インド独立に貢献したラース・ビハーリー・ボースと頭山満
昭和二十年(1945年)1月21日、インドの独立運動に貢献したラース・ビハーリー・ボースが、日本で亡くなりました。
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大正四年(1915年)・・・東京は上野の精養軒(せいようけん)というレストランで、大正天皇の即位祝賀会が行われました。
時は、第1次世界大戦の真っただ中ではありましたが、日本との交流を、より親密にしたい在日インド人主催によるパーティでした。
このパーティの席で、イギリスによるインド支配の不当を訴え、独立に向けての夢を熱く語る人物がいました。
日本に亡命して来たばかりの独立運動家=ラース・ビハーリー・ボース(ラス・ビハリ・ボース)でした。
日露戦争における日本の勝利に感銘を受け、インド独立運動を志す事になったラースは、そのいきさつも含め、現時点での運動の大変さをとうとうと演説し、聞き入る人々に深い感動を与えたのでした。
しかし、この日の事がイギリス大使館にバレてしまいます。
そうです。
イギリスが支配しているインドの独立を目指しているのですから、当然、ラースにはイギリスからの逮捕状が出ていたわけです。
早速、イギリスは日本政府に対して、ラースに「5日以内の退去命令」を出すように要求してきました。
その命令に従ったラースが、日本を離れたところを捕まえようというのです。
逮捕されれば、当然、死刑が待っています。
しかし、第1次世界大戦当時の日本は、イギリスの同盟国・・・逆に、彼らインド独立運動家が、当時の敵国であるドイツと組んで「反乱を起こそうとしている」などと言われると、断わりきれない・・・
結局、日本政府は、イギリスの要求を呑んでしまうのです。
このニュースを聞いて反発したのが、アジア各国の独立を支援する民間団体=玄洋社(げんようしゃ)を立ち上げていた頭山満(とうやまみつる)たちでした。
「インド独立に奔走する彼らは、日本で言えば勤王の志士・・・そのような者を敵の手に渡す事は、日本国の恥になる!」
とばかりに、ラース保護に向けて動き出すのです。
ラースに直接の面識のなかった頭山は、当時亡命中だった中国の革命家=孫文(そんぶん)を介して連絡をつけたと言います。
同時に、その保護する場所を探します。
「あそこが良いか」
「ここは危険か」
と思案する中、頭山は、いつも通っている新宿のパン屋=中村屋に立ち寄りました。
すると、そこの主人=相馬愛蔵(そうまあいぞう)が、その日の新聞を見ながら
「なんやねん!この政府の弱腰外交は!」
と、最近の日本でも聞いたようなセリフを吐きながら憤慨中・・・
何度も、この店に通っている頭山・・・すでに主人の相馬とも顔見知りでしたから、ふと、その流れてラースの事を口にします。
「よっしゃ!万が一の時はかくまったってもえぇで!」
と、相馬・・・
そう、実は、すでにクリームパンで一世を風靡した相馬は、儲けたお金で店の裏手にアトリエを作り、何人かの芸術家のパトロンにもなっていました。
「このアトリエなら大丈夫かも・・・」
早速、行動を起こします。
まずは、ラースを頭山邸に招きます。
当然、ここでは警察官数名の尾行がついていますが、正面玄関から入ったラースは、すぐに服を着替え、邸宅の裏手にある断崖を下り、そこに待っていた車に乗り込み、一路、新宿の中村屋へ・・・
頭山邸内では、ラースの脱いだ服に着替え、頭にターバンを巻いた仲間がインド人のふりをして警察官を惹きつけています。
中村屋の前に止めた自動車から降りて店内に入ったラースは再び着替えて、奥のアトリエに・・・今度はラースの服を着た店員が、あたかも買い物を終えたようなフリをして、待たせておいた自動車に乗り込み、その後、行方をくらます・・・
この2重の配慮により、無事、ラースは逃亡に成功したのです。
その後、4ヶ月に渡って、このアトリエに隠れていたラースでしたが、やがて頭山らの働きかけに応じた日本政府が、国外退去命令を撤回し、何とか、日本にいる限りは、ラースの身の安全が保障される事になりました。
・・・と、同時に、ここで恋に落ちるラース・・・
そう、自分をかくまってくれた中村屋の相馬夫婦の娘=俊子と・・・
命令撤回後は、日本中を転々としていたラースでしたが、3年後の大正七年(1918年)には、その俊子と結婚・・・この頃にはイギリスからの追及もなくなりはじめ、やがて大正十二年(1923年)に、彼は日本に帰化しました。
そして、訪れる激動の昭和・・・
日本の軍部と結んだラースが、インド独立運動の中心人物の一人となりはじめる頃、日本は大東亜戦争(第2次世界大戦)へと突入し、大陸へと進出していく事になります。
ただ、残念ながらラース自身は、インドの独立を目の当たりにする事なく、昭和二十年(1945年)1月21日、中村屋の人々に見守られながら、59歳の生涯を閉じました。
インドが独立するのは、その2年後・・・1947年の8月15日の事でした。
ちなみに、現在の中村屋にも伝わる「純インド式カリー・ライス」は、この時のラースが相馬夫婦に伝えた物・・・
それまで、日本に普及していたカレーライスは、帝国海軍がイギリス海軍の煮物をアレンジして作った日本式の物(発祥の地が横須賀か呉かってヤツです)・・・インドのそれとは似て非なる物だったそうで、その事から、ラースは「インドカレーの父」とも呼ばれます。
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コメント
中村屋のカレーは、革命の味がするとか。
投稿: やぶひび | 2011年1月21日 (金) 21時58分
やぶひびさん、こんばんは~
革命の味ですか…いいですね~
投稿: 茶々 | 2011年1月22日 (土) 02時05分
おはようございます。
ボースのことは、前に大月書店(共産党寄りの、異色の?出版社ですが)の「マンガ日本の歴史」を読んで知っていましたが、彼の来日時にこのような経緯があったとは!
いつも勉強になります。ありがとうございます。
投稿: ふくたろ | 2011年1月22日 (土) 07時35分
ふくたろさん、こんにちは~
大戦後に唯一味方してくれたインドでしたよね?
ずっと日本の事を好きでいてくれたのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年1月22日 (土) 09時37分
ラース・ビハーリー・ボース、頭山満、相馬愛蔵、その妻の相馬黒光、玄洋社の杉山茂丸、杉山家の先祖が竜造寺隆信…。杉山茂丸の子が作家の夢野久作。
夢野久作を調べていたら。いろいろなつながりが出てきました。
驚きというよりもちょっと不思議な気分です。
投稿: とらぬ狸 | 2015年6月 7日 (日) 09時15分
とらぬ狸さん、こんにちは~
歴史は大河の如く…ですね。
延々と続き、絶え間なく流れる…
投稿: 茶々 | 2015年6月 7日 (日) 16時58分