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2011年1月12日 (水)

信長が保護した瀬戸物の長き道のり

 

天正二年(1574)1月12日、織田信長瀬戸に焼き物の特権を与えました。

・・・・・・・・・

お皿や茶碗などの焼物の事を、一般的に「瀬戸物(せともの)と呼びますが、お察しの通り、これはもともとは、現在の愛知県瀬戸市で造られていた焼物の事を瀬戸物と呼んでいた物が、それが、あまりにも有名になったので、焼物の総称として呼ばれるようになった・・・あのセロテープマジックインキ・・・あとチャッカマンボンドなんかもそうですかね。

とは言え、瀬戸で焼物が造られはじめるのは、それが瀬戸物と呼ばれるず~と前・・・縄文時代にさかのぼります。

しかし、この時代は、いわゆる縄文式土器の時代で、瀬戸だからという特徴がある物ではなく、粘土などを600~800度くらいの温度で焼きあげるという物です。

そんな焼物に瀬戸独特の特徴が現れ始めるのは鎌倉時代・・・ここで、日本初の釉薬(ゆうやく・うわぐすり)がかけられた焼物=陶器が、瀬戸に出現したのけです。

こちらは1200~1300度くらいの温度で焼きあげた後、そのままでは吸水性の高かった素地に釉薬をかける事で、その欠点を克服した画期的な製品だったわけで、当時は、まだ、どこもやっていない製法・・・この耐水性が瀬戸物を一気にトップ製品に押し上げます。

そうです。
ちょうど、あの栄西が中国からお茶を持ち帰ったのが建久二年(1191年)(2006年10月31日参照>>)・・・セレブな流行の最先端に、水に強い瀬戸物はピッタリだったわけです。

しかし、同時に、その頃は日宋貿易も盛んな頃でしたから、需要があるとなると、どんどんと大陸からの陶器も日本に入ってくるわけで、そうなると国産品も、同じ事をやっているだけでは太刀打ちできなくなり、様々な工夫をこらしながら、生き残りをかけて成長していく事となります。

Odanobunaga400a そのうち生産拠点が美濃(岐阜県)に移ったりなんかしながらも、やがて天正二年(1574)1月12日信長が瀬戸に焼き物の特権を与えるという保護政策に乗り出し、瀬戸の焼物=瀬戸物を「瀬戸物」と呼ぶという事も、ここで定着します。
商標登録、あるいは特許申請という事かいな?)

この保護政策のおかげか、あるいは同時期に大流行しはじめた茶の湯の効果(2008年10月31日参照>>)、この頃から、瀬戸物にも様々な特徴ある物が出現します。

白い釉薬をふんだんにかけた淡い色合いが特徴の志野焼や、あの古田織部(ふるたおりべ)(6月11日参照>>)のアイデアによる奇抜で斬新なデザインの織部焼などなど・・・

こうして茶の湯の名器として珍重され、あの徳川家康の遺産の一つにも数えられた瀬戸物でしたが、江戸時代に入って最強のライバルが登場します。

そう、有田焼(伊万里)の出現です。

豊臣秀吉のあの朝鮮出兵の時にやって来たという朝鮮の陶工・李参平(りさんぺい)が、元和二年(1616年)に良質の磁石を発見して、磁器を焼くのに成功した事に始まると言われる有田焼は、あの酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)赤絵付の登場によって、一気に人気ランキングのトップに躍り出たのです。

その人気は国内にとどまらず、ヨーロッパでも、またたく間にニセモノが登場するほどだったと言いますからi-padも真っ青です。

この人気に、さすがの瀬戸物も押され気味・・・しばらく不遇の時代を過ごす事になりますが、江戸も後期に入ると、その有田で焼物を学んで来た加藤民吉(かとうたみきち)という人が、故郷・瀬戸に戻り、その技術をもとに磁器の生産を本格的に開始した事で、またもや急展開!

従来の陶器を「本業焼」、新たに開発された磁器を「新製焼」と区別することで生き残り、こちらも、有田焼同様、海外でも大きな評価を得て、今に至る隆盛を誇る事になります。

そんな瀬戸物も、ここしばらく続く不況で、どうしても海外産の安価な物に庶民の手が伸び、ちょっとばかりの苦戦を強いられているとの事ですが、時には、本物の瀬戸物でお茶を飲むのも一興かと・・・

と、最後に蛇足の豆知識を一つ・・・(*゚ー゚*)

陶磁器に限らず、よくお店でセットとして売られている食器類は、洋食器が6枚で1セット和食器は5枚で1セットとなっていますが、この起源は・・・

まぁ、簡単に言うと和洋の文化・習慣違いっちゃぁ違いなわけで、後づけのこじつけ的な諸説あるうちの一つという感じではありますが・・・

欧米では、あのキリスト教の観点から、東西南北に天と地を加えた6という数字が、全能の神による天地創造の完成を意味する聖なる数字である事・・・

それに加えて、古くから1ダースなどの12進法が主流であって、6はその半分という事で何かと便利という2点から6個セットという事になったのだとか・・・

一方の和食器は、ご存じのように、日本では昔から奇数が縁起が良い物とされて来たからだと・・・

う~ん、確かに「七五三」「御三家」「三大○○」「七福神」「ウルトラセブン(←最近すぎるやろ!)・・・だったら、3か7になりそうなものですが、やっぱ、3だと少ないし、7だと多い・・・祝儀袋に入れるお札の事も考えて、まぁ、5がちょうどいいってトコですかね???

オソマツでした・・・( ̄○ ̄;)!
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コメント

瀬戸物が信長と縁があるとは知りませんでした。今日の記事に出てきた古田織部は、「へうげもの」の主人公ですね。「へうげもの」は趣味に凝る人の意味です。

アクセス数がもうすぐ300万回になりますね。

投稿: えびすこ | 2011年1月12日 (水) 14時44分

奇数を聖なる数としてたのは縄文時代までさかのぼるそうで、土器の飾りや取っ手が3個だったり地域によっては5単位にこだわったり、三内丸山遺跡の巨木柱列の6本は3の倍数、柱の長さや間隔は7の倍数とも言われてるそうです。それにしても民吉君、えらいけどラッキーでもあったんじゃ。へたすればスパイ扱いされてたかも?そしてまんざらそんな部分もなきにしもあらず?でも結局うまく瀬戸物が今日まで生き残るようになったし、有田焼も世界に誇る芸術作品だし。生き残る術を見つけるのは難しいけど、いいものは大切に次世代に残していきたい。現代の民吉君、がんばれ!

投稿: Hiromin | 2011年1月12日 (水) 22時57分

えびすこさん、こんばんは~

>アクセス数が…

気にとめていただいてありがとうございます。

5周年が先か300万が先かww

投稿: 茶々 | 2011年1月13日 (木) 02時05分

Hirominさん、こんばんは~

確かに、スパイっぽい感じはありますが、それがなかったら瀬戸物が現代に生き残っていなかったかも…

文句の一つも言わない度量の大きい有田さんに感謝です。

投稿: 茶々 | 2011年1月13日 (木) 02時09分

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