょう。
そんな時政さん・・・すでにブログに書かせていただいているように、平治の乱で敗れた源義朝(みなもとのよしとも)の息子で、戦後に捕えられて伊豆に流罪となっていた源頼朝の監視役となった事が、彼の運命を変えます(2月9日参照>>)。
もちろん、そこには「どうしても頼朝と結婚したい!」と、その恋心を貫いた時政の娘・北条政子がいたわけですが、頼朝が先に、その娘に手をつけた同じ監視役の伊藤祐親(すけちか)は、生まれた孫をその手で殺害してまで二人を引き離しますが、時政は、そうはしなかった・・・(8月17日参照>>)
結局は、二人の仲を許し、そのうえ、婿殿の挙兵に全面協力・・・そこには、平家に見切りをつけて、源氏の御曹司にその人生を賭けようと決断した時政の時代を見る目が光っていたはずです。
やがて、平家との戦いに勝利した頼朝は、異母弟である義経(よしつね)(4月30日参照>>)や範頼(のりより)(月17日参照>>)を死に追いやってまで、自らの直系にその地位を継がせようと考えましたが、その願い空しく、早くも頼朝の死(12月27日参照>>)とともに、幕府内の勢力争いが始まります。
まずは、頼朝と苦楽をともにした梶原景時(かじわらかげとき)が失脚し(1月20日参照>>)、次に比企能員(ひきよしかず)・・・
この能員は、頼朝と政子の間に生まれた2代将軍・頼家(よりいえ)の嫁の父・・・つまり、これまで、自分が将軍の嫁の父として権勢を振ってきた時政にとって、頼朝の死後に同じ立場となる比企氏は、必ず自分にとって代わる存在になる・・・と、脅威以外の何物でもなかったわけです。
これには、騙し討ちというキタナイ手を使ってまで抹殺し(9月2日参照>>)、最終的に、嫁はんベッタリの頼家まで死に追いやり(7月18日参照>>)、その弟の実朝(さねとも)を第3代将軍に仕立て、時政自らが、その後見人にとなる事で、再び、幕府の実権を握るという手に出ます。
そして建仁三年(1203年)には、初代・執権となり、まさに頂点に・・・
続く元久二年(1205年)には、猛将の畠山重忠(はたけやましげただ)を倒して(6月22日参照>>)、さらに幕府内での地位を揺るぎないものに・・・残る頼朝時代からの大者は、あの和田義盛(よしもり)だけか?!
・・・と、
ここまで、戦国武将を彷彿とさせる謀略で、見事に北条の地位を固めて来た時政さん・・・
しかし、ここに来て、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまいます。
ここまで野心まるだしの時政さんともあろうお方が・・・いや、それも男の性という物でしょうか・・・
後妻として娶った若い嫁=牧の方(まきのかた)の色香に負けて、少々、その判断が狂ってしまったような???
そもそもは、先の畠山重忠のページにも書かせていただいた通り、この重忠討伐の時点から牧の方の意向が反映されていたのです。
この牧の方には、平賀朝雅(ともまさ)という連れ子がいたわけですが、その朝雅が酒の席で、重忠の息子・畠山重保(しげやす)と口論になり、「公衆の前で恥をかかされた」と母・牧の方に訴え、その牧の方が夫の時政に、「アイツ、殺っちゃてヨ」と、色っぽい目で迫った事がキッカケ・・・
とは言え、ここまでは、北条氏には害をもたらさない事だったので、娘の政子も息子の義時(よしとき)も黙認してたわけですが、このあと、事もあろうか、牧の方は、「朝雅を将軍の座につけたい」と、時政に迫るのです。
確かに、朝雅の父は、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)の弟・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の血をひく立派な源氏・・・この後、頼朝の直系が絶える事を考えれば、無い話ではありませんが、この時点では、未だ実朝が健在ですから、それを廃して将軍になるというのは、ちょっと・・・
しかし、もはや牧の方にゾッコンの時政・・・
「ムリ、言うなや~」
と、嫁をたしなめるどころか、逆に、実孫の実朝・暗殺計画を企てるまでになってしまいます。
さすがに
「父ちゃん、アホか!」
と、ブチ切れる政子と義時・・・
すかさずクーデターのクーデターを決行し、朝雅を殺害!
慌てた時政は、頭を丸めて出家し、娘と息子に謝罪をしますが、もはや、後の祭り・・・許してもらえるはずもありませんでした。
さすがに、実父とあって死罪にされる事はありませんでしたが、伊豆への流罪を申しわたされた後、中央政界に復活する事はありませんでした。
いや、復活するどころか、鎌倉に入る事すら許されなかったとか・・・
こうして失意の晩年となった時政・・・失脚から10年経った建保三年(1215年)1月6日、流刑先の伊豆にてひっそりと、その78年の生涯を閉じました。
女は魔物・・・まして、歳をとってからの若い嫁さんには、くれぐれもハマらないように・・・
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コメント
今年の「平清盛」ではまだ配役が未定(2011年12月31日時点)ですが、誰になるんでしょうか?杏さんの父親役なのでベテランの人でしょうね。実父の渡辺謙さんだと安易かな?
大河ドラマにおける平安時代の作品は数が少ないので、「誰に誰の役」のイメージが難しいと言えますね。「清盛時代」で見ると過去20年の比較対象はわずか2作(「炎立つ」の終盤と「義経」)だけです。
投稿: えびすこ | 2012年1月 3日 (火) 11時16分
えびすこさん、こんばんは~
渡辺謙さんではギャラ的な物が…(;´▽`A``
「仲代達矢さんを越えられるか?」が造り手の目標かも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年1月 3日 (火) 18時14分
「仲代達矢さん(1972年「新・平家物語」は21.4%)を超える事」は、「義経」の19.5%を超える事でもありますね。
「平清盛」は新・平家物語とは趣旨が若干違うようです。
ところでNHKは大河ドラマの主人公になる人の子孫の人に、「貴方の先祖の~を主人公にして、こういう趣旨の番組にしようと思いますが…」と構想時点で打診して、承諾を得る事はしているんでしょうか?今年の場合は無理ですが、あらかじめ末裔の人に話をつける必要もあるのでは。
投稿: えびすこ | 2012年1月 5日 (木) 11時15分
えびすこさん、こんにちは~
>子孫の人に、「貴方の先祖の~を主人公にして、こういう趣旨の番組にしようと思いますが…」と構想時点で打診して、承諾を得る事はしているんでしょうか?
たぶん「無い」と思いますよ。
伊達政宗の子孫の方のように、家紋などを登録商標にしておられる場合は、何かしらの承諾はいるのでしょうかねぇ(^-^;
最近では、中原中也の子孫の方が、写真などを登録商標に申請しようとした時、「公共性のある人物」だとして、議論の対象になったと聞きましたが、その後、どうなったのか?よく知りません。
投稿: 茶々 | 2012年1月 5日 (木) 14時18分
やはり政子は、最強!子を守ろうともしているので、モンスターペアレントのような...
投稿: ゆうと | 2012年3月28日 (水) 05時48分
ゆうとさん、こんにちは~
「亡き頼朝の残した物を守らねば!」という気持ちが強かったのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年3月28日 (水) 14時01分