先走りし過ぎた若き猛者・富田長繁の最期
天正三年(1575年)2月18日、越前一向一揆と抗戦中の富田長繁が、小林吉隆の裏切りに遭い、命を落としました。
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越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)の家臣であった富田長繁(とみたながしげ)は、あの小谷城攻防戦のさ中に、朝倉を見限り、織田方の配下に走ったと言います。
ご存じのように、天正元年(1573年)8月・・・この時、織田信長軍に囲まれた小谷城の浅井長政が、同盟関係にあった朝倉に救援を求めたため、義景は自ら出陣し、小谷城の北側まで進んだものの、信長が主力部隊を、その救援に駆け付けた朝倉軍へと投入してきたため、やむなく後退・・・追ってくる信長軍と刀禰坂(刀根坂・とねざか)にて死闘をくりひろげ(8月14日参照>>)、さらに本拠地・一乗谷までも攻められ、結局、小谷の浅井より8日早く、朝倉氏が滅亡へと追いやられてしまった(8月20日参照>>)、あの戦いです。
この時、長繁以外にも、多くの朝倉の家臣が、主君を見限って寝返ったわけですが、戦いに勝利した信長は、ぶんどった越前の地を、自らが直接支配するのではなく、その多くを、この時寝返った旧朝倉の家臣に安堵するという方法をとります。
やはり朝倉の家臣でありながら長繁より一足早く寝返った前波吉継(まえばよしつぐ・後に桂田長俊に改名)は、真っ先に寝返って、信長軍進攻の道案内をしたという事もあって越前守護代に任ぜられ、さらに義景の本拠だった一乗谷城を与えられます。
長繁も龍門寺城を与えられ、府中領主に任じられはしましたが、負けん気の強い長繁は、この結果にはなはだ納得いかず・・・
「くそ!一歩遅れたために・・・」
という長繁の不満は、モンモンと心の中に残ってしまうのです。
まもなく、信長は、2年前に一度攻撃を仕掛けた長島一向一揆に、2度目の兵を向けますが、以前書かせていただいたように、この戦いは、信長自身の命が「あわや」というほどの手痛い敗北となります(5月16日参照>>)。
もちろん、この戦いには、長繁も信長の配下として参戦していて、敗戦の中で自分の配下の者が功をを挙げた事を喜び、その恩賞に預かろうとするのですが、なんと、前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)が、これを握り潰して、信長への報告をしなかったと言うのです。
どうやら長俊さん・・・義景の旧領地と一乗谷を貰った事で舞いあがり、なにやら、朝倉にとって代わって越前を治めているような気分になってしまっていたようです。
もとの上下はあれど、信長に寝返った時点で、皆、信長の配下の者になるわけで、本来なら、彼らは皆、信長の家臣という同僚・・・なのに、長俊は、同時期に寝返った彼らを、自らの家臣のように扱うようになっていたのです。
これには、長繁ならずとも怒り心頭・・・皆、徐々に長俊から心が離れていきます。
そんな中、長繁のもとに、長俊が
「あんなヤツに府中を任せるなんて、どうかしてるゼ!」
と、長繁の領地の削減を信長に願い出ているというウワサが舞い込んで来ます。
「アカン!こうなったら、ヤラれる前にヤルしかない!ヒーハー!」
と、長俊を討つ決意をする長繁・・・
おりしも、一旦、本願寺・顕如(けんにょ)と信長の間で結ばれていた講和が、前年の武田信玄の死によって崩れはじめた天正二年(1574年)・・・
長繁は、地元の本願寺宗徒を扇動して一向一揆を起こさせ、自らも長俊の居る一乗谷へと挙兵します。
一揆勢と組んだ長繁の兵は約2万・・・一方の長俊には、もはや味方してくれる旧朝倉仲間もおらず、わずかに500ほど・・・勝敗は明らかでした。
ところが、この勝利に勢いづいた一揆勢と長繁は、そのまま、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃!・・・目付として赴任していた3人の奉行まで追放してしまいます。
「おいおい、調子乗りすぎと違うんかい!」
と誰しも思いますが、長繁は、まだ行きます。
同じく、旧朝倉の家臣で、その力を警戒していた相手=魚住景固(うおずみ かげかた)と、その息子の彦四郎を
「一緒に、モーニングせぇへん?」
と朝食に誘い出し、騙し討ちにしてしまうのです。
さらに翌日には、その屋敷に攻め込んで長男・彦三郎らをも殺害して魚住一族を滅亡に追いやります。
それでも長繁は止まりません。
自分の障害となりそうな、旧朝倉家臣の同僚を次々と襲撃して追放・・・なんと、一時的に越前一国を掌握してしまいます。
「やったゼ!」
と、思うと同時に、ここで長繁・・・はた、と気がついた?
「そや、俺って、信長さんの奉行も追放してもてる~」
と、思ったかどうかはわかりませんが、ともかく、
「これは、旧朝倉家臣の権力争いで、信長さんに刃向かう気持ちはありません」
てな、お詫びの書状とともに、弟を人質に差し出し、越前守護の地位を認める朱印状を出してくれるように、信長に願い出たのだとか・・・
この願い出に関しては真偽のほどは定かでなく、信長さんの返答も不明なようですが、
あの信長さんが許してくれるかなぁ???
いや、信長が許すも許さないも、この行動に怒り爆発したのが、一揆で協力した、あの本願寺門徒です。
そうです、
そもそも、越前一向一揆が長繁の挙兵に協力したのは、信長の配下となっている長俊を倒すため・・・未だ本願寺の本拠である大坂の石山本願寺が信長と抗戦中なのに、自分が越前を掌握したからって、またぞろ信長の配下に収まっちゃうのなら、何のために協力したんだ?ってなるのは当然です。
・・・で、この越前の混乱にすかさず目をつけたのが、教祖様=本願寺・顕如・・・七里頼周(しちりよりちか)を大将として派遣し、「長繁を討って、越前をも一揆の持ちたる国にしてしまいなはれぇ~!」と檄を飛ばします。
これを受けて奮起する一揆勢・・・さらに、長繁にしてやられた旧朝倉の同僚や、長繁の統治に不満を持つ府中の町衆も加わって、一揆勢は10万にも膨れ上がります。
一方の長繁は、6000ほど・・・
かくして天正三年(1575年)2月13日に、最初の戦闘が開始されますが、さすがに10万もの敵がいては、またたく間に府中ごと包囲されてしまいました。
しかし、ここで長繁の負けん気の本領発揮!・・・相手は10万もの数なんですから、このまま籠城していても、勝ち目はありません。
こうなったら、神出鬼没に撃って出る奇襲作戦!ですが、これが、意外に功を奏します。
もちまえの性格から、自ら先頭に立って鬼神のごとき形相で疾風のように駆け抜ける長繁に対して、一揆勢は、なんせ、戦闘経験の少ない烏合の衆・・・その縦横無尽の武勇に押され気味となり、長繁は、一度は、敵の本陣にまで攻め込むという快挙!
しかし、本当の敵は意外なところにいました。
武勇優れた剛の者=長繁が、100%の力で挑んでいるのです・・・配下の者が、皆、それについて来れるとは限りませんでした。
1日、また1日と時が過ぎる中、
「このハードな毎日についていけない」
と感じる者が出てきたとしても、それを責める事はできないのかも知れません。
天正三年(1575年)2月18日早朝・・・この日も、自らが先頭に立ち、怒涛のごとき突撃を開始した長繁・・・
そこを、背後から一発の銃弾が放たれました。
無防備な背後から狙われた長繁はひとたまりもなく、落馬して命を落としたのです。
銃を撃ったのは小林吉隆(よしたか)・・・もとは桂田長俊の家臣でした。
こうして主君を失った長繁勢は一気に総l崩れとなり、勢いづいた一揆勢の勝利となってしまったのは言うまでもありません。
富田長繁・・・まだ24歳の若者でした。
その大きすぎる野望に、無謀な戦いを繰り返した感のある長繁ですが、その年齢をみれば、若さゆえの先走りのような気もします。
15倍の兵に囲まれても怯む事なく、果敢に攻めかけるその武勇は、良い形で発揮されれば、このうえない優れた武将になった事でしょう。
もう少し・・・30代半ばの長繁さんの戦いぶりも、見てみたかった気がします。
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コメント
富田長繁の話、知りませんでした。大変参考になりました。長繁の動きで、信長の反応はどうだったのでしょうか。
投稿: 銀次 | 2011年2月19日 (土) 04時48分
銀次さん、こんばんは~
>信長の反応は…
どうでしょうね~
松永久秀の例もありますから、長繁が優秀な人材だったら許していた可能性もあるのかも知れませんね。
ただ、本文にも書かせていただきましたが、長繁が、本当に信長に朱印状を求めたかどうかは微妙で、あくまで「そうのような噂が流れた」という事らしいです。
投稿: 茶々 | 2011年2月20日 (日) 01時29分
これが噂の『若さ故の過ち』というやつですね。(笑)
投稿: ことかね | 2011年2月20日 (日) 11時38分
ことかねさん、こんにちは~
ちょっとの先走りで…(笑)
若気の至りとも言いますww
投稿: 茶々 | 2011年2月20日 (日) 13時44分