和装から洋装へ…女性の服装も文明開化
明治二十年(1887年)1月17日、昭憲皇后が、女性の服装に関してのお召し書を出されました。
・・・・・・・
「西洋の女服を見るに、衣と裳(も)と具(そな)うることは本朝の旧制のごとくして、ひとえに立礼に適するのみならず、身体の動作、行歩の運転に便利なれば、その裁縫に倣(なら)わんこと当然の理なるべし」
つまり・・・
西洋の服は上下に分かれているけど、これは、衣と裳(成人式のページの画像を参照>>)があった昔ながらのこの国の衣装と同じ・・・立礼に適してるし、動きやすいし、歩くのにも便利なんやから、コレを使わん手はないで!
てな感じですね。
昭憲皇后(しょうけんこうごう・追号は昭憲皇太后)は、あの明治天皇の奥さん・・・その方がこうして、女性も洋服を着る事を推進される事で、国民にも広く洋服を着てもらおうという試みなわけです。
ちなみに、この時に昭憲皇后が出されたお召し書きを重視して、現在でも、皇室の女性の皆さまは、正式な場所では洋装でお出ましになる事になってます。
ところで、明治維新となってから様々な事が西洋化されていきますが、服装や身だしなみなど、長年身に着いたはなかなか捨てがたく、それが変化するには思いのほか時間がかかりました。
そもそもは、あの戊辰戦争の時に、西洋の軍事技術を導入すると同時に、その制服も採用されはじめ、後に政権を握った明治新政府も西洋式軍服を採用した事で、多くの一般男性は、軍服という形で初めての洋服を体験する事になったわけです(3月15日参照>>)。
それに続くように明治四年(1871年)8月には断髪令が発布され、チョンマゲ禁止になったのですが、やはり、なかなか一般男性が髪を切る事はありませんでした。
翌・明治五年の11月には、政府が公式の礼服に洋服を採用する事を決定し、一部はこの波に乗っかって行くのですが、やはり、それは、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)に代表されるような上流階級の人たちばかり・・・
で、なかなか髪を切らない庶民のために、一役かって出られたのが明治天皇・・・断髪の法令が出てから2年後の明治六年の3月に、天皇自身が自ら率先してショートヘアにされた事で、一気に断髪が普及したのです(8月9日参照>>)。
皇室を敬う気持ちの強い明治の人々にとって、明治天皇はお手本とすべき方・・・「その方が率先してされるなら・・・」というわけですね。
それは皇后陛下にも言える事でした。
実は昭憲皇后は、その明治五年の3月3日のひな祭りの日にも、自らがお歯黒・眉墨をやめ、文明開化への模範を示しておられました。
そして、今度は、2度目の変換期とばかりに、明治二十年(1887年)1月17日、女性の服装に関してのお召し書を出されたのです。
ここで、多くの女性が・・・と言いたいところですが、やはり、これも一部の上流階級のみ・・・
と言うのも、すでに明治四年に、女性をターゲットにした横浜ローズマンド洋服屋が、「ヨーロッパから取り寄せたホンモノの生地を使う本物志向の洋服を・・・」というキャッチフレーズでオープンしたりなんかして、徐々にそんなお店も増えてはいましたが、なんせ、その値段がハンパなく、とてもじゃないが庶民に手が出せるような品ではないわけで・・・
しかも、あまりにも過剰に西洋志向な新政府には、誰だって反発したくなるのもの・・・結局、逆に庶民は、古代からの古き良き物を求める傾向になってしまい、女性が洋服にチェンジするまでには、もうしばらくの時間を要する事になります。
ところで、ある調査によれば、洋服での肺活量を100とした場合、着物を着て帯をしめた時の肺活量は84くらいなんだそうです。
息苦しいはずですね~
これは、明治以前の女性の息苦しさでもあり、その頃は女学(父・夫・子に従う三従の教え)を身につけている事が女性として良い事で、夫を主人と思い、実の親より舅を大事にするのが賢く親孝行であったわけです。
何を言いたいかと言いますと、本日の昭憲皇后のご提案からは、かなり後々の事ではありますが、一般女性の服装が着物から洋服に変わるにあたって、一番の貢献をしたのが、賢い女性の定義を「女学」から「学問を身につけている」事に変えた女学生の出現だったからです。
彼女らは、着物を身につけてはいますが、大帯の上に袴をつけ、足駄(あしだ・雨に日にはく歯の少し高い下駄)をはいて腕まくりしながらキャンパスを闊歩したのだとか・・・
「女学のかけらもない活気がましき風情」と、一部の新聞などで叩かれた彼女たちでしたが、活気に満ちた彼女らの姿こそが、その後の女性たちを、締めつけられない解放された服装へと導いていったのかも知れませんね。
.
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
今は着物の方が、高価ですね。十二単は着付けも大変です。うまく着られない人もいます。ホテルでも浴衣でなく、パジャマというの所もあります。
投稿: やぶひび | 2011年1月17日 (月) 13時43分
西洋ドレスを最初に着た日本人女性が淀殿だとも言われます。最近ではスカートをはく女性が減っていて、「高校卒業後はほぼスカートをはかない」らしいです。
成人式では女性はほぼ100%着物ですね。
当初は上流階級にしか浸透しなかった明治時代の洋服は、今よりもずっと高価だったんでしょうね。
余談ですが、今秋スタートの朝ドラ「カーネーション」の主人公は、「アパレルの草分け」の小篠綾子さんです。小篠さんの子供時代は、洋装がようやく一般に普及した頃ですね。
投稿: えびすこ | 2011年1月17日 (月) 18時06分
洋装の良さをいち早く見抜き、取り入れつつも十二単も大切にされる。そこが皇室の、日本の素晴らしい所でしょうか。いまだに皇室にとっての大切な行事は十二単ですものね。今日、たまたま明治神宮に行った日にこういう内容で嬉しいです。この方はお子様がいらっしゃらなかったけど、皇室にとって日本にとって良きお手本を示してくださったのですね。
投稿: Hiromin | 2011年1月17日 (月) 21時52分
やぶひびさん、こんばんは~
旅館はもちろん、私はホテルでも浴衣が良いです。
寝てる間にはだけ過ぎて、朝起きた時にヒモだけになっていても、やっぱり浴衣が好きです。
投稿: 茶々 | 2011年1月18日 (火) 02時20分
えびすこさん、こんばんは~
成人式の着物は良いですよね~
模造刀は、家においておいたほうが良いと思いますが…
投稿: 茶々 | 2011年1月18日 (火) 02時21分
Hirominさん、こんばんは~
皇室は今でも国民のお手本ですね。
こんな風に言うと、皇室の皆さまの負担になるのかも知れませんが、やはり、そうであってほしいと思います。
投稿: 茶々 | 2011年1月18日 (火) 02時23分
>息苦しいはずですね~
洋服もコルセットで締め付けていたんじゃないかなぁ?
とは言え、服装の変化は意識の変化ですからね。
ココ・シャネルも『コルセットからの解放が女性の解放』とか言っていたような気がします。
(間違っていたら、ゴメンナサイ)
投稿: ことかね | 2011年1月18日 (火) 11時58分
ことかねさん、こんにちは~
おぉ…そうですね~
ドレスにもコルセットがいりますね~
すっかり忘れてました。
…という事は、この時代は洋装も、そんなに楽ではなかったという事ですね。
投稿: 茶々 | 2011年1月18日 (火) 17時41分