天皇不在の7年間…天智天皇・即位の謎
天智七年(668年)1月3日、大化改新後、皇太子となって政治の実権を握っていた中大兄皇子が、第38代天智天皇として即位しました。
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皇極四年(645年)の6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて、三韓(百済・高句麗・新羅)の使者による、貢物の献上・・・この儀式の真っ最中に決行された蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺(6月12日参照>>)。
その年のえとから乙巳(いっし)の変と呼ばれるクーデターを行ったのは、時の天皇=皇極(こうぎょく)天皇の皇子=中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)と、その協力者=中臣鎌子(なかとみのかまこ・後の藤原鎌足)でした。
このクーデターに始まり、その後、実権を握った中大兄皇子主導で行われた改革が大化の改新と呼ばれる物ですが、このブログでも度々書かせていただいているように、時の天皇の息子が、臣下の物を倒したのであれば、単なる「征伐」であって、クーデターではありません。
もちろん、クーデターという言葉自体は、後の我々の呼び方ですが、そう呼びたくなるほどの背景が感じ取れるのです。
つまり、この時の皇極天皇以下天皇家には、ほとんど主導権がなかった・・・いや、ひょっとしたら、もはや蘇我氏の王国であった可能性が高いのです。
すでに、この国を支配していた蘇我政権を、クーデターにより倒した中大兄皇子一派でありますが、万世一系の天皇家を主張するためには、蘇我政権時代にも天皇が存在していなければならず、そのために、蘇我氏を、トップである天皇の臣下としておいて、その天皇の息子が悪臣を暗殺した・・・と、蘇我氏を単なる反逆者扱いする事で、天皇家の正統性を守った形のストーリーにしたという事なのでしょう。
と、このお話をつきつめると、それだけでかなり長くなってしまいますので、それは、また、いずれの機会にかさせていただく事として、記紀に従って話を進めますと、とりあえず、ここで蘇我氏は滅びます。
新政権となった世で、皇極天皇は退位して、弟の軽皇子(かるのみこ)が即位し、第36代孝徳天皇となります。
この時、なぜ、クーデターの一番の功労者であり、すでに第34代舒明(じょめい)天皇の時代から皇太子に任命されていた中大兄皇子が即位せずに、孝徳天皇が即位する事になったのか?
誰もが抱くこの疑問ゆえ、「乙巳の変=孝徳天皇首謀説」(6月14日参照>>)なるものも存在しますが、そのページでも書かせていただいた通り、首謀者がどちらであれ、当時は、父から子へというだけでなく、兄弟間の皇位継承というのも多くありましたし、未だ、中大兄皇子が20歳という若さなら、油の乗りきった年長に・・・というのも、とりたてて不思議ではありません。
なんせ、この時の新政権の面々と言えば・・・
左大臣に安倍内麻呂(あべのうちまろ)
右大臣に蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)
内臣に中臣鎌足で、
国博士に旻(みん)と高向玄理(たかむこのくろまろ)
と、どう見ても、中大兄ベッタリ政権の面々・・・
おそらくは、彼らを駆使して、皇太子のままで充分やっていけたはずですから、焦る必要もなかったし、むしろ皇太子の立場のほうが自由に采配が奮えたのでしょう。
それが、そのまま現われるのが、この孝徳天皇が亡くなった時・・・
この時も、中大兄皇子は、やっぱり即位せず、母親の皇極天皇を引っ張り出して、再び即位させ、彼女は第37代斉明(さいめい)天皇となります。
なんだか、後世の摂関政治や院政を思わせる雰囲気・・・ひょっとしたら、これが「君臨すれど統治せず」の原点となった出来事で、後々、武士の時代にも天皇家が生き残る事ができた大基になったスゴイ事なのかも知れません。
ところが、斉明七年(661年)、中大兄皇子にとって計算違いの一大事が・・・
実は、この頃、かの朝鮮半島が不穏な空気に包まれておりました。
そこで、自国の守りを固めるべく、この年の正月に、天皇自ら大船団を率いて、九州へと移動していたのです。
それは、
「ここが都か?」
と、見紛うほどの大移動だったのですが、到着後まもなく体調を崩した斉明天皇は、同じ年の7月24日、その九州にて帰らぬ人となってしまったのです(7月24日参照>>)。
もはや、中大兄皇子以上に天皇にふさわしい人物はいません。
しかし、中大兄皇子は、それでも即位せず、「称制(しょうせい)」という形をとります。
称制とは、皇太子が即位せず、皇太子の立場のまま政務をとる事・・・この体制は、斉明天皇が亡くなった661年から7年間続きます。
クーデター直後の孝徳天皇の時や、皇太子としてノリノリ政務の斉明天皇の時は、なんとなくわかりますが、さすがに、ここにきても、なお即位しないのは不可解です。
この天皇不在の期間は、天智天皇最大の謎とも言われている7年間で、もちろん、今も謎のままなので、明確な解答あるわけではないのですが、その原因の一つとして噂されているのが、宮中恋愛スキャンダルです。
実は、この中大兄皇子が、妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)とデキちゃってたという話・・・
当時は、あのややこしい皇室系図でもお解りの通り、異母兄弟間での結婚は許され・・・いや、むしろ、当然のように行われていましたが、さすがに、同母間の結婚&肉体関係は「国津罪(くにつつみ)」と呼ばれていて、してはならないご法度でした。
記紀には、遠く第19代允恭(いんぎょう)天皇の後を継ぐはずだった木梨軽(きなしかる)が、実妹の軽大郎女(かるのおほいつらめ・衣通王)との恋に落ちたため伊予の国に島流しに遭い、代わって、弟の穴穂(あなほ)が第20代安康(あんこう)天皇として即位するくだりがありますので、やはり、そのスキャンダルが本当であった場合は、即位したくてもできなかった可能性大でしょう。
この間人皇女は、あの孝徳天皇が即位した時に皇后として立った女性・・・つまり、一旦は、孝徳天皇の奥さんになった人なのですが、結婚前も、結婚後も、いや、ず~と中大兄皇子との関係が続いていた?感がぬぐえません。
あの大化の改新の時に、都は難波(なにわ・大阪)に遷され、わずかの間に、再び飛鳥へと戻っています。
この時、難波を離れたくないとした孝徳天皇の意見を押し切って中大兄皇子は、飛鳥へと強引に引っ越しするのですが、この間人皇女は、夫=孝徳天皇ではなく、兄=中大兄皇子に従って、ともに飛鳥へ戻ってしまったとされています。
一人、難波に取り残された孝徳天皇は
♪鉗着(かなきつ)け 吾が飼ふ駒は 引き出せず
吾が飼ふ駒を 人見つらむか ♪
「大事に鉗(かなき・首かせ)をつけて飼っていた馬なのに、それを手元に置く事ができず、その大事な馬を他人が見てしまうような事になった」
という歌を残しています。
直訳すれば、上記のような感じですが、この駒=馬というのは、もちろん間人皇女の事・・・
そして最後の「人見つらむ=他人が見てしまう」というくだり・・・実は、当時は異性に顔を見られるという行為が、イコール結婚(もしくは肉体関係)を表しているのです。
以前、結婚の歴史で結婚に至る経緯を書かせていただきましたが(1月27日参照>>)、この一連の儀式は、ほとんど最後まで暗闇の中で行われ、正式に結婚が決まるまで、相手の顔を見る事はなかったのです。
それは、源氏物語をみても明らかで、平安時代になっても、男性に顔を見せる事が結婚を表すのですから、このくだりも、「間人皇女の顔を見ている別人がいる=別のオトコがいる」という意味になる事は明白・・・。
とは言え、この宮中近親相姦スキャンダルは、あくまで噂・・・上記の、兄とともに飛鳥へ戻った事と、孝徳天皇の歌の2点しか史料がないため、それだけでは決定打とは言い難いお話です。
しかし、母の斉明天皇が亡くなった661年に即位しなかった中大兄皇子が、7年後の天智七年(668年)1月3日に天智天皇として即位・・・実は、かの間人皇女は、天智四年(665年)2月25日に亡くなっているんですよねぇ。
怪しいなぁ・・・
「亡くなった=関係が切れた」って事で即位したんじゃ・・・( ̄○ ̄;)!
と、ついつい疑ってしまいますね。
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コメント
面白かったです。断捨離でお気に入りも整理中ですが、ここは抹消・消せませんでした。今年も豊富なニュースをお願いします。ちなみに当方は2月生まれで・・年男です。
おめでとうございます。
今年も宜しくお願いします。
投稿: syun | 2011年1月 3日 (月) 23時48分
syunさん、こんばんは~
おぉ、今年は年男であらせられましたか…
私は、もうこれ以上、誕生日は来てほしくないお年頃です(゚ー゚;
投稿: 茶々 | 2011年1月 4日 (火) 01時53分
コミック「天上の虹」では間人が「臨時天皇」だったと(もちろんフィクションが前提)描いてあります。間人が仮に「臨時天皇」でも、歴代天皇にカウントされないので、信憑性がないです。中大兄の身辺に違う疑惑があるのかも?ただ即位時点で既に40代になっており、政治経験を積んでからの即位を見計らったのかも?
乙巳の変をクーデターとみなすなら、「中臣氏が蘇我氏を打倒した」と言う解釈ですね。正月特番で見ましたが、中臣家の陰謀と言う説も。孝徳天皇が崩御した際に、皇極上皇(当時はまだ「上皇」とは言いませんが)が中大兄を天皇に推薦しなかったんでしょうか?皇極上皇が重祚して「斉明天皇」となりますが、この時点で高齢でしたね。奈良時代にほぼ同年齢で孝謙上皇が重祚して、「称徳天皇」となるのとはちょっと事情が違いますね。
投稿: えびすこ | 2011年6月 2日 (木) 17時50分
えびすこさん、こんばんは~
>孝徳天皇が崩御した際…
私は逆ではないのかな?と思っています。
斉明天皇が中大兄皇子の傀儡だったのかな?と…
投稿: 茶々 | 2011年6月 3日 (金) 01時52分
>このお話をつきつめると、それだけでかなり長くなってしまいますので
実を言うと蘇我びいきなので、ぜひそこらへんはつきつめて欲しいです(笑)
敗者が悪者になるのは世の常ですね…(u_u。)
投稿: 瀬名 | 2012年9月28日 (金) 21時49分
瀬名さん、こんばんは~
最近では、聖徳太子=蘇我入鹿説も出て来ていますね~
私も「そうなのかな?」って思ったりします。
もちろん、聖徳太子がそのまんま入鹿だというのではなく、蘇我氏を悪人に仕立て上げるために、蘇我氏の統治時代に行われた事のマイナス面は蝦夷や入鹿がやった事にして、プラスの良い事を行った人物として、聖徳太子という架空の人物(あるいは本来なら歴史に残らないような蘇我氏の人)を設定したという感じではないかと…
投稿: 茶々 | 2012年9月29日 (土) 02時43分