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2011年2月28日 (月)

織田信長主催の一大イベント=御馬揃え

 

天正九年(1581年)2月28日、御所東門外にて正親町天皇を招待し、織田信長が馬揃えを行いました。

・・・・・・・・・・

天正九年(1581)のお正月は織田信長にとって、これまた格別にめでたきお正月でした。

・・・というのも、前年の3月には、10年に渡ってドンパチを繰り広げていた石山合戦で、教祖様=顕如(けんにょ)石山本願寺から退去させる事に成功・・・(11月24日参照>>)

さらに、同じく11月には、配下の柴田勝家鳥越城を攻略して、石山合戦終了後も抵抗し続けていた加賀一向一揆を壊滅させました(11月17日参照>>)

未だ、上杉謙信という大物が残るものの、一番の悩みの種であった本願寺+一向一揆を事実上解体した事は、やはり大きいと言えます。

そんな天正九年の正月十五日の左義長の行事の一つとして行われたのが、織田軍団の一大セレモニーと言われる御馬揃え(おんうまそろえ)です。

信長はじめ、親衛隊の馬廻衆(うままわりしゅう)や一門などが、思い思いの頭巾や装束で着飾って町に繰り出した軍事パレードのような物と言われていますね。

去る1月30日に放送された大河ドラマ『江~姫たちの戦国』「第4回・本能寺へ」で、主人公の江たちが見物しているシーンがあって、その雰囲気をイメージしやすいかも知れませんね。

これまで、信長さんが登場する時代劇で、あそこまでの時間を割いて馬揃えのシーンをやってくれたドラマはなかったように思うので、なかなか良かったのではないかと思います・・・(梅もさしてたしね)

ただ、ちょっと、個人的に描いていたイメージとは違ってましたが、まぁ、それは、あくまで文章から受けるイメージと、それを映像に起こしたヤツを見た時のイメージとは違って当たり前みたいな部分もありますからね。

ドラマの中では、何やら、信長の力を誇示するような目的で、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇見せつける的な感じで扱われ、その「俺って天皇より上」的な信長の態度に、江の怒り爆発・・・みたいな、一般的な流れでしたが、

天皇づきの女官の日記で見る限りの史実としては、「左義長やるなら見に行きたいな(*゚▽゚)ノ」との天皇の希望が先にあったという事ですから、思うに、その天皇の希望を聞いた信長が、「来はるんなら盛大にやりまっさ!」的な、むしろ天皇への大サービスだったような気がします。
(この頃の信長が天皇家に対して強圧的な態度でない事については20011年11月4日のページでどうぞ>>

さらに、ドラマでは整然と並んだ家来衆が列を乱す事なく行進していましたが・・・

確かに、軍事パレードと聞くと、よく見る某国の整然とした隊列を思い浮かべてしまいますが、この馬揃えは、どちらかというと、もっと祭り色の濃い物だったように思います。

天正九年(1581年)2月28日・・・当日は、上京の内裏の東に北から南へ約500m幅が約110m(諸説あり)の馬場が造られ、天皇やお公家さんたちが見物できるように、その内裏の東門の築地の外に、仮の行宮(あんぐう)が設置されました。

Oumazoroe はじめは、1軍団ごとの各国衆、続いて1門衆、さらに馬廻や小姓や弓衆・安土衆・・・という軍事編成による行軍で、信長自身は、朝の8時頃に宿所であった本能寺を出発し、室町通りから一条通りを東へ向かい、小者や小姓たちとともに、行軍のトリを飾ります。
(ちなみに、羽柴(後の豊臣)秀吉は中国攻略中のため出場してません)

ただ、この行軍が、あの『信長公記』によれば、爆竹鳴らしながらのド派手モードで、お互いがぶつからんばかりの猛スピードで駆けまわるという物だったようで・・・

しかも、運動会みたいに予行演習しませんから、最初は15騎くらいずつだったのが、「こんなんメッチャ時間かかるで!」となって、途中からは40~50騎入り乱れての走りまくりとなっていたようです。

そんな中、注目はやっぱり信長さんのいでたちですが、それがなんと!謡曲・高砂太夫のコスプレ・・・頭には唐冠(とうかんむり)、白地の唐草模様に紅梅をあしらったものに唐綿の小袖を重ね、紅緞子(どんす)に桐唐草の肩衣(かたぎぬ)の姿で、手には白革に桐の紋の入った手袋を着用し、梅の生花をさしてました。

う~ん、さすがNHKさん、唐草模様じゃなかったような気がしますが、衣装の雰囲気はバッチリですね~(梅もさしてたしね…2回目)

ちなみに、この馬揃えには、皆、その馬にもお金をかけて、全国各地から選りすぐりの名馬を連れて参加し、そんな中で、信長が気に入ったのが、あの山内一豊(やまうちかずとよ)の馬だった・・・

・・・で、それは、「身分不相応なれど、この馬揃えのために」と、奥さん・千代さんのヘソクリから奮発して買った馬で、その出来事から、一豊が出世の糸口を掴むっていうドラマでも有名なお話・・・

ですが、残念ながら、同時期の史料には、そのお話は登場せず、登場するのは、以前ご紹介した常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)など、江戸時代になってからの史料なのですが、だからと言って、「創作」としてスルーしてしまうのは・・・

それは、たとえ、一豊という人物や細かな事が創作であったとしても、少なくとも江戸時代になっても、この馬揃えが、いかに家臣たちにとっても一大イベントであったかが、語り草になっていたとも言えるわけで・・・

そもそも、馬揃え自体は、あの源義経の時代からあったわけですし、信長のチョイ前にも徳川家康がやってますし、江戸時代に入っても複数回行われていますが、今でも、「馬揃え」と言えば、この時の信長の馬揃えが、一番に挙げられる事も含めて、やはり、この時の信長にとっても、そして家臣にとっても、特に重要なイベントだった・・・という事でしょうね。

★追記:
今、【織田信長の年表】>>に、このページのリンクを作っていて気づいたのですが、この馬揃えって、信長さんが、あの弥助さん(2月23日参照>>)と会ってから5日後なのですねw(゚o゚)w

確か、「江~」でも、信長さんのそばで、傘だったかなんだったかを持ってた黒人さんがいた気がしたのですが…知り合って5日目とは!!ビミョー

まぁ、5日目であろうが初日であろうがかまわないのですが、南蛮寺(教会)に黒山の人だかりができるほど、都の評判になってた弥助さんですから、もし、馬揃えに出場させたとしたら、皆の注目がそっちにいっちゃって、信長さんが目立たないのでは???
と、ツマラン妄想をする茶々でした(*^.^*)
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2011年2月26日 (土)

豊臣秀吉をうならせた天下の陪臣・堀直政

 

慶長十三年(1608年)2月26日、堀秀政亡きあとの堀家を支えた堀直政が、この世を去りました。

・・・・・・・・

あの豊臣秀吉に、
上杉の直江兼続(なおえかねつぐ)、毛利の小早川隆景(こばやかわたかかげ)二人と並べて、
「天下の三陪臣(ばいしん・家臣の家臣)
と言わせた堀直政(ほりなおまさ)・・・

一昨年の大河で注目を浴びた兼続や、豊臣五大老の隆景ほど有名ではありませんが、山崎賤ヶ嶽(しずがたけ)小牧長久手小田原・・・と、天下を左右する戦いのいずれにも参戦して、その実戦経験はかなりのモンです。

とは言え、彼は、最前線に立って兵を率いて武功を挙げるというよりは、冷静な判断のもとに作戦を遂行して勝ちにつなげる・・・軍師のイメージの強い方だという気がします。

美濃(みの・岐阜県)斉藤義龍(よしたつ)の死後、織田信長の家臣となった奥田直純(おくだなおずみ)の息子として生まれた直政は、後に信長の側近として活躍する堀秀政(ほりひでまさ)とは従兄弟同士・・・

幼い頃、僧となった伯父のお寺で、ともに勉学に励んでいた二人は、その伯父から、「二人のうち、どちらか先に手柄を立てた者が堀家を継ぎ、一方はその家臣となって盛りたてよ」と教えられたのだとか・・・

やがて、秀政が信長の小姓となり、その後、側近に登用された事から、幼い頃の約束の通りに、直政は秀政の家臣になったと言われますが、このエピソードは、他の武将の逸話にも登場する話なので、後世の創作の可能性が高いと言われています。

しかし、そのようなエピソードが無かったとしても、現実に従兄弟同士の二人が、主君と家臣の関係になっていた事は確か・・・しかも、直政は秀政よりも6歳も年上なのですから、本来なら、そのプライドが邪魔して、なかなか従うのが難しいところを、あえて、波風立たぬようキッチリこなす所は、まさに、その度量の大きさを象徴しているかのようです。

とは言え、信長のもとで側近としての地位を確立していく秀政の一方で、この頃の直政の話は、ほとんど史料に出て来ないのが現実なのですが、後の二人の関係から見れば、おそらく、直政も信長の配下として秀政の補佐的な仕事をこなしていたと思われます。

そんな直政の活躍ぶりが登場するのは、信長が本能寺で倒れた後、主君の秀政が秀吉の配下となってからです。

秀政のあるところ、必ず側にて補佐する直政でしたが、残念ながら、その秀政は、天正十八年(1590年)5月・・・あの小田原征伐の陣中にて、38歳の若さで病死してしまいます(5月27日参照>>)

この時の堀家は、以前、あの柴田勝家の所領だった北ノ庄を領地としていましたが、秀政の後を継ぐべき息子・秀治(ひではる)が若すぎるとして、秀吉は、その所領を召し上げようとするのです。

さぁ、ここからが直政の出番!!!

若年の主君に動揺する家臣団を速やかに統率したかと思うと、自らの次男・直寄(なおより)に手紙を持たせて、秀吉のもとへ走らせ、
「ウチの社長の長年の功績、知ってはりますやろが!
万が一、跡目を継がせへんてな事になったら、俺らヤリまっせ!」

一発カマします。

もちろん、この行動は大成功!・・・見事、所領は安堵され、事無きを得ました。

やがて慶長三年(1598年)の1月、秀吉は、越後(えちご・新潟県)春日山城主の上杉景勝(かげかつ)会津若松城(福島県)の城主とし、その空いた春日山城主に、かの秀治を据えるという国替えの命令を下したのです。

何やら、複数の複雑な要因がからむこの引っ越し騒動ですが、結果的に、秀吉の置き土産となった(この年の8月に秀吉は亡くなりますので…)となったこの国替え・・・(1月10日参照>>)

米どころの越後45万石の領主となった堀家はホクホクですが、石高こそ、合計120万石となり、あの徳川家康に次ぐ大大名となるものの、領地を2分割されたような不便さ、生まれ育った越後を離れる寂しさをともなうこの国替えは、上杉にとっては、いささか不満だっようで、上杉の執政・直江兼続は、「発つ鳥、後を濁しまくり」のイケズをやって、会津へと引っ越していきます。

そのお話は、以前、こののちに起こる越後一揆のくだり(7月22日参照>>)で書かせていただいているので、内容がかぶりますが・・・当時、今回のような大名の国替えの場合、領民から徴収する年貢米は、前半の半年分のみを徴収し、残りの半年分は、新たにやってくる大名のために残しておくのが常識だったのです。

もちろん、秀治&直政もそのつもりで、自分のところの下半期分を新領主に引き継いで越後にやってきましたが、いざ、年貢を徴収しようとすると・・・越後の領民は「すでに渡したので、もう、ありません」と・・・

つまり、上杉が一年分を先に徴収し、それを持ったまま、会津に引っ越してしまっていのです。

当然、半年分の年貢の返還を、上杉に求める直政らでしたが、かの兼続は、「そんなん知らんがな」と、その要求を一蹴・・・しかたなく、直政らは、入国後すぐに検地を行い、寺社からは所領を没収し、農民には追加の増税を行ったわけですが、当然の事ながら、これらは寺社や農民からの反感をかう事になります。

やがて、慶長五年(1600年)・・・秀吉の死後に大老の筆頭として権力を握り始めた家康に対して、かの景勝が上洛拒否(4月1日参照>>)・・・

「言う事、聞けへんねやったらイテまうど!」
と強気の家康に対して、火に油を注ぐがごとくの兼続の過激・直江状(4月14日参照>>)・・・と、時代は一気に関ヶ原に向けて動き始めるのですが、この時、自らを有利に導くために、兼続が影で扇動したのが、先ほどの越後一揆(再びの7月22日参照>>)

先に1年分を払ったにも関わらず、新しい領主に、再び半年分の税金を課せられる事になり、不満ムンムンの越後領民の心を利用して、堀家に対する一揆を起こさせたわけです。

もちろん、越後領民だけではありません。

兼続は、会津からも援軍を送り、一揆勢は、またたく間に数万人に膨れ上がったと言います。

堀家最大のピンチ!ですが・・・

さすがの直政・・・慌てず騒がず、適格な判断で一揆鎮圧の采配を振ります。

この時、直政の長男・直次(なおつぐ)の守る越後三条城(新潟県三条市)一揆勢に包囲され、あわや風前の灯となった事がありましたが、「助けに行く~!!!」と大騒ぎする主君・秀治を、直政が「大丈夫です」力づくで押し止めたなんて光景もありました。

見事、直政の見込み通り、直次はほどなく、一揆を鎮圧して見せました。

また、この兼続の一揆作戦と前後して、石田三成の西軍へのお誘い攻撃も受けていた直政でしたが、
「前田君も、丹羽(にわ)君も、北国のヤツらは皆、こっちの味方になってるで~君も、はよ、上杉君と合流してぇや」
の書状には、前田家へ使者を出して、その真偽を確かめるという冷静さも失っていませんでした。

もちろん、ご存じのように前田家は東軍=家康側ですよね。

こうして、一揆の鎮圧という形で、揺るぐ事なく東軍として関ヶ原を戦った直政は、その後、佐渡の一揆も鎮圧して家康を喜ばせます。

戦いが終わった直政は、秀吉の奥さん=おねさんが住む事になった、あの京都高台寺の建設にも尽力し、その普請費用の半分を請け負ったと言います。

Koudaizigaryuurounenecc
高台寺

やがて慶長十一年年(1606年)、主君・秀治の病死を見送った後、慶長十三年(1608年)2月26日直政もまた、その62年の生涯を閉じました。

聞くところによれば、かの秀治さんは、それほどの器量を持っていなかったとも伝えられ、本来なら、やはり、あの秀政の死で幕を閉じていたかも知れない堀家に、見事、関ヶ原という大波を越えさせた感のある直政さんです。

残念ながら、堀家はこの後の江戸時代に改易となりますが、一部の血筋は、前田家の家臣となったり、新発田(しばた)藩士や小浜藩士などになって維新を迎えます。

直政がいなかったら、それも無かったかも知れません。

秀吉をうならせた陪臣・堀直政・・・まさに戦国を代表する名将の一人と言えるでしょう。
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2011年2月25日 (金)

実績はなくとも…甲州流軍学を大成させた小幡景憲

 

寛文三年(1663年)2月25日、あの甲州流軍学を大成させたという江戸時代の兵学者・小幡景憲が92歳の天寿を全うしました。

・・・・・・・・・・

群雄割拠する戦国時代・・・あまたある戦いを勝ち抜いた大名のそばで、多くの軍師と呼ばれる人たちが活躍しましたが、ひょっとしたら、軍師というよりも兵学者と呼ぶにふさわしいのは、この小幡景憲(おばたかげのり)が、ダントツ・・・という事になるのではないでしょうか?

Takedasingen600b その祖父は小幡虎盛(とらもり)と言い、あの武田信玄重臣として活躍した猛将でした。

父の小幡昌盛(まさもり)も、信玄の息子・武田勝頼に仕える重臣で、武田軍団の中心的存在でしたが、天正十年(1582年)頃までには病死していて、ご存じのように、その年の3月には、その勝頼も天目山に散り、武田も滅亡します(3月11日参照>>)

この時、通称・勘兵衛(かんべえ)こと景憲は、わずか10歳前後・・・しばらくの沈黙の後、多くの旧武田の家臣を召し抱えた徳川家康に仕官し、やがて、徳川秀忠の小姓になりました。

しかし景憲は、もともと大名や旗本として出世しようという気はなく、軍略家あるいは剣術家として身を起こしたいという夢があったようで、文禄四年(1595年)・・・24歳で秀忠のもとを出奔し、諸国放浪の修業の旅に出たのです。

・・・と言いながらも、慶長五年(1600年)のあの関ヶ原では井伊直政(なおまさ)に加勢し、さらに慶長十五年(1614年)の大坂冬の陣では、加賀の前田利常(としつね・利家の四男)配下として参戦しています。

しかも、続く大坂夏の陣では、なんと豊臣方の大野治房(はるふさ・治長の弟)に声をかけられ、大坂城に入ったりなんぞしています。

ヘッドハンティングされたがり?
それとも、安定した終身雇用より派遣社員として、より待遇の良いところへと転々とするタイプなのか?

まぁ、関ヶ原や大坂の陣に限らず、戦国時代の合戦には、その都度、別の大名に雇われて、あっちについたりこっちについたりする、臨時の傭兵のような地侍や浪人はたくさんいたわけで、特に景憲だけが変わった行動をとっていたわけではないのですが・・・

ただ、最後の大坂夏の陣だけは、景憲に声をかけてしまったのは、治房のミスと言えるかも知れません。

実は景憲さん・・・もうすでに徳川方に雇われておりました。

大坂城へ入城する前に、京都所司代だった板倉勝重(かつしげ)と密会し、大坂城内の様子を逐一報告するダンドリを決めていたのです。

こうして大坂城に入城した景憲は、夏の陣の総攻撃直前まで大坂城にいて、諜報活動=いわゆるスパイとして暗躍し、寸前になって脱出を試み、うまい事、徳川方に帰参したのです。

・・・とは言え、実は、彼が徳川方のスパイである事は、とうの昔にバレていて、早い段階から大坂城内の諸将のほとんどが疑いの眼差しを向け、はなから、景憲には大した情報をつかませないようにしていた・・・なんて話もあります。

現に、この夏の陣では、彼が徳川方に流した情報で、何かの決め手になるようなものは一つも無かったと言います。

実は、この夏の陣だけではないのです。

軍師、あるいは、武将として臨時参戦した関ヶ原や冬の陣でも、その策が採用されたという形跡もなければ、兵士として武功を挙げたという記録も皆無・・・

にも関わらず、晩年の景憲は
「真田信繁(幸村)や後藤基次が有名なったんも、俺が大坂城で提案した策の通りに動いたからや」
とか、
「夏の陣で、徳川方の戦死者が少ないんも、大坂城におる間に俺が策を講じたからやねん」
と、若いモンに自慢気に語っていたのだとか・・・もはや、死人に口なし!やからなぁ(゚ー゚;

・・・と、これだけなら、ただのホラ吹きジイサンですが、もちろん、景憲はタダ者ではなかった・・・

そうです。

スポーツなどの場合、現役で活躍した一流選手が、引退後も一流の指導者になるとは限らない・・・

逆に、現役時代は、大した成績も残せなかったサエない選手が、その後に大監督として注目を浴びる事だってあるわけです。

景憲は後者のほうでした。

もちろん、その土台は、あの諸国を放浪した武者修行の時代からつちかわれていたのですが・・・。

祖父や父の主君だった信玄はもとより、武田軍団ゆかりの地を巡りながら、その古戦場に実際に立って、様々な事を探索したり、それこそ祖父と父という看板をフル活用して、今は散り散りとなっている旧武田の家臣に教えを請う・・・

兵学を学んだ中には、武田軍団を引き継いで井伊直政の赤備え(10月29日参照>>)の中心人物となり、彦根城の建設にも携わった早川幸豊(はやかわさちとよ)や、あの山本勘助に軍学を教わったという、やはり直政に属した広瀬景房(かげふさ)など・・・

剣術では、あの小野派一刀流小野忠明(11月7日参照>>)に学び、免許皆伝となったとも・・・

そんな中で、史料や書物の収集にも励んでいた景憲は、高坂昌信(こうさかまさのぶ・信玄時代からの武田の家臣)や、春日惣次郎(そうじろう・昌信の甥)が執筆したという、あの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』を入手します。

そして、自らが学んだ事を書き貯めた著書や、この『甲陽軍鑑』を基本の教材として、そこに、中国の『孫子(そんし)『呉子(ごし)などの理論をつけ加え、さらに天文学気象学陰陽道も散りばめながら、しかも、途中途中に名将のエピソードを織り交ぜつつ展開する軍学=甲州流軍学を大成させるのです。

これが、まさに大当たり!!!!

大坂の陣の後に、徳川家に帰参して旗本となった景憲のこの軍学が、大いにもてはやされるのです。

そんな中には、紀州徳川頼宣(よりのぶ・家康の十男)桑名松平定綱(さだつな・家康の甥)といった徳川の身内や譜代はもちろん、肥後細川忠興(ただおき)長門毛利秀元(ひでもと・輝元の養子)などの外様まで・・・多くの大名が、直接、教えを請いたいと、彼の門を叩いたと言います。

他にも、彼の弟子の一人である北条氏長(うじなが・氏康の曾孫)北条流軍学を、山鹿素行(やまがそこう)山鹿軍学をと、景憲の軍学を基本にした支流を創始しています。

こうして、江戸幕府御用達の兵法の基本となった甲州流軍学は、幕末に西洋式の軍隊が導入されるまで、武士の必須科目として受け継がれていく事になるのです。

かくして寛文三年(1663年)2月25日、血で血を洗う戦国時代を92歳まで行き抜いた小幡景憲・・・ホラ吹きジイサンと呼ばれようが、これだけもてはやされたなら、ちょっとくらい手柄話を盛りたくもなりますわな。

実績もないのに理論に納得させられ、皆が「すばらしい!!」と絶賛・・・考えようによっちゃ、これこそ景憲最大の策略かも知れません。

確かに、『孫子』にもありました(3月11日参照>>)
「百戦百勝、善にあらず、戦わずして勝つと・・・
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2011年2月24日 (木)

ペリーのお土産…電信機の発展

 

安政元年(1854年)2月24日、再び来日したペリー一行が横浜で有線電信機を実験・・・これが日本初の電気通信となりました。

・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)6月3日、東インド艦隊・旗艦サスケハナ・司令長官ペリーフィルモア大統領の国書を持って、鎖国中の日本へ・・・。

ご存じ、黒船来航です(2008年6月3日参照>>)

♪太平の 眠りをさます 正喜撰(じょうきせん)たった四はいで 夜も眠れず♪

というよりは、お祭り騒ぎのようになってたみたい(2月3日参照>>)ですが・・・

Perry400 とにもかくにも、後々の手記を拝見する限りでは、幕末の日本人に好印象を持ってくれたとおぼしきペリーさん・・・(2009年6月3日参照>>)

この嘉永六年の一度目の来航では、とりあえず「開国の要求」をしたのみ・・・

この時に、シュワちゃんよろしく「I will be back」と言ったかどうかはともかく、翌・安政元年(1854年)2月13日、再び来航し、横浜沖に停泊して日米和親条約の締結を求めてきたのです。

この時、将軍への手土産として持って来たのが、蒸気機関車の模型エレクトル・テレグラフ・・・つまり電信機です。

しかし、この電信機・・・使わなきゃ、何の事だかわからない・・・って事で、安政元年(1854年)2月24日、横浜にて、日本初の有線電信機の実験とあいなったわけです。

ちなみに蒸気機関車の模型のほうは、ペリーと前後して来日したロシアプチャーチン(10月14日参照>>)が、すでに長崎で走らせちゃってました。

とは言っても、さすがにこの初実験の時は、単に、電信機なる物がどんな物であるのかを見せただけで終わったわけですが・・・

とは言え、
「幾百里へだたる場所も、人馬の労をはぶき、線の達する場所までは音信を一瞬に通達する至妙の機関なり」
と、これを見た人の感想でもわかるように、この電信機なる物は、陸蒸気(おかじょうき・蒸気機関車)(9月12日参照>>)ガス灯(9月29日参照>>)とともに、この先、文明開化を象徴するアイテムの一つとなったわけです。

やがて維新が成った後・・・最初は「針金便り」なんて呼ばれていた電信システムは、イギリス人技師の指導のもと、何度も実験を重ねて、明治二年(1869年)に東京⇔横浜間が開通して一気に実用化へ突入しますが、それはそこ・・・

全国各地に広がるにつれ、初めての物に相対する一般庶民は、そこかしこでおもしろ・エピソードを残しちゃってくれます。

なんせ、何一つ、その原理を教えてもらってない人たちにとっては、まさに西洋の魔術ですからね~

「電信」と書いて、「テレガラフ」と呼んでいた中国地方では、
「あれは、キリシタンバテレンの魔術で、アノ線には処女の生き血を塗るらしい」
なんてウワサが飛び交い、若い女性たちは、皆、眉を剃り落としてお歯黒塗って・・・つまり既婚者のふりをして、捕まえられないようにしていたのだとか・・・

東北地方では
「電信をひく」
というのを、「伝染をひく」と誤って理解され、
「アレは病気を伝染させる悪い者」として、
電線に石を投げたり、ちょん切ったり・・・

また、ある人は
「遠いところにすぐ届く」
というトコだけを聞きつけて、電線に風呂敷包みを結びつけて
「早く、息子の所へ届けておくれ~」
なんて、ほのぼのしたお話も・・・

とは言え、今のように誰もが字が書けて、手紙が書ける時代じゃありませんから、いくら電信網が広がって、何やら伝えたい文章が伝えられるって事が、庶民に理解できるようになってはいっても、イザとなれば何をどう伝えるのかすらわからず、しばらくは、一般庶民が利用する事は、ほとんどありませんでした。

そんな状態を一変させたのが、以前、書かせていただいた神風連の乱の時に、小波(小勝とも)という女性が、母親に送った、緊急事態を知らせる電報でした(10月24日参照>>)

そのページにも書きましたが、この電報の文章を仮名垣魯文(かながきろぶん)という人物が新聞紙上で紹介した事から評判となり、その替え歌が大流行・・・

そんな替え歌を考えるうち、文章の作り方を学んでいった人たちは、またたく間に、見事に文明の利器を使いこなす事となるのです。

♪海山へだてて暮らしていても 心は切れないテレガラフ♪

♪縁の糸目の針金便り きれずに末まで暮らしたい♪

ワォ!
まるで、メールTwitterやないですか!

いつの世も、人の心は変わらないものですね。

もちろん、電報は今でもあります・・・たまには、メールじゃなくて、電信機を使用ちうっつーのもアリかも・・・
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2011年2月23日 (水)

1人=100文で見学OK!テーマパーク・信長の安土城

 

天正四年(1576年)2月23日、織田信長が安土に移り、畿内・近江・美濃・尾張に夫役を課して、安土城の築城に取り掛かりました。

・・・・・・・・

安土城・・・

織田信長が、その威信をかけて築城した「天下布武」を象徴するかのような豪華絢爛な城・・・

破天荒な男の考えた破天荒な城は、何もかもが初づくしで、こののちの築城スタイルに大きな影響を与えます。

そこまでにスゴイ城なのに、わずか3年でこの世から消え(6月15日参照>>)、往時を描いたまともな絵図すら残らない幻の城・・・

歴史好きの妄想を刺激して止まない安土城については、イロイロ書きたい事もあるのですが、まずは「今日は何の日?」のセオリー通りに、本日の出来事として「築城に取り掛かる」段階のお話をさせていただきましょう。

・‥…━━━☆

まずは、信長がこの安土を築城場所に選んだのは・・・
やはり、その立地条件の良さ

ご存じのように安土は琵琶湖の東岸の南寄りの場所にあり、現在は、平地からポコンと一段高くなった丘のような安土山となっていますが、信長の時代には、この西側まで琵琶湖で、この安土山は、その琵琶湖に突き出た半島のようになっていました。

なので、城を出たすぐの場所から船が出せ、その船を使えば、半日ほどで京都へ行けます。

しかも、東海道中山道北国街道のいずれにもすぐに向かえるし、背には近江(滋賀県)の穀倉地帯が広がっています。

さらに、湖南の坂本には明智光秀、ちょいと北の佐和山には丹羽長秀(にわながひで)、湖北の小谷に代わる長浜には羽柴(後の豊臣)秀吉・・・と、いかにも心強い面々がひかえています。

「これほどはない」という好立地に、府城を構える事は、もはや必然とも言えるかも知れません。

そんな安土の地に建設された城は、冒頭に書かせていただいたように、いわゆる「天下普請」=信長個人ではなく、信長の命により、その配下の者総出で建設に尽力するという物です。

普請惣奉行(ふしんそうぶぎょう)を任された丹羽長秀の指揮のもと、工事は驚くようなスピードで進んでいったと言います。

・・・と、ここで、ワタクシ個人的に、最も大きな安土城の特徴と思っているところをお話させていただきます。

それは、この安土城は戦うための城ではなかったのではないか?という事です。

「そりゃ、信長の権威を天下に知らしめるための城なのは当然だろ!」
と、お思いかも知れませんが、私が言いたいのは、それだけのための城であったのでは?という事です。

たとえば、天下人の権威を知らしめるための城と言えば、秀吉の大坂城もそうですが、大坂城は、その大きさ&豪華絢爛さで、秀吉の力の強さを誇示していますが、一方では、守りにも強い難攻不落の城でもありました。

家康の江戸城もそうです。

しかし、安土城はどうでしょう?

最も気になるのは大手道・・・

以前は、安土城が廃城となった後に、この安土山の中心が同じ敷地にあった摠見寺(そうけんじ)に移り、百々橋(どどばし)がメインの出入り口となり、さらに、焼失した本堂とは別の場所に仮本堂を立ててしまっていた事から、この百々橋口が大手とされていました。

しかし、平成元年の発掘調査で、その仮金堂の建設で埋まってしまっていた、本当の大手道という物が見つかりました。

それが、今、安土城跡の拝観入口正面から続く、あの復元された大手道なのですが、これが、どうです・・・その石段の幅は7mもあり、さらに両側には1mの敷石部分がある・・・しかも、この広々とした石段が約180mも直線に進むのです。

Dscn8470a800
安土城跡・拝観入口付近 

両側に秀吉や前田利家といった家臣たちの屋敷が連なるとは言え、ここまで広い道をほぼ一直線につけたなら、写真の赤ちゃんだって、杖なしで登れるのですから、見ようによっちゃぁ、守る気ゼロのようにも見えます。

・・・で、考えられるのは、この城は、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇迎えるための城であって、この広い大手道は、天皇が輿(こし)に乗ったまま、御殿のある本丸のところまで、来ていただくための道だったという事です。

天皇を安土に迎えるという計画は、天正五年(1577年)の文書に初めて登場しますが、すでに着工の時から、その事を考えていた可能性も充分あるのではないでしょうか?

そして、もう一つ、あの城郭の中心にある大きくて豪華絢爛な櫓(やぐら)天主(てんしゅ)という呼び方です。

一般的には、信長がこの安土城に初めて、あのような建物を建設して「天主」と呼び、以降、秀吉や家康が同様の物を立てても、彼らは、それを「天守(てんしゅ)と呼んだ・・・

なんて言われますが、以前にも書かせていただいたように、今では、天守閣のような大きな櫓を最初に建設したのは、松永久秀多聞城だったとされています(12月26日参照>>)

そして、信長自身も、この安土城の前に本拠地とした岐阜城に、それらしい建物を建てています。

そして、興味深いのは、岐阜城の場合、信長自信が、山上にそびえる大きな櫓の事を「天守」と呼び、その麓にあった居館を「天主」と呼んでいたというのです。

それを裏付けるかのように、安土城の天主に信長が住んでいたという事は、皆さまご存じの通り・・・

付け加えておきますが、一般的には、あの天守閣は武器や兵糧を補完しておいて、いざという時には、そこで籠城作戦に入る要塞であって、天守閣に殿さまが住む事はありません。

さらに、オマケのエピソード・・・
天正十年(1582年)の正月、信長は安土城の大見学会を開催しています。

あまりの人の数に、一部の石垣が壊れて、死傷者が出るほどの騒ぎになったと言いますが、そんな中、信長は、自ら本丸御殿の厩(うまや)の入り口に立って、一人=100文の拝観料を受け取り、後ろにひかえる従者に投げるように渡していたのだとか・・・もちろん、一般市民を相手にですよ!

しかも、お盆には、あちこちに提灯をぶら下げ、ライトアップまで試みていたとか・・・

もはや一大テーマパーク!・・・やはり守る気ゼロに見えてなりません。

「天下目前なのだから、もう、守らなくても・・・」
なんて事も言えますが、それこそ、秀吉や家康を考えてみてください、天下を取った後でも、すんなりと後継ぎに継がせられるとは限りません。

家康だって、3代将軍の家光の頃にようやく安心・・・いや、綱吉の時もヤバかったし、考えてみれば15代の慶喜(よしのぶ)まで、常に、その危険と背中合わせだったのですから、信長が、いざという時の事を考えていなかったとは思えません。

そこで、登場するのが、すぐそばにある観音寺城です。

この観音寺城は、中世日本における最大の城郭と言われる立派な物で、近江源氏佐々木氏の築いた城です。

信長があの足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した時には、六角氏が居城としていて、信長は、抵抗する彼らを倒して入京を果たしたのです(9月12日参照>>)

それ以降、この観音寺城は歴史に登場しないまま廃城となるので、最後の城主は六角義賢(ろっかくよしかた)父子という事になるのかも知れませんが、なぜか、信長は、この城を無傷のまま、安土城を建設しています。

一般的には、征した城の近くに、代わりとなる城を築城する場合、前者の廃材を使用するのが普通なのではないでしょうか?

小谷落城の後に長浜城を建てた秀吉も、佐和山城の後に彦根城を建てた井伊直政も(2月1日参照>>)・・・そして、石垣なんかは、とことん破壊してしまうのが当然のような気がするのですが・・・。

Dscn8478a800 しかも、この安土城は、これまで土塁が主流で、重要部分だけを石垣で構築していた形から、安土山全体を石垣で囲うような工法を取りましたから、当然のごとく大量に必要な石材を全国から集める事になり、ご存じのように、石段には石仏まで使用されています。

なのに、観音寺城の石垣には手をつけず・・・

以前、安土城跡と観音寺城跡を見に行った事をブログに書かせていただきましたが(10月6日参照>>)、そこで同時に見学できる(歩いて行ける)ほど、この二つの城は近いのですよ。

もしかして信長さんにとっての安土城は、天皇を招待できるほど、ごっつい応接間を併設した癒しの大豪邸なのかも?

「安土城は見せる城、戦う時は観音寺城で・・・」と考えていたって事ないですかね?
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2011年2月22日 (火)

鳥羽伏見の責任を負った会津藩士・神保修理

 

慶応四年(明治元年・1868年)2月22日、幕末の会津藩軍事奉行添役を務めていた神保修理が自害しました。

・・・・・・・・・・

幕末の会津藩の家老の一人・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の長男として天保九年(1838年)に生まれた神保修理長輝(じんぼしゅりながてる)さん・・・

Zinbosyuri450 幼少の頃から学問に秀でていて、藩校の日新館でもトップクラスの秀才・・・しかも、かなりのイケメンだったとか・・・
(確かにブサイクではない←個人的な好み入りの見解)

おりしも、ペリー黒船来航(6月3日参照>>)に始まった幕末の動乱の中、優秀な青年に成長した長輝・・・

その猛勉強で、すでに国際情勢を見る目を養っていた彼の根底にあったのは、
「こんな時に、国内でゴチャゴチャやってたらアカンのんちゃうん?一つになって外国に対向しようや」
なんていう、まさに最先端の考えでした。

やがて、そんな長輝の先進性は、次々と新体制に変貌していく各藩に遅れまいと、革新的な人材登用と軍事改革を断行する会津藩主・松平容保(かたもり)の目にとまります。

その容保によって藩の重役に抜擢された長輝・・・容保が京都守護職に任命された文久二年(1862年)からは、ともに京都に入って軍事奉行添役として軍事に奔走しました。

慶応二年(1866年)には、その最新の情勢と最先端の技術を視察させてやろうと、長輝を長崎に派遣する容保・・・彼に対する容保の期待の大きさがうかがえますね。

しかし、まさに、その視察の最中・・・一大事件が起こります。

そう、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還です(10月14日参照>>)

このニュースを聞いた長輝が、急いで長崎から大坂へと戻って来たのは、幕府に対抗すべく朝廷から王政復古大号令(12月9日参照>>)が発せられた12月の事でした。

早速、慶喜と容保を前に、恭順の姿勢で対応するよう要請する長輝・・・

長崎での視察の際、あの先進的な考えを持つ長輝は、意外にも倒幕派の志士たちの支持を受けており、親しく接触する機会もあった事から、彼は、薩摩藩や長州藩の倒幕に対する結束力をひしひしと感じていたのです。

そんな倒幕派が、密かに西洋式の武器を大量に所持している事も知っていた彼から見れば、このまま大坂にて交戦する事は、いかにも不利・・・

戦えば負けるであろう事を充分に認識しての上申だった事でしょう。

あの勝海舟も長輝と同意見だったと言いますが、残念ながら、鳥羽伏見の戦いは勃発してしまいます(1月3日参照>>)

始まってしまったものはやむなし・・・と、軍事奉行添役として会津軍を率いて出陣する長輝でしたが、ご存じのように、その結果は予想通りの大敗(1月9日参照>>)・・・

さらに、幕府軍の大将である慶喜が、多くの兵を大坂城に残したまま、容保とともに単身・江戸に帰ってしまう(1月6日参照>>)というオマケつき・・・

結局、その敗戦の責任は、すべて長輝に押しつけられる事になります。

長輝が長崎で見てきたように、会津藩をはじめとする幕府軍は、官軍に比べて、その軍備も古く、軍事訓練も明らかに未熟だったわけですが、それらを棚に上げた抗戦派は、
「戦いに負けたのは、コイツが西国の志士たちと親しくして、倒幕派の通じていたためや!」と非難するのです。

しかも、慶喜の敵前逃亡までも、長輝の「恭順の姿勢で・・・」の申し出によるものだと・・・

あの佐川官兵衛(かんべえ)に代表される会津藩の抗戦派はまだまだ健在で、その批判の嵐は日に日に増加し、もはや、長輝を殺害せんが勢いとなってきます。

心配した容保は、長輝の身の安全を確保するため江戸和田倉上屋敷に、彼を幽閉しました。

しかし、その身を幽閉されてもなお、恭順を訴える長輝・・・この話を聞いた海舟は、いてもたってもいられず、慶喜に、前将軍の立場から、彼を安全な場所へ移す命令を出してくれるよう願い出たのです。

ところが、この動きを知った会津藩士たちは、それを阻止すべく、長輝の身柄を三田の下屋敷に移してしまいます。

その数日後、長輝に自害を勧める藩士たち・・・

「なんとか、藩主・容保に会わしてくれ」と願う長輝でしたが、その願いが聞き入れられる事はありませんでした。

結局、藩士たちは、「これは藩命だ」とのウソをついて長輝に切腹を命じます

切腹が主君=容保の命令であると聞いた長輝・・・
「もともと自分に罪はないけれど、主君の命令とあっては、それに従うのが家臣のとるべき道である」
と言い、慶応四年(明治元年・1868年)2月22日見事、自害して果てたのです。

自刃の前日に書きとめたという海舟に宛てた遺言の中には、
「後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ」
の一文があったとか・・・

岳飛(がくひ)とは、中国南宋時代忠臣でしたが、無実の罪で謀殺された武将・・・後に、その名誉が回復され、その忠臣ぶりが神のように崇められている人です。

自らをその岳飛になぞらえて、「いつか、わかってもらえるだろう」と・・・

思えば、これが、ただ一つ、長輝に許された弁明なのかも知れません。

神保修理長輝・・・享年31歳、
この先、生きていれば、どれほどの活躍をしたかわからない逸材を・・・
しかも、戦いではなく、内ゲバで失ってしまうのは、なんとも、やりきれない思いがするものです。

奥さんの雪子さんとは、周囲もうらやむほど仲が良かったという長輝さん・・・その奥さんは、7ヶ月後の会津戦争で、あの中野竹子率いる娘子軍(じょうしぐん)(8月25日参照>>)の一人として薙刀を奮い、見事に戦死したのだとか・・・

せめて、あの世での夫婦の再会を願うばかりです。
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2011年2月21日 (月)

和気清麻呂に思いを馳せる茶臼山古墳

 

延暦十八年(799年)2月21日、奈良時代末から平安時代初めにかけて官僚として活躍した和気清麻呂が67歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

和気清麻呂(わけのきよまろ)・・・最近はあまり知られなくなりましたが、戦前には教科書にも登場し、お札の肖像画にもなっていた超有名人です。

彼を、お札になるほどの有名人に押し上げたのは、このブログでも書かせていただいている、あの道鏡事件・・・(9月25日参照>>)

神護景雲三年(769年)に、時の女帝・称徳(しょうとく)天皇をとりこにした怪僧・道鏡(どうきょう)が、宇佐八幡の神託を受けて皇位を狙った時に、清麻呂が、その神託を確かめるために、もう一度宇佐八幡に参拝し、「道鏡を天皇にしたらアカン」という否定の神託を授かった事で、道鏡の野望を阻止したという事件です。

もし、清麻呂が、その神託を授からなかったら、皇室ではない人が天皇になっていたかも知れないわけで、現在まで続く天皇家も、そこで途絶えていたかも知れない・・・つまり、清麻呂は天皇家を救った英雄という事で、教科書にも載り、お札にもなっていたわけです。

てな事で、この道鏡事件があまりにも有名な事から、清麻呂って人は神官か何かかと、以前の私は思っていたわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、実は、彼は官僚・・・それも、土木技術に優れた人物で、今で言えば、国土交通省の大臣か次官かといったところでしょうか?

そもそもは備前(岡山県)藤野に生まれたとされる清麻呂・・・

その家系は、もともと第11代・垂仁(すいにん)天皇の皇子・鐸石別命(すでしわけのみこと)の子孫とされてはいるものの、清麻呂が生まれた頃には、一地方豪族にすぎませんでした。

当時の地方豪族と言えば、中央とのつながりを持つために、女子は采女(うねめ・天皇や皇后の食事や身の回りの雑事係)として、男子は舎人(とねり・皇族や貴族の警備などの雑用係)として朝廷に差し出すのが一般的・・・

当時は磐梨別公(いわなしわけのきみ)と名乗っていた清麻呂も、そして、その姉の広虫(ひろむし)(1月20日参照>>)も、ご多分にもれずの一般的ルートで宮中に仕えていました。

やがて勃発した藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ・恵美押勝)の乱(9月11日参照>>)にて武功を挙げた事で、清麻呂は藤野和気真人(ふじのわけのまひと)の姓を賜り、ここから和気清麻呂となって、ちょっとは中央で知られた人物となっていきます。

一方、姉の広虫は称徳天皇のそばに仕え、かなりの信頼を得る立場となっていきました。

実は、あの宇佐八幡へ行ったのも、称徳天皇が信頼する広虫に「もっかい神託を確かめてきてよ」と頼んだものだったのですが、病弱だった彼女は、「その旅に耐えられないかも・・・」という事で、弟の清麻呂が行く事になったわけです。

・・・で、その道鏡事件の時、未だ権力を維持していた道鏡に不利な神託を受けてきた事で、広虫・清麻呂姉弟は、その名前を別部狭虫(わけべのせまむし・さむし)別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に変えられて九州大隅流罪となってしまいましたが、称徳天皇が亡くなって道鏡が失脚した事で、二人は許され、後を継いで即位した第49代光仁(こうにん)天皇によって従五位下に復活・・・広虫は孤児の救済に尽力し(1月20日参照>>)、清麻呂は播磨(兵庫県西部)豊前(ぶぜん・福岡県東部)国司を歴任する事になります。

そんな中、延暦七年(788年)には、
「河内・摂津の両国の境目に川を築いて海にそそぐようにすれば、大地は肥沃になるし氾濫も防げまっせ」
という案を申請して土木事業を行います。

当時は、太古の昔には海だった大阪平野のなごりがまだまだあり、上町台地の東側を流れる河内川(現在の大和川)がもっともっと蛇行して流れていて、度々氾濫を繰り返していたのです。

その河内川から西へと向かって新たな川を造り、水を海へと逃がしてしまおうというわけです。

記録によれば、のべ23万人を動員したと言いますから、政府をあげてのかなりの大事業だったようですが、残念ながら、この事業は失敗に終わります。

大阪在住の方はご存じだと思いますが、この上町台地は、その太古の昔に大阪が一面の海だった時代から半島のように突き出た陸地だった場所で、岩盤が固すぎて、当時の堀削技術では削り出す事ができなかったようです。

結局、これと同様の工事が完成するのは江戸時代になってからなのですが、考えようによっては、確かに技術がおぼつかなかったものの、その目のつけどころ=「そのルートを開削すれば氾濫は収まり豊かになる」という設計に関しては正解だったという事になります。

おそらく、その設計のセンスがかわれたのでしょう、光仁天皇に代わって即位した桓武天皇の下では平安遷都という一大事業の造営大夫として活躍したのです。

現在、大阪市内にある天王寺公園には河底池(かわぞこいけ)通称「ちゃぶいけ」と呼ばれる、あきらかに人工っぽい池がありますが、これが、清麻呂の行った開削工事の跡だとされています。

『続日本紀』には、
「荒陵(あらはか)の南より河内川を導きて…」
Ca3e0040a800 と、あり、この時点ですでに荒れた陵墓となっていた場所の南側に堀を堀ったという事なのですが、その荒陵が、現在、茶臼山古墳と呼ばれている古墳であろうと考えられるところから、その南側にある長方形の池がソレではないか?というわけです。

今は、その池を越えて茶臼山古墳に向かえるよう橋が架けられているのですが、この橋の名前は「和気橋」となっています。

また、ここ茶臼山古墳は、大坂冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村(信繁)陣を置いた場所でもあり・・・

茶臼山
河底池:こんもりした森が茶臼山古墳、右奥に見える橋が和気橋です。

現在のこの風景は、流罪から一転、高級官僚として大成功を収めた清麻呂にとっては、叶わぬ夢となってしまった汚点とも言える風景なのでしょうが、歴史好きとしては時空を超えた3人の英雄に思いを馳せられるステキな風景となりました。

追記:
茶臼山古墳は上記の『続日本紀』の記述に従い、以前は、茶臼山古墳と呼ばれる事が多かったのですが、最近になって、「古墳を匂わせる品が出土していない」事、「石室も確認されていない事」などから、単に『茶臼山』と呼ばれる事もあります。
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2011年2月20日 (日)

家康が見込んだ殺すに惜しい男・依田信蕃~甲州征伐・田中城の攻防

 

天正十年(1582年)2月20日、徳川家康武田方の依田信蕃が守る駿河田中城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・・

天正三年(1575年)5月、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、父・信玄の時代からの多くの老臣を失った甲斐(かい・山梨県)武田勝頼(たけだかつより)でしたが、未だ駿河(するが・静岡県東部)の領地は健在で、西側の要所である高天神城も確保しており、何とか立て直し計ろうと、領内の統治に力を注いでおりました。

しかし、天正六年(1578年)3月に、あの上杉謙信が亡くなった事で勃発した上杉家の後継者争い御館(おたて)の乱・・・この時、勝頼は、北条家の姫を妻に迎えての同盟関係の身であったにも関わらず、北条家から上杉の養子となっていた景虎(かげとら)ではなく、もう一人の養子・景勝(かげかつ)の味方となり、自らの妹・菊姫と景勝を結婚させて、ソチラと同盟を結んでしまいました(3月17日参照>>)

結果的に、この後継者争いは、景勝の勝利となるので、それはそれで良かったのかも知れませんが、当然の事ながら北条氏との同盟関係は崩れ、勝頼は東からの脅威に注意を注げねばならなくなります。

・・・で、この東からの敵の対策に追われていたからなのか?
天正九年(1581年)3月には、西の要である高天神城を、徳川家康に落とされてしまいます(3月22日参照>>)

しかも、ここに来て、あの織田信長が・・・
前年の天正八年(1580年)、10年に及んだ石山本願寺との戦いに終止符を打った(11月24日参照>>)事で、心おきなく武田との抗戦に力を注げるようになったのです。

もちろん、勝頼も、来るべき戦いを意識して、堅固な防備をほどこした甲斐初の本格的な城・新府城を構築し、本拠を甲府から韮崎(にらさき)へと移して準備を整えはじめますが、その準備も未だ不十分な天正十年(1582年)の1月、勝頼の妹・真理姫の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、信長側に寝返ります。

かの新府城の普請にかかる某大な出費に嫌気がさしたとも、早々と武田の行く末を見限ったとも言われる義昌の寝返りですが、この出来事は、その真理姫が自ら夫と縁を切って武田家に戻って来るほどのショックな出来事・・・もちろん、勝頼にとってもショックなら、武田の家臣にとってもショック・・・

これをきっかけに、武田の家臣の寝返りが相次ぐようになり、当然、信長も、このタイミングで武田討伐の軍を起こす事に(2月9日参照>>)・・・もちろん、信長と同盟関係にある家康も動きます。

このような経緯から、天正十年(1582年)2月20日武田方の田中城(静岡県藤枝市)を取り囲んだ家康・・・しかし、なかなかの堅固な守りにはばまれ、すぐには落ちる気配もありません。

この時、田中城の守りを任されていたのが依田信蕃(よだのぶしげ)という人物・・・彼は、父・信守(のぶもり)とともに信玄の時代から仕えている武田の家臣で、なかなかの優れ者です。

Tokugawaieyasu600 攻めあぐねた家康は、成瀬正一(なるせまさかず)なる家臣を使いにたて、
「武田の旧臣は、ことごとく主君を見限って寝返ってるよって、もう先は見えてるで~できたら、早いうちに城を開け渡してもらえんやろか?」
と、開城の説得作戦に出ました。

すると信蕃・・・
「武田の諸将に、その真偽を確かめてから返事さしてもらいますわ~」
と、とりあえずは拒否・・・

思案した家康は、すでに武田を離反して家康の味方についていた穴山梅雪(あなやまばいせつ・信君)(3月1日参照>>)書簡を書かせて送り届けるよう手配しました。

この梅雪の穴山氏は武田宗家との婚姻関係も結び、武田姓を免許されるほどの一門・・・言わば家臣の中の家臣ですから、さすがの信蕃も納得し、
「ほな、先年の二俣城のご縁もありますよって大久保忠世さんになら城を明け渡しましょう」
と、田中城の開城を決意したのです。

・・・と、実は、あの長篠の合戦の時、信蕃は父とともに遠江(とおとうみ・静岡県西部)二俣城(静岡県浜松市)の守りについていたのですが、この時も、やはり攻めあぐねた家康は、やむなく長期戦の兵糧攻めにするのですが、やはり、なかなか落ちず・・・

しびれを切らした家康が、城内すべての命の保証を条件にやっと開城にこぎつけたという事がありました。

この時、信蕃が高天神城へと退いた後に二俣城に入ったのが忠世・・・という経緯があったのです。

こうして天正十年(1582年)3月1日駿河田中城が開城されました。

実は、この一連の交渉の中で、家康は、
「すなおに開城してくれたなら信州(長野県)の本領を与えよう」
という条件も出していますが、これには
「勝頼様の存亡を確かめるまでは、承諾できかねます」
と、信蕃さん、さすがの返事を返し、一旦、自分の領地である佐久郡芦田へと帰還しました。

やがて3月11日・・・ご存じのように勝頼は、天目山にて自害(3月11日参照>>)し、武田家は滅亡となるのですが、家康の思いとはうらはらに、信長は
「勝頼に忠実やった家臣を召しかかえたらアカン!」
と言い、見つけ次第、死罪にせよ」との強硬姿勢を取ったのだとか・・・

やむなく家康は、信蕃に数人の従者をつけて二俣の奥小川という場所に、その身を隠すように指示したと言います。

おかげで命助かった信蕃・・・本能寺の変で信長が去った後は、徳川の家臣となり、旧武田の者を従え、この先、しばらくの間、隣国の北条との戦いに苦戦する家康を助ける大活躍を見せる事になるのですが、そのお話は、また、いずれかの日づけにて書かせていただきたいと思います。
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2011年2月18日 (金)

先走りし過ぎた若き猛者・富田長繁の最期

 

天正三年(1575年)2月18日、越前一向一揆と抗戦中の富田長繁が、小林吉隆の裏切りに遭い、命を落としました

・・・・・・・・・・

越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)の家臣であった富田長繁(とみたながしげ)は、あの小谷城攻防戦のさ中に、朝倉を見限り、織田方の配下に走ったと言います。

ご存じのように、天正元年(1573年)8月・・・この時、織田信長軍に囲まれた小谷城の浅井長政が、同盟関係にあった朝倉に救援を求めたため、義景は自ら出陣し、小谷城の北側まで進んだものの、信長が主力部隊を、その救援に駆け付けた朝倉軍へと投入してきたため、やむなく後退・・・追ってくる信長軍と刀禰坂(刀根坂・とねざか)にて死闘をくりひろげ(8月14日参照>>)、さらに本拠地・一乗谷までも攻められ、結局、小谷の浅井より8日早く、朝倉氏が滅亡へと追いやられてしまった(8月20日参照>>)、あの戦いです。

この時、長繁以外にも、多くの朝倉の家臣が、主君を見限って寝返ったわけですが、戦いに勝利した信長は、ぶんどった越前の地を、自らが直接支配するのではなく、その多くを、この時寝返った旧朝倉の家臣に安堵するという方法をとります。

やはり朝倉の家臣でありながら長繁より一足早く寝返った前波吉継(まえばよしつぐ・後に桂田長俊に改名)は、真っ先に寝返って、信長軍進攻の道案内をしたという事もあって越前守護代に任ぜられ、さらに義景の本拠だった一乗谷城を与えられます。

長繁も龍門寺城を与えられ、府中領主に任じられはしましたが、負けん気の強い長繁は、この結果にはなはだ納得いかず・・・
「くそ!一歩遅れたために・・・」
という長繁の不満は、モンモンと心の中に残ってしまうのです。

Odanobunaga400a まもなく、信長は、2年前に一度攻撃を仕掛けた長島一向一揆に、2度目の兵を向けますが、以前書かせていただいたように、この戦いは、信長自身の命が「あわや」というほどの手痛い敗北となります(5月16日参照>>)

もちろん、この戦いには、長繁も信長の配下として参戦していて、敗戦の中で自分の配下の者が功をを挙げた事を喜び、その恩賞に預かろうとするのですが、なんと、前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)が、これを握り潰して、信長への報告をしなかったと言うのです。

どうやら長俊さん・・・義景の旧領地と一乗谷を貰った事で舞いあがり、なにやら、朝倉にとって代わって越前を治めているような気分になってしまっていたようです。

もとの上下はあれど、信長に寝返った時点で、皆、信長の配下の者になるわけで、本来なら、彼らは皆、信長の家臣という同僚・・・なのに、長俊は、同時期に寝返った彼らを、自らの家臣のように扱うようになっていたのです。

これには、長繁ならずとも怒り心頭・・・皆、徐々に長俊から心が離れていきます。

そんな中、長繁のもとに、長俊が
「あんなヤツに府中を任せるなんて、どうかしてるゼ!」
と、長繁の領地の削減を信長に願い出ているというウワサが舞い込んで来ます。

「アカン!こうなったら、ヤラれる前にヤルしかない!ヒーハー!」
と、長俊を討つ決意をする長繁・・・

おりしも、一旦、本願寺・顕如(けんにょ)と信長の間で結ばれていた講和が、前年の武田信玄の死によって崩れはじめた天正二年(1574年)・・・

長繁は、地元の本願寺宗徒を扇動して一向一揆を起こさせ、自らも長俊の居る一乗谷へと挙兵します。

一揆勢と組んだ長繁の兵は約2万・・・一方の長俊には、もはや味方してくれる旧朝倉仲間もおらず、わずかに500ほど・・・勝敗は明らかでした。

ところが、この勝利に勢いづいた一揆勢と長繁は、そのまま、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃!・・・目付として赴任していた3人の奉行まで追放してしまいます。

「おいおい、調子乗りすぎと違うんかい!」
と誰しも思いますが、長繁は、まだ行きます。

同じく、旧朝倉の家臣で、その力を警戒していた相手=魚住景固(うおずみ かげかた)と、その息子の彦四郎
「一緒に、モーニングせぇへん?」
朝食に誘い出し、騙し討ちにしてしまうのです。

さらに翌日には、その屋敷に攻め込んで長男・彦三郎らをも殺害して魚住一族を滅亡に追いやります。

それでも長繁は止まりません。

自分の障害となりそうな、旧朝倉家臣の同僚を次々と襲撃して追放・・・なんと、一時的に越前一国を掌握してしまいます。

「やったゼ!」
と、思うと同時に、ここで長繁・・・はた、と気がついた?
「そや、俺って、信長さんの奉行も追放してもてる~」

と、思ったかどうかはわかりませんが、ともかく、
「これは、旧朝倉家臣の権力争いで、信長さんに刃向かう気持ちはありません」
てな、お詫びの書状とともに、弟を人質に差し出し、越前守護の地位を認める朱印状を出してくれるように、信長に願い出たのだとか・・・

この願い出に関しては真偽のほどは定かでなく、信長さんの返答も不明なようですが、
あの信長さんが許してくれるかなぁ???

いや、信長が許すも許さないも、この行動に怒り爆発したのが、一揆で協力した、あの本願寺門徒です。

そうです、
そもそも、越前一向一揆が長繁の挙兵に協力したのは、信長の配下となっている長俊を倒すため・・・未だ本願寺の本拠である大坂石山本願寺が信長と抗戦中なのに、自分が越前を掌握したからって、またぞろ信長の配下に収まっちゃうのなら、何のために協力したんだ?ってなるのは当然です。

・・・で、この越前の混乱にすかさず目をつけたのが、教祖様=本願寺・顕如・・・七里頼周(しちりよりちか)を大将として派遣し、「長繁を討って、越前をも一揆の持ちたる国にしてしまいなはれぇ~!」檄を飛ばします。

これを受けて奮起する一揆勢・・・さらに、長繁にしてやられた旧朝倉の同僚や、長繁の統治に不満を持つ府中の町衆も加わって、一揆勢は10万にも膨れ上がります。

一方の長繁は、6000ほど・・・

かくして天正三年(1575年)2月13日に、最初の戦闘が開始されますが、さすがに10万もの敵がいては、またたく間に府中ごと包囲されてしまいました。

しかし、ここで長繁の負けん気の本領発揮!・・・相手は10万もの数なんですから、このまま籠城していても、勝ち目はありません。

こうなったら、神出鬼没に撃って出る奇襲作戦!ですが、これが、意外に功を奏します。

もちまえの性格から、自ら先頭に立って鬼神のごとき形相で疾風のように駆け抜ける長繁に対して、一揆勢は、なんせ、戦闘経験の少ない烏合の衆・・・その縦横無尽の武勇に押され気味となり、長繁は、一度は、敵の本陣にまで攻め込むという快挙!

しかし、本当の敵は意外なところにいました。

武勇優れた剛の者=長繁が、100%の力で挑んでいるのです・・・配下の者が、皆、それについて来れるとは限りませんでした。

1日、また1日と時が過ぎる中、
「このハードな毎日についていけない」
と感じる者が出てきたとしても、それを責める事はできないのかも知れません。

天正三年(1575年)2月18日早朝・・・この日も、自らが先頭に立ち、怒涛のごとき突撃を開始した長繁・・・

そこを、背後から一発の銃弾が放たれました。

無防備な背後から狙われた長繁はひとたまりもなく、落馬して命を落としたのです。

銃を撃ったのは小林吉隆(よしたか)・・・もとは桂田長俊の家臣でした。

こうして主君を失った長繁勢は一気に総l崩れとなり、勢いづいた一揆勢の勝利となってしまったのは言うまでもありません。

富田長繁・・・まだ24歳の若者でした。

その大きすぎる野望に、無謀な戦いを繰り返した感のある長繁ですが、その年齢をみれば、若さゆえの先走りのような気もします。

15倍の兵に囲まれても怯む事なく、果敢に攻めかけるその武勇は、良い形で発揮されれば、このうえない優れた武将になった事でしょう。

もう少し・・・30代半ばの長繁さんの戦いぶりも、見てみたかった気がします。
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2011年2月17日 (木)

南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇

 

文永九年(1272年)2月17日、第88代・後嵯峨天皇が、53歳で崩御されました。

・・・・・・・・・

後嵯峨(ごさが)天皇・・・まだ、その名を邦仁王(くにひとおう)と呼ばれていた、わずか2歳の時に父・土御門(つちみかど)上皇生き別れとなります。

そもそもは、あの承久の乱・・・

この承久の乱の首謀者となる後鳥羽(とば)上皇は、源平争乱の中、壇ノ浦で、わずか8歳で入水した安徳(あんとく)天皇(3月24日参照>>)の弟で、その幼さゆえ都に残された人物です。

その安徳天皇をいただく平家が、三種の神器を持ったまま西海へと落ちたため、神器のないままの異例の即位で後鳥羽天皇となったのでした。

その後、ご存じのように、争乱の勝者である源頼朝(みなもとのよりとも)によって鎌倉幕府が開かれたわけですが、第3代将軍・源実朝(さねとも)の時代になると、もはや源氏・直系の将軍よりも、それを補佐するはずの北条氏の執権の方の勢いが強くなってきます。

さらに、建保七年(承久元年・1219年)1月に、その実朝が暗殺された(1月27日参照>>)事によって、もはや将軍は完全な飾り物となり、まさに北条の天下・・・

すでに第2皇子の土御門天皇に譲位して、後鳥羽上皇となって院政を行っていたものの、北条が仕切る幕府との関係が悪化する一方だった事で、後鳥羽上皇は討幕を決意・・・おとなしい土御門天皇を退位させて、討幕にノリノリの第3皇子・順徳(じゅんとく)天皇を即位(12月28日参照>>)させます。

そして、いよいよ承久の乱決行の時、順徳天皇はわずか4歳の自分の息子=仲恭(ちゅうきょう)天皇に皇位を譲って挙兵しました。

しかし、ご存じのように、この承久の乱は、あの頼朝の妻=北条政子の涙の演説の効果で奮起した武士たちにより、見事に天皇側の敗北となりました(5月14日参照>>)

首謀者の後鳥羽上皇は隠岐(島根県)への流罪(2月22日参照>>)、ノリノリで参戦した順徳上皇は佐渡への流罪(12月28日参照>>)・・・この時、乱に消極的だった土御門上皇には、幕府からの咎めはなかったのですが、父と弟のしでかした事件の大きさに悩んだ土御門上皇は、自ら、土佐(高知県)への流罪を申し出(10月11日参照>>)と言います。

そう、本日の主役・後嵯峨天皇は、この土御門上皇の第3皇子・・・この事件が2歳の時だったのです。

未だ、その顔もわからぬ年頃に、父と生き別れになった皇子は、母方の叔父や祖母のもとでひっそりと・・・「生きていさえすれば、いつかは会える・・・」と、わずかな希望を抱きつつ暮らしていたのだとか・・・

しかし、皇子が12歳の時に、父は流刑先で亡くなり、その後、彼を養育してくれた叔父も、そして母も亡くなる中、徐々に側に仕える者も少なくなり、皇子は20歳になっても元服すらできず、いずれは出家するつもりで、ただひたすらおとなしく過ごす毎日でした。

一方、この間の天皇ですが・・・

上記の通り、後鳥羽上皇(父)・土御門上皇(兄)・順徳上皇(弟)の3人が流罪となり、その順徳上皇が皇位を譲った仲恭天皇はわずか70日で廃位・・・つまり、天皇であった事すら記録から消されてしまったのです(4月20日参照>>)

当然の事ながら、勝利した鎌倉幕府側としては、乱に関係のない人物を次の天皇にしたいわけで・・・そこで、白羽の矢が立ったのが、茂仁王(ゆたひとおう・とよひとおう)・・・

この人は、あの安徳天皇の弟で、源平の合戦の時には平家とともに西海へと逃れた守貞(もりさだ)親王の息子ですが、ほとんどの皇室の人が関係している承久の乱に関わっていない人を選ぶためには、もはや、過去の戦いの事をウダウダ言ってるわけにはいかないわけで・・・

こうして、第86代後堀(ごほりかわ)天皇が誕生しました。

・・・で、その次は、後堀河天皇の息子が第87代四条天皇に・・・

ところが、この四条天皇が、わずか12歳という若さで事故で亡くなってしまいます。
当然、子供は、まだいませんでした。

突然、空席となった天皇の椅子・・・

朝廷の実力者・九条道家は、順徳上皇の息子・忠成王(ただなりおう)を皇位につけようと幕府に働きかけますが、時の執権・北条泰時(やすとき)断固反対!・・・

未だ、承久の乱に関与しまくった順徳上皇が、隠岐にて健在な事を理由に、土御門上皇の息子=邦仁王を推したのです。

Gosaga600b もはや出家あるのみ・・・と思われていた邦仁王は、こうして、公家たちの反対を押し切った形で第88代後嵯峨天皇として即位したのです。

実は、その理由には、上記だけではなく、この後嵯峨天皇の叔父にあたる土御門定通(つちみかどさだみち)の側室となっていたのが、先の第2代執権・北条義時の娘・・・つまり泰時の妹だったわけで、おそらくは泰時の心の中で、とうの昔に決めていたのでしょう。

とは言え、表向きは、鶴岡八幡宮のお告げがあったという事にして、公家たちを抑え込んだのでした。

こうして誕生した後嵯峨天皇でしたから、その在位中の幕府との関係はすこぶる良好でした。

北条氏の力を後ろ盾に、各地に御殿を建設して、遊宴したり歌合をしたり蹴鞠をしたり・・・高野山への旅行も度々楽しんだりして、即位から5年後の寛元四年(1246年)、第3皇子の第89代深草天皇へとバトンタッチしました。

ところが、この後深草天皇が、大変小柄で足腰が弱かった事から、父の後嵯峨上皇は、だんだんと第7皇子のこ恒仁(つねひと)親王を、次期天皇にしたくてたまらなくなって来たのです。

この恒仁親王は、健康そのもので、しかも大変優秀な息子・・・結局、正元元年(1259年)、後深草天皇を反強制的に退位させて、弟の恒仁親王を、第90代亀山天皇として即位させたのです。

当然、後深草上皇は、不満ムンムンです。

そして、後深草上皇の不満がつのる一方の文永九年(1272年)2月17日後嵯峨法皇(文永五年・1168年に出家)は崩御されたのです。

しかも、亀山天皇の次の天皇に、その息子の世仁(よひと)親王に指名して・・・

えらい遺言を残してくれたもんです。

後嵯峨法皇の崩御後、その遺言通りに、亀山天皇の息子が、第91代後宇多(ごうだ)天皇として即位します。

遺言なのですから、当然と言えば当然ですが、一方の後深草上皇の不満が頂点に達するのも当然と言えば当然・・・

文永十一年(1274年)、父・後嵯峨法皇の三回忌に六条殿長講堂に参詣した後深草上皇・・・手には、自らの血で書いた法華経を握りしめ、亡き法皇に、その無念の思いを祈願し、翌年には出家してしまいます。

これには、弟の亀山上皇もびっくり!

何とか事を収めようと、後深草上皇の息子・煕仁(ひろひと)親王を自分の猶子(ゆうし・契約関係の強い養子)とし、後宇多天皇の次に天皇になれるよう皇太子に立てました。

この皇太子が、後の第92代伏見(ふしみ)天皇・・・これで、後深草上皇の不満も解消された事でしょうが、この時の両者の対立は、この後、長期に渡る確執として残ってしまうのです。

そう、この後深草天皇の血統が持明院統(じみょういんとう)、亀山天皇の血統が大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれ、さらに、持明院統が北朝に、大覚寺統が南朝に・・・

そう、あの南北朝の時代へと突入する事になるのです。
続きのお話は9月3日のページでどうぞ>>

まさに、南北朝への火種をまき散らしちゃった後嵯峨天皇・・・まさか、この先100年、鎌倉幕府が倒れた後も、モメるとは、思ってもみなかったかも・・・
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2011年2月16日 (水)

時代祭の先頭を行く「山国隊」と北野天満宮

 

明治二年(1869年)2月16日、農民兵として戊辰戦争を戦った山国隊が、京都を出立・・・帰国の途につきました。

・・・・・・・・

毎年10月22日、平安遷都を記念して行われる時代祭・・・京都三大祭の一つにも数えられる有名なお祭りなので、ご存じの方も多いでしょう。

このお祭りは明治二十八年(1895年)に、桓武天皇平安遷都から1100年を記念して開催された博覧会(4月1日参照>>)メインパビリオンとして創建された平安神宮の記念事業として開始されたもので、初回は、やはり記念という事で、少々雰囲気が違っていたようですが、2回目からは、遷都の日である10月22日に、桓武天皇と孝明天皇の御霊が、その住まいであった御所から平安神宮へと向かうお供として行列が付き添うという、現在の形となりました。

その見どころは、なんと言っても、明治時代を先頭に、徐々に古へと戻って行く、その時代々々の衣装を身にまとった総勢2000名越え、長さ2kmにも及ぶ時代行列ですよね・・・まさに、タイムマシーンで見る一大絵巻のようです。

 

・・・で、この行列の先頭を行くのが、維新勤王隊列の鼓笛隊・・・現在は、この名前で呼ばれていますが、実は、大正時代頃までは「官軍・山国隊」と呼ばれていた列で、実際に、山国隊の生き残りや、その子孫たちが行列に参加していたのです。

今日は、その山国隊(やまぐにたい)のお話・・・

山国とは、現在の京都市右京区京北・・・幕末当時は丹波国桑田郡にあった地名です。

そこは、桂川(大堰川=おおいがわ)に沿って開かれた豊かな山村で、豊富な木材がある事から、桓武天皇が平安遷都を機に皇室の領地へと編入し、以来、御所や都の造営の用材を提供した来たという歴史があり、京都からは常に役人が出向き、村からも都への手伝いに出かけて行ったりと、皇室とは深い関係にあった村だったのです。

しかし、やがて、貴族の時代から武士の時代へと移り行く中、一つ、また一つと皇室の直轄地が削られていき、江戸時代には、もともとの山国の里がいくつかに分割された状態になってしまっていたのです。

とは言え、やはり、同じ故郷に住む者同士・・・何とか、もとの一つに戻したいと思うのは人の常・・・やがて、何やら江戸時代の終わりも見え始めた幕末・・・

ここがチャンスとばかりに、天皇から官位を拝領し、それを後ろ盾に、なんとかもとの山国全体を皇室の直轄地に戻してもらおうという動きが起こります。

その運動のリーダーとなったのが、水口市之進(いちのしん)鳥居五兵衛(ごへえ)河原林安左衛門(かわらばやしやすざえもん)藤野斎(いつき)の4名でした。

皇室に願い出るため、京都に出る彼ら・・・幸いな事に水口の弟が鳥取因幡藩の呉服所役人の養子になっていたので、そのコネで因幡藩の屋敷に入る事を許され、そこを拠点にチャンスを待ちます。

しかし、この頃の京都は、まさに幕末動乱の舞台・・・きな臭さをヒシヒシと感じながら様子をうかがっていたところ、慶応三年(1867年)12月、あの王政復古の大号令(12月9日参照>>)が発せられました。

同時に、丹波の村々にも、あの西園寺公望(さいおんじきんもち)の名前で、「勤王の志ある者は武器を持って官軍に参加すべし!」との呼びかけがあったのです。

もともと天皇家の直轄領を願っている山国の人々・・・積極的に参加しないはずはありません。

一旦、山国に帰っていた水口たちも、故郷の山国神社で結成された30名の仲間の軍とともに、再び京都へと戻って来ました。

京都では、西園寺に会う事はできませんでしたが、政府議定(ぎじょう)岩倉具視(ともみ)に接触でき、彼の指示のもと、因幡藩の付属部隊として、その名も山国隊が誕生したのです。

山国隊は、因幡藩屋敷で合宿し、北野天満宮椿寺の間にあった茶畑に造成された訓練所にて、まずはフランス式の軍事訓練に挑みます。

訓練にあけくれる日々の中、その行き帰りには、天満宮に立ち寄って戦勝の祈願をする毎日だったのだとか・・・

やがて慶応四年(明治元年・1868年)2月13日・・・山国隊は関東の戦場に向かって出陣しました。

隊長は因幡藩士の馬場金五、組頭は地元のリーダーの一人だった藤野・・・

一方、水口は、わずかな居残り組とともに、内裏の警護や隊の資金調達の役割を担います・・・なんせ、徴兵ではないので、隊にかかる費用は自腹ですから・・・

居残り組の思いを背負いつつ東に向かう山国隊は、まずは勝沼で、あの新撰組近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)(3月6日参照>>)とぶつかります。

その後、江戸に入った山国隊は、4月には北関東宇都宮で戦い、5月15日には、あの上野戦争(5月15日参照>>)にも参戦・・・隊のうちの幾人かは、さらに東北へも向かいました。

最終的に、戦死者4名、病死者2名、負傷者数名・・・全体で30名だった事を考えると、彼らにとっては大きな被害という事になりますが、とにもかくにも維新は成り、11月25日には、東征大総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)とともに凱旋帰京を果たしたのでした。

時代祭の行列は、この時の凱旋の様子を再現したものとも言われます。

年が明けた明治二年(1869年)の正月・・・懐かしの北野天満宮に参拝した山国隊の生き残り一同は、戦勝祈願が叶ったお礼と亡くなった者への鎮魂の意味を込めて、石灯籠を奉納します。

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山国隊奉納の石灯籠(北野天満宮)…クリックで大きくしてご覧ください

現在、北野天満宮の境内の北西あたりにひっそりと建つこの石灯籠がソレです。

「山國隊」の文字の下には、代表者であろう人の名が刻まれているようですが、今はもう読み取れません。

こうして明治二年(1869年)2月16日、京都にとどまる事になった藤野を除いた山国隊は、故郷の地へと戻って行ったのです。

山国隊の資金調達のため、多くの山林が売りはらわれた山国では、結局、当初の夢だった皇室の直轄地の話は、露と消えてしまいました。

しかし、彼らの活躍は、故郷の誇りとして、しっかりと後世に伝えられたのです。

その証が、時代祭りの先頭を行く、あの勇姿・・・そこには、名も無い農民兵として時代の転換期に命を賭けた、彼らの思いが込められているのです。

ところで、京都に残った藤野さんには、ちょっとした後日談があるのですが、そのお話は、また次の機会に・・・
ひっぱる~ひっぱる~(◎´∀`)ノ
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2011年2月15日 (火)

応神天皇の時代と渡来人

 

応神四十一年(310年)2月15日、第15代応神天皇が崩御されました。

・・・・・・・・

4年半も前に書かせていただいた記事ではありますが、【神功皇后の三韓征伐】(2006年9月5日参照>>)・・・

この時、先に亡くなった影の薄い仲哀(ちゅうあい)天皇に代わって、重臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに、大陸へと出兵する勇ましい女性が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)神功(じんぐう)皇后・・・その活躍から、卑弥呼では?とも噂される皇后さまですが、その出兵の際に、臨月だった神功皇后のお腹の中にいたのが、誉田別尊(ほむたわけのみこと)・・・後の第15代応神(おうじん)天皇です。

臨月で日本を出発したにも関わらず、大陸へ行って戦いに勝利して、筑紫に戻って来てから出産・・・と、現実ではありえない流れのせいもあって、その前の第13代成務(せいむ)天皇と第14代仲哀天皇と、この神功皇后の3人は、実在しなかった人物ではないか?との主張もあります。

ともあれ、幼い時から聡明だった誉田別尊は、3歳で皇太子となり、摂政として政務をこなしていた神功皇后が亡くなった事を受けて、応神天皇として即位したのです。

・・・で、この応神天皇は、日本一の御陵で有名な仁徳天皇のお父さんなわけですが、第15代の応神天皇から、第25代の武烈(ぶれつ)天皇までの10代を河内王朝の時代と呼んだりします。

つまり、これまでは大和(奈良県)三輪山を中心とした王朝であった物が、この応神天皇を始祖として河内平野に拠点を移し、10代後の武烈天皇でその血統が絶え、北陸からやって来た継体(けいたい)天皇へと政権が移る(12月8日参照>>)事から、前後と区別して考えられるという事なわけですが、最近では、万系一世とされる同じ王朝が拠点を移動したのではなく、断絶と侵略を繰り返した政権交代=別の王朝になったとの見方が主流となっています。

とは言え、この頃の王朝というのが、今の私たちが思い描く国家というような形を成していたのかどうかは微妙で、もっと規模の小さな部族同士の同盟や争いが繰り返されていただけで、国家転覆とは言い難い政権交代だった可能性もあります。

・・・というのも、第16代の仁徳天皇と第18代の反正(はんぜい)天皇摂津河内に中心となる宮殿を置いたとされていますが、他の天皇の宮殿は大和にあったとされ、完全に大和との関係が切れていたとは言い難い部分もあるからで、そのあたりはこの先の研究に期待したいところです。

ところで、おそらくは、ここらへんから実在の人物であろうと言われる応神天皇ですが、そのキャタクターについては、少し微妙な部分もあります。

それは、息子である仁徳天皇との共通度合い・・・

応神二十二年、天皇が難波大隅の宮の高台に立って遠く海を眺めていたところ、横にいた妃の兄媛(えひめ)が、なにやら悲しげな表情・・・

「どないしたん?」
と聞くと、
「パパとママが恋しいねん・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」
と・・・
そう、兄媛は吉備(岡山県)の出身で、遠く故郷に両親を残したまま、こちらにお嫁に来たのです。

「ほな里帰りしといで」
と、天皇はやさしく送りだし、後に自分も吉備まで行ったのだとか・・・

一方の仁徳天皇には、寵愛していた黒日売(くろひめ)が、皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)の嫉妬を恐れて故郷の吉備に帰ってしまい天皇が吉備まで迎えに行くというエピソードがあります。

里ごころと嫉妬という違いはあるものの、ちょっと似てますね。

また、応神天皇のエピソードとして、枯野(かりの)という船が老朽化した時に、その船の材料を焼かせて塩を作り、その燃えカスから琴を作ったという話が出てきますが、これも、細かな部分は違いますが、そっくりな話が仁徳天皇のエピソードとしても登場します。

そんなところから、応神天皇と仁徳天皇は同一人物で、年代のつじつまを合わせるために、二人に分割されたのでは?とも言われます。

ただし、その人物が応神天皇であったか仁徳天皇であったか、あるいは、別の呼び方をされていた誰かであったかは不明なれど、この時代に王と呼ぶにふさわしい人物が、この河内にいた事は確かであろうと感じます。

それは、この時代に多くの渡来人が大陸からやって来て、たくさんの文化や技術を日本に伝えたとされ、古代の産業革命とも呼べそうな手工業や土木技術の変化が、明らかに見られるからですが、これだけの変化を土着の日本人だけでこなしたとは、やはり考え難いでしょうね。

この時代の朝鮮半島では、常に政治的争乱が絶えず、そのために亡命せざるを得ない集団も常にいた一方で、日本で王と呼ばれる人は、その経済力と権力の維持に、彼らの先進技術を導入しようと、むしろ大歓迎で受け入れたという背景があったはずです。

Dscn4383800 応神十六年の記述には、百済(くだら)から王仁(わに)博士がやって来て、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に様々な書物を以って学問を教え、これが、日本に儒学が伝わった最初とされています。
(かつては、漢字も王仁博士が伝えた物とされていましたが、今では、漢字はもっと以前に伝わっていたという見方が主流です)

また、応神二十年には、漢人の阿知使主(あちのおみ)が大量の技術者とともに渡来して、大陸の最新技術を伝え、後に倭漢(やまとのあや)として日本に根付いたとされます。

Dscn2727a800 さらに、(しん)の始皇帝の子孫とされる(はた)が渡来したのも、この応神天皇の時代と言われ、彼らは養蚕や機織りの技術を伝えたと言われています。

そんな応神天皇は、応神四十一年(310年)2月15日日本書紀では110歳、古事記では130歳でこの世を去り、日本で第2位の大きさを持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(羽曳野市・古市古墳群)に眠っているとされています。

Ouzin003bb900
応神天皇陵

110歳か130歳( ̄○ ̄;)!・・・その誕生のエピソードとともに、未だ神話の世界の夢物語感が抜けきれない天皇ではありますが、現在も脈々と受け継がれる大陸の技術を積極的に受け入れた古代の王は、この時代に確かに存在したのです。

・‥…━━━☆

今日のお話のゆかりの地を、本家・ホームページで紹介しています。
くわしい行き方など書いていますので、よろしければご覧くださいo(_ _)oペコッ

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2011年2月14日 (月)

大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第6回・光秀の天下を見て

 

さすがに、ここまで来ると、ドラマの内容がすべて史実だとお思いの方もいらっしゃらないでしょうから、あまり多くを語りますまいと思っていたのですが・・・

3週間前に書かせていただいた【大河ドラマ「江~姫たちの戦国」第3回・信長の秘密に思う】(1月24日参照>>)で、ワタクシ、大きな勘違いをしておりまして、その事をスルーしたまま洞ヶ峠を決め込むのも、なんだか気が進まないので、本日、書かせていただこうと思いました。

で、その勘違いというのは、ドラマの中での江と織田信長おじさまの触れ合いが、子供の頃の出来事であると、視聴者にわかるようにしたほうが良かったのではないか?という事・・・

そのページでも書かせていただいたように、あの徳川家康が妻の築山殿と息子・信康殺害する事件があったのは、江が7歳の時、そして、あの印象深い馬揃えの軍事パレードが9歳、そして、今回の本能寺の変が10歳です。

と言っても、当時は数え年の年齢ですから、現代なら、築山殿・信康事件が幼稚園の時、本能寺が小学校3年生という事になります。

しかし、誰が考えてもわかる通り、上野樹里ちゃんが、どれだけ頑張って演技しても、幼稚園や小学校低学年には見えません。

あの「のだめ」っぽい演技で、幼さをめいっぱい表現してくれていますが、歴史に興味の無い方がご覧になれば、どう転んでも中学生くらいが精一杯・・・なので、私としては、明確な年齢はわからないまでも、せめて、本能寺までの一連の信長おじさまとの思い出が、子供の頃の出来事であると、視聴者にもわかるようにしていただいたほうが良いのではないか?と思っていたわけです。

しかし、先週の第5回「本能寺の変」で、
「ひょっとして?」
と思い、
今回の第6回「光秀の天下」を拝見させていただいて、やっと確信するに至ったわけです。

もう、すでにお気づきの皆さまからすれば
「お前、やっとわかったか!」
てな感じでしょうが・・・

そうです。
原作者=脚本家のお姉さまは、むしろ、視聴者に年齢をわからせたくなかった・・・江の年齢をウヤムヤにしときたかったんですね。

幼稚園児が家康の妻と息子の殺害に疑問を抱いたり、家族にも内緒でお悔やみの手紙を出したり・・・

小学2年生が49歳のオッチャンに「おのれを信じることと、おのれが神になることは違います!」と言ってみたり・・・

小学3年生が単独で、(同盟関係であるとは言え)他家のオッチャンとともに命がけの伊賀越えをしたかと思えば、城の奥の奥まで(セキュリtェイはどうなってるんだ?)やすやすと侵入した野武士を相手に、大の男(お供の武士)を振りはらい、真っ向から立ち向かう・・・

果ては、ウチらか一番知りたい、明智光秀の謀反に至る心境まで聞きだそうと・・・

これは、とても小学校低学年のなせるワザではありません。

実年齢がバレると、とてもじゃないができない事を江にやらせるために、わざと年齢をわからなくして、(赤ん坊を除く)最初っから、樹里ちゃんに演技してもらってたんですね~納得しました。

もちろん、これは番組批判じゃないです~

大河ドラマの主人公には、「どんな事件にでも首を突っ込む事ができる」という特権があり、それは、物語をおもしろくするためには必要な事で・・・かと言って、実年齢が低いと、どうしても首を突っ込めないわけで、この年齢査証は苦肉の策だったわけですね。

なんか、モヤモヤした物が取れて、むしろスッキリしましたどす。

ただ、どうせここまでするなら、どう見ても小者の牢屋番にしか見えない斉藤利三さんの横に、まだ幼女のお福ちゃん(春日局)をチョコンと座らせて、
ちょっとした会話を楽しんでみるなんて事も、個人的には希望してたりなんかして・・・(*´v゚*)ゞ

とは言え、今年の「江」・・・もちろん、良きところもあります。

個人的に最大のお気に入りは、先週の放送であった妙覚寺にいた信長の息子・信忠の存在・・・

以前、本能寺の変のタイムラグ(6月2日参照>>)のページでも書かせていただきましたが、信長の近くに、この信忠もいた事が最大・・・いや、すでに信長は、信忠を後継者にする事を公言してるのですから、むしろ、天下が欲しいなら、信忠こそ、光秀が確実に仕留めなければならない相手だったわけですが、これまでのドラマでは、ほとんど、その存在が無視され続けていました。

それが、今回は、未だ謀反の決行に迷いつつあった光秀が、「堺行きを取りやめて、信忠が京都にいる」と聞いた事で背中を押される・・・てなシーンがありました。

これは、やはり、重要な事だと思います。

ただ、息子の存在を確認してまで決行したワリには、江の「なぜ、謀反を?」の質問には「わかりません」と・・・結局、ドラマの中でも、その動機は不明のままでしたね。

「信長さんの光秀に対するパワハラ・シーンを思い出し、見る側で思い思いに推理してください」事なのかも知れません。

ところで、もう、光秀が死んじゃったって事は、山崎の合戦のシーンもあんだけって事で、ちょっと寂しいかな???

しかも、死に際に思い出すのが娘のお玉ちゃん(細川ガラシャ)じゃなくて江だったとは・・・主役の特権とは言え、やはり娘の行く末を案じてほしかった気がしないでもない(p_q*)

来週は、母・お市の方が再婚・・・いよいよ秀吉が敵役になっていきます~楽しみですね。
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2011年2月12日 (土)

本日、開設5周年を迎えました!感謝です

 

おかげさまで、
「今日は何の日?徒然日記」
本日、5周年を迎えました!

いつも遊びに来てくださってる皆さま、
ありがとうございますm(_ _)m

もちろん、今日が初めてとおっしゃる方も大歓迎です。

先日、300万アクセス到達のご報告をさせていただいたばかりではありますが、やはり、5周年という節目でもありますので、改めてご挨拶させていただきたく、筆・・・いや、キーボードをとりました。

思えば、あまり深く考えずに始めたブログ・・・

そもそもは、小学5年生の社会で、初めて日本史を習った時に、「あぁ、そうなんだ!」と、自分の中の歴史好きを確信した日・・・

以来、大阪城が自宅のすぐそばにあるという利点と、子供の小遣いの範囲内で、奈良京都に行けるという利点をフル活用し、「もっと知りたい!」という欲求を満たしてきましたが、人間、何かの情報を得ると、その口はムズムズするものであります。

男女の噂話、タレントのあれやこれやと同様に、知った以上はついついしゃべりたくなる・・・

今となっては、聞きたくもない歴史の話、行きたくもない寺巡りに付き合ってくれた心の広い友人に感謝するばかりですが、そんな私が見つけたのが、ブログという物・・・

「おぉ、これなら、好きなだけしゃべっていられる」
「これなら、嫌がる人を無理やり引き留めなくてすむ」

と安易な考えのもと、はじめてしまいました。

が、しかし・・・
いざ書くとなると、何から書いて良いかわからず、とりあえず、「その日は何があった日なのか?」というところからスタートする事にさせていただきました。

最初の1~2年は、やはり「今日は何の日?」と題する以上、何も書いていない日があってはならないだろうとの思いから、まずは、「1年365日・休まずup」を目標に掲げてやっておりましたが、そのぶん、今ではお恥ずかしい内容のページも多々ある結果となってしまっております。

てな事もあり、最近では、「できる限り納得のいく内容にしたい」という事と、「末永く続けていくためには焦らず騒がずマイペースで行こう」という二つを目標に掲げ、PC前にいる時間を確保し難い土日や祝日を中心に、時々は休ませていただいたりしております。

ひょっとしたら、来てくださった方を
「なんだ、今日は休んでるのか~」
と、落胆させてしまう事もあるかと、心苦しい限りではありますが、手前味噌ながら、このブログには5年分のページが溜まっておりますから、そんな時はぜひ、過去記事にも目を通していただければ幸いです。

とは言え、内容に関しては、まだまだ未熟です。

新しい物はもちろんの事、
何度も読み直した本でも・・・
何度も訪れた場所でも・・・

本を読むたび、史跡に行くたび、新しい発見をする毎日です。

世の中には、まだまだ知らない事がたくさんある、
歴史は、日々、進化する、
てな事を痛感させられながら、いつもブログを書いております。

歴史は答えのない推理ドラマだと思います。

ドラマなら、犯人を確定しなければお話になりませんし、名探偵&名刑事が、その動機とトリックの方法を言い当てて、100%解決しなければ物語は成立しません。

それは歴史ドラマも同じで、本能寺織田信長を倒した明智光秀の動機が明確でないといけないため、信長さんの激しいイジメや無理難題に耐える光秀を描き、
視聴者に
「こんなんやったら、ヤルしかないよな」
「そら、敵は本能寺にあり!って言うで」

てな事を共感していただかなければならないわけですが、
実際には、信長さんが暴力をふるった記録も、領地を召し上げた記録もいないわけですから、明確な動機というのは謎なわけです。

しかも、それを確かめる術はない・・・
400年前の京都に行って、実際の現場を見てくる事、本人の心境を聞いてくる事は、もはや不可能なのですから、極めて近づく事はできても、100%正しいと言える答えというのはないのです。

しかし、そこがおもしろいのです(←個人的な意見ですが…)

100%解決してしまえば、推理ゲームはそこで終わります。

しかし、歴史への推理は永遠に終わらない・・・新たな情報を得るたびに、その答えは二転三転・・・

今日、「いや、やっぱり譲れない」と思った事が、
明日、「目からウロコやわ~」
と、まったく違う答えになる事だってあり得ます。

そんなこんなで、歴史という重いテーマとはうらはらに、あっちへこっちへと迷いっぱなしの軽い茶々ではありますが、今後とも、よろしくお願いしたしますo(_ _)oペコッ

6周年に向かって、皆で、あーだこーだと言い合いましょう!!
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2011年2月10日 (木)

源義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑

 

文治三年(1187年)2月10日、兄・頼朝に追われた源義經が、奥州平泉の藤原秀衡のもとに逃げ込みました。

・・・・・・・・

平安時代に奥州を支配した藤原氏・・・その本拠地を磐井平泉に定めたのは初代・藤原清衡(きよひら)でした(7月13日参照>>)

Hidehira600 その後を継いだ2代目・藤原基衡(もとひら)が、さらに基盤を強固な物にし、3代めの藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が後を継いだのは、すでに36歳の男盛り・・・その後継者である泰衡(やすひら)も3歳になっていました。

黄金・鉄・駿馬の産地として知られる東北の支配者として全盛期を築いた秀衡は、朝廷から陸奥守(むつのかみ)という地位を与えられてはいたものの、京都に都を置く朝廷とは一線を画した存在・・・その豊富な産物での交易によって財力を高め、一説には奥州十七万騎と言われるほどの軍事力と、京の都を彷彿とさせる寺院建築によって文化の高さを披露しながら、いわゆる独立国家としての姿勢を保っておりました。

やがて源平争乱の時代が訪れても、秀衡はどちらに味方をするという姿勢を見せる事なく、静観を続けていたわけです。

とは言え、承安四年(1174年)、黄金によって財をなした商人=金売り吉次が連れてきたとされる若き日の源義経を迎え入れてはいます。

この時の秀衡の心境は、それこそご本人に聞くしかありませんが、一方では、奥州の微妙な立場が浮き彫りになる、「なるほど」という推理も成り立ちます。

世は、未だ平家全盛の時代・・・その頃に、寺から抜け出した源氏の御曹司を保護するという事は、その平家に刃向かう事になるわけですが、言い換えれば、「その平家が牛耳る京の都を中心とする国の影響を、この奥州は受けていないのだ」という主張にも聞こえます。

敵でもなく味方でもない・・・それでいて、この源氏の御曹司を保護するくらいの国力を持っているのだ!てな感じかも知れませんね。

こうして、義経は16歳から23歳までの多感な7年間を奥州で暮らす事になるのですが、もし、上記の独立国家としての姿勢を保ちたいのが秀衡のホンネであるとするなら、その思惑を大いに外れてしまう出来事が起こります。

それが、その23歳での義経の旅立ち・・・

すでにブログにも書いておりますが、奥州にいて、兄・頼朝の挙兵を知った義経が、兄のもとに馳せ参じ(10月21日参照>>)源氏の大将として合戦に参加する事になるのですが・・・

この一連の争乱で平家が勝ったとしたら、敵対した源氏に義経を送りだした奥州藤原氏は、当然、平家の敵という立場になりますし、源氏が勝ったとしても、その源氏の世では、奥州藤原氏は、源氏の配下となりはしないか?という心配が、秀衡にはあった事でしょう。

どっちに転んでも、独立国家という姿勢の維持が困難になりそうなこの義経の参戦を、秀衡は反対したとも言われますが、結局、ご存じのように義経は兄のもとで参戦し、しかも最終的に平家滅亡への引導を渡す大活躍をやってのけます(3月24日参照>>)

にも関わらず、突然の兄弟げんか(5月24日参照>>)、義経は兄から追われる身となり(10月11日参照>>)、各地を転々としたうえ(このあたりは「源義経の年表」でどうぞ>>)文治三年(1187年)2月10日、多感な時期に保護してくれた第2の故郷=奥州の秀衡のもとに、再び逃げ込んで来たのです。

この時、風邪で寝込んでいた秀衡は、その体調を押して義経を出迎え、手厚くもてなしと言いますが、その本心はどうだったのでしょうか?

おそらくは、これまでの流れから推測すると、もはや源氏の棟梁となって着々と鎌倉幕府の基盤を固めていた頼朝から追われる義経は、厄介者以外の何者でもなかった・・・というのがホンネかも知れません。

しかし、一方では、酸いも甘いも噛み分けた秀衡・・・頼朝の思惑にも気づいていたかも知れません。

そうです。
時期としては、この義経の逃げ込みから3年後の事になりますが、以前、書かせていただいたように、頼朝は、一度、朝廷から任ぜられた右近衛大将と権大納言を、わずか3日で返上しています(12月1日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、頼朝にとっての奥州は、かつては自らの直系のご先祖が治めていた土地・・・そこを、後三年の役(11月14日参照>>)のドサクサにまぎれて、かの清衡が支配する事になったわけで、いずれは、そこを源氏の支配下に置こうと考えていた可能性大なわけです。

当然、お祖父ちゃんのいきさつを知ってる清衡なら、義経の事があろうがなかろうが、「平家の次ぎは奥州藤原氏」と頼朝が考えている事も察していたはず・・・

そうなれば、奥州の独立を保つためには、頼朝との徹底抗戦しかないわけです。

そこで、奥州十七万騎の登場ですが、後に最大の戦いとなった阿津賀志(あつかし)の戦のページ(8月10日参照>>)でも書かせていただいたように、この兵力のほとんどは、半士半農の農民兵で、農期の真っ最中に実際に戦える兵は、1万に満たなかったほど少なかったと言われます。

だからこそ、その時の頼朝は、一番忙しい刈り入れ時を狙って奥州に攻め入ったわけですが、頼朝が気づいているなら、迎える秀衡も当然承知・・・

少ない兵で大量の頼朝正規軍を迎え撃つ方法はただ一つ・・・地の利を生かした奇襲作戦を展開して追い返してしまう事です。

そこに逃げ込んで来たのが、数々の奇襲作戦で源氏に勝利をもたらした義経・・・彼の噂は、おそらく奥州にも届いていた事でしょう。

残念ながら、秀衡は、その義経の逃げ込みから8ヶ月後の10月29日に息をひきとりまが、その遺言は、
「判官殿(義経の事)を愚かなしに奉るべからず」
「義経公を大将軍にせよ」

だったと言います。

おそらくは、すでに後継者と決めていた実子=泰衡ら兄弟と、預かり者の義経との関係にも、様々な思いがあった事でしょうが、この遺言を見る限りでは、奥州藤原氏の独立維持を、義経の奇襲作戦成功に託した感じもしないではありません。

結局は、頼朝が奥州を攻めに来る前に義経は死ぬ事になりますが(4月30日参照>>)・・・

まったく別の秀衡と義経の関係・・・【義経と牛若は同一人物か?】>>もお楽しみいただければ幸いです。
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2011年2月 9日 (水)

一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門

 

元禄十一年(1698年)2月9日、上野寛永寺・根本中堂の造営工事が開始され、用材調達を受け負った材木商・紀伊国屋文左衛門が大儲けしました。

・・・・・・・・・

♪沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船♪
と、唄にも残る紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)・・・

紀州(和歌山県)湯浅に生まれたとされ、一代で巨万の富を築き上げた事から名前を略して「紀文」、あるいは「紀文大尽」などと呼ばれ、数々の伝説的な逸話を残す人物ですが、その伝説が、いずれも事実かどうかというのは確認し難く、中には架空の人物ではないか?なんて話もありますので、今回のお話は、それ(架空かも知れない事)を踏まえたうえでのお話という事でお聞きくださいませ。

・・・で、先の唄の歌詞ですが、

文左衛門、20歳の正月間近・・・紀州では驚くほどミカンが豊作で、かなりの安値で取引されていました。

しかし、一方で、ここの所しけが続いて船が出せず、正月用のミカンが江戸へ運べないという事がありました。

そこで文左衛門・・・知り合いから金を借りて安いミカンを買い占め、家にあった古い船を急いで修理して、嵐の太平洋に船出したのです。

そうです。
嵐が止んでからでは、他の船が運んでしまいますから、ここは一つ、命がけの勝負です。

Higakikaisen600 やがて、嵐の夜が白々と明ける頃、江戸湾にポッカリと白い帆が浮かんで見えました。

これが冒頭の唄のシーンです。

江戸の人たちが待ちに待っていたミカン・・・千石船に山と積まれたミカンは、またたく間に高値で売れ、一か八かの大博打は、見事に大成功を収めたのです。

そんなにたくさん積めたのかどうか微妙ですが、この一回で、文左衛門は3万~5万両の儲けがあったと言われています。

しかも、その帰りの船でも・・・

ちょうどその時、大坂では風邪が大流行していたのですが、儲けたお金で、今度は塩鮭を買い込み、船に満載して帰路につきます。

そして、「塩鮭は風邪に効くよ~」という宣伝文句のもと高値で売りさばき、こっちでも数万両稼いだのだとか・・・

そして、それをもとでに東京進出・・・いや、江戸へと下る文左衛門・・・

今度、目をつけたのは材木でした。

ご存じのように、この頃の江戸は成長著しく、人口の増加がものスゴイ事に(1月29日後半部分参照>>)・・・そのワリには家を建てる場所が限られているため、家と家との間がなく、その密集ぶりはハンパない・・・

よって、一旦火事になると、必ずと言って良いほど大火となり、その度に建てなおすのが当たり前・・・なんせ、火事と喧嘩は江戸の華ですから・・・

と、そうなると、当然、材木の需要も高まるという事です。

こうして、江戸は八丁堀材木問屋を始めた文左衛門・・・大火の後始末や神社仏閣の修復に、木材は莫大な利益を産んでいったのです。

やがて、
♪両方の 手で大門を 紀文閉め♪
なんて、川柳に詠まれるくらいのハブリの良さを見せつける文左衛門。

この大門というのは、あの吉原の門の事で、これを紀文一人が両手で閉める・・・つまり吉原を貸し切りにしたって事です(ディズニーランドを貸し切った人もいたなぁ(゚ー゚;)

節分の時には豆の代わりに小判をまいたなんて逸話もありますが、これも実は彼の計算ずく・・・単に、贅沢三昧して遊びほうけているのではなく、これで人を呼んでいたんです。

つまりは、派手に遊ぶ事で、そのおこぼれを貰おうという連中が集まってくるわけで、
「自分と組めば、間違いなく儲かるよ!」
てな、自分の宣伝だったわけです。

もちろん、単に群がるだけのヤツはウマい事排除して、本当の儲け話を持ってくる連中とだけ、真剣なおつきあいするわけですが・・・

そして、その狙い通りやってくるのは、商人だけではありません。

そう、
こういった自分宣伝が功を奏して、まずは(おし・埼玉県)藩主・阿部正武(あべまさたけ)との結びつきができました。

この阿部さんは、江戸城二の丸の修理惣奉行を務め、さらに三の丸の普請奉行も任されていた人物・・・そして、ここを入り口に、勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)大老柳沢吉保(やなぎさわよしやす)とも結びつきができていったのです。

こうして、幕府御用達の材木商となった文左衛門・・・

やがて訪れた元禄十一年(1698年)2月9日上野寛永寺・根本中堂の造営工事・・・これの材木調達を一手に引き受けた紀文は、なんと50万両という巨万の富を得たとの事・・・

その後も、幕府の公共事業で稼ぎまくった彼は、とうとう八丁堀の一画を買い占め、そこに広大な屋敷を建てたのです。

しかし、見事な成功を収めた彼も、ここらあたりで、とうとう年貢の納め時・・・

それが、宝永十文銭の鋳造でした。

幕府の依頼を受けて乗り出した鋳銭業でしたが、彼が鋳造した銭の質が悪く、思うように流通しなかった事で大損に・・・しかも、ここに来て、将軍・徳川綱吉の死とともに、幕府内を新井白石が牛耳るようになり、正徳の治(しょうとくのち)という経済引き締め政策を開始しました。

しかも、これまで思うがままに山林を濫伐して来てしまったため、もう、売るぶんの材木が確保できないほどの材木不足となり、材木売って一攫千金なんて事もできなくなってしまったのです。

結局、材木問屋は廃業し、八丁堀の大きな屋敷も手放し、晩年は、没落&貧困の中で、享保十九年(1734年)4月24日66歳の生涯の閉じた・・・なんて事を言われていますが・・・

実は、一方では、上記の引っ越しの時には、大八車30台で18日間かかったなんて話もありまして・・・つまり、その時にそんだけの資産を、まだ持っていたのですから、そう簡単にはなくならないだろうと思えるわけで・・・

しかも、同時に賃貸経営なんかもやってたし、さらに、あの安倍ちゃんからは、以前の借金の利子として、毎年、金50両と米50俵が、文左衛門が死ぬまで送られてきていたとも・・・

もし、これが本当なら、貧困どころか、かなり優雅な晩年をい過ごしていた事になるのですが、果たして・・・
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2011年2月 8日 (火)

初午の日と稲荷信仰

 

今日は初午(はつうま)ですね。

初午とは、毎年2月の初めての午の日に行われる稲荷神社の祭礼・・・この日に稲荷神社に参拝する事を初午詣と言い、場所によってはお稲荷さんに小豆粥を供えて食べる習慣もあります。

ところで、なぜ、この初午の日にお稲荷さんなのか???

Dscn6026a600 全国に分布する稲荷神社の本源は、ご存じ、京都伏見区稲荷山に鎮座する伏見稲荷大社なわけですが、その信仰はあまりにも古く、祭神に関しても、古来から諸説あります。

ただ、現在の祭神は、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ・倉稲魂命)で、稲の精霊とされる神様・・・この神様が稲荷山の三ヶ峯に降臨したのが元明天皇の和銅四年(711年)の2月の初めての午の日(和銅四年では7日)と伝えられ、現在も、この日が祭礼というわけです。

『山城風土記』では、(はた)の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)が稲で富を成したにも関わらず、調子に乗って、その稲で作った餅を的としたところ、餅が白鳥になって空高く飛び、山の峯に舞い降りて伊禰奈利(いねなり)という神が生まれたという逸話があり、それ以来、代々の秦氏一族が禰宜(ねぎ・神官)などとして祭祀に奉仕する・・・つまり秦氏の氏神であったとされています。

こうして稲の神様として祀られる事になった伊奈利(いなり)なので、この神様の姿は、稲の束を天秤で担いだおじいさんとして描かれ、稲を担ぐ→稲荷という文字が当てられたと言われています。

しかし、一方で、『稲荷大明神縁起』には、ずっと昔から、この山には竜頭太(りゅうとうた)という山の神が住んでいて、昼は稲を刈り、夜は薪を取った事から、「荷田(かだ)と称し、代々、雄略天皇の末裔とされる荷田氏が、その神を守って来たというお話もあります。

こちらの神様は、巫女のような姿をした美しい女性として描かれます。

つまり、もともと、あの伏見の稲荷山には、秦氏の伊奈利と、荷田氏の稲荷の2柱の神様が祀られていたのですね。

なので、神像も2種類あり、稲荷山の参道も2本ありました。

現在では、頂上でつながり、グルッと一回り・・・稲荷山を回るようにある表参道と裏参道の2本の参道は、もともと、別の神様にお参りする別の参道だったらしいのです。
(伏見稲荷の稲荷山散策については、本家ホームページの「歴史散歩・伏見稲荷」>>でご紹介しています)

しかし、やがて平安遷都のあと、秦氏の財力を政治力によって隆盛を極める事になった稲荷信仰は、同じく登り調子の空海=弘法大師と手を結び、空海の建立した東寺鎮守神となる事で更なる全盛期を迎える事になります。

そして、一方で、農業の神様である稲荷は、五穀豊穣を願う農民たちの信仰の対象となり、津々浦々・・・日本全国に、その信仰が広がっていったのです。

おいそれと稲荷山に詣でる事にできない各地方の農民たちは、地元に稲荷社を建てて、この初午の日には、ワラで作った入れ物に稲荷の好物の油揚げや寿司などを、祠や神棚にお供えして、笛や太鼓ではやしたてながら舞い踊ったと言います。

こうして、江戸時代頃には、庶民の最も親しみを覚える身近な神様となった稲荷・・・

Dscn5977800
伏見稲荷大社のお狐さん

ところで、このお稲荷様の使いとして有名なのがキツネです。

これには、
春に山から下りてきて田の神様となり、秋の収穫を終えて山にお帰りになるという古代の稲作の神様のイメージと、やはり冬に山に籠って姿を見せなくなるキツネの習性が結びついた物と言われていますが、あの『今昔物語』にも、
真言密教では(口へんに乇です)吉尼天(だきにてん)の別号を白晨狐菩薩(びゃくしんこぼさつ)とも称し、稲荷の神体…」
とある事から、やはり空海とのコラボのあたりから、すでに定着していたようですね。
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2011年2月 7日 (月)

ブラック兼続~閻魔大王に夜露死苦

 

慶長二年(1597年)2月7日、上杉家の執政・直江兼続が、下人の一族を成敗した高札を立てました。

・・・・・・・・・

一昨年の大河ドラマ「天地人」の主人公・直江兼続(なおえかねつぐ)・・・

Naoekanetugu600 ドラマでは、妻夫木くんという爽やかイケメンを起用し、兜に掲げた「愛」の文字にふさわしく、家臣にやさしく領民にやさしく、そして敵にもやさしい愛の人として描かれていました。

もちろん、ドラマの主人公なのですから、どこまでもカッコ良くイイ人に描かれるのは当たり前で、その描き方に異議申し立てはござんせん。

ただ、個人的には、
「ケンカ売ってんか!」
と、言いたくなるほど高飛車な「直江状」(4月14日参照>>)に代表されるような、ふてぶてしく、策略満載で、ブラックなイメージの兼続さんのほうが好きだったりします。

なんせ、世は戦国ですから、本来ならイイ人では生き残っていけないわけで、あの松永久秀が、戦国好きには意外な人気を誇るように、時には、血も涙もないような戦略を、サラッとやってのけるのが戦国武将の魅力であると思っています。

そういう意味で、本日、ご紹介させていただく逸話は、まさにブラック兼続の血も涙もない判決なわけですが、ややこしい事はスパッと切ってしまわないと、後々、どう転ぶかわからない・・・戦国の世に生きる武将としてはアリだと思ってます。

・‥…━━━☆

この頃の直江兼続は、上杉家の当主・景勝(かげかつ)からの信頼を受けて、領内の政治を一手に任されていたわけですが、公事訴訟の裁判なんかに関しても、むしろ同席する者を排除して、ただ一人でこなしていたのです。

訴えた者が百姓や町人ならば、訴えた者と訴えられた者の両者を同時に奉行所へ呼び、その場で意見を言わせながら・・・

武士の場合なら自らの屋敷に呼んで、やはり意見を聞く・・・そして、どんな裁判でも、その場で即座に決断を下したと言います。

そんな中、ある日ある時、上杉家の家臣・三宝寺勝蔵(さんほうじかつぞう)なる者が、ちょっとした事で、召し抱えていた下人を成敗してしまったという事件が勃発・・・

当然の事ながら、たとえ主人と言えど、大した失敗もしていないのに斬られてしまった下人の家族としては、このまま、何もなしでは、気持ちが収まりません。

そこで、下人の家族らは、
「このままでは、殺されたアイツが浮かばれん!どうか生かして返してくれ~
兼続に訴えたのです。

そこで
「んも~しゃぁないなぁ」
とばかりに兼続さん・・・遺族たちに白銀20枚を渡して、話をつけようとします。

『死たる者 何とて呼(よび)返さるべき 銀子(ぎんす)取りて了簡(りょうけん)せよ』
「死んでしもたモン、どないして生き返らせっちゅーねん。こんだけの金額渡すさかいに納得してくれよ」
と・・・

ところが、家族たちは、
「人の命・・・金で解決できるもんやおまへん!」
とばかりに、まったく聞き入れず、どうしても
「生きて返せ!」
と泣いて譲らなかったのです。

そこで思案した兼続・・・

しばらくして1通の手紙を書き、居並ぶ遺族たちに、その手紙を差し出しながら、高らかに宣言!

『此(この)上は是非に及ばず、何(いず)れにも呼(よび)返し取らすべし、只冥途(めいど)へ呼びに遺はす者なし 大儀ながら彼(かの)者の兄と 伯父と 甥と三人閻魔(えんま)の庁へ参り 彼者を申し受け来たるべし』
「しゃぁないなぁ~どないしても生きて返してくれっちゅーんやったら、誰かが冥途へ行って、閻魔さんと直接交渉して来なアカンわなぁ。
ほな、そこの兄ちゃんとオッチャンと甥っ子くん・・・ちょっと大変やけど、俺が閻魔さんへの手紙書いたったさかいに、これ持って閻魔さんのトコ行って、その死んだヤツ連れ戻して来てくれるか?

と言うが早いか、3人を引き連れて、城下の橋のたもとに向かい、アッと言う間に3人の首をはねてしまったのです。

そして、橋のたもとに、手紙の内容と同じ文を書いた高札を高らかに掲げました。

そこには
『未だ御意(ぎょい)を得ず候へども 一筆啓上せしめ候 三宝寺家来何某(なにがし) 不慮の仕合にて相果て候 親類ども歎き候ひて 呼び返し呉れ候へと様々申し候に付 則(すなわ)ち三人迎ひに遣し候 彼死人御返し下さるべく候 恐惶謹言
  慶長二年二月七日 直江山城守兼続判
  閻魔大王  冥官獄卒
(ごくそつ)御披露…』
「とりあえず、簡単に言いますと、三宝寺勝蔵の家来の何とかって人物が、いわゆる過失致死みたいな感じで死んでしまいまして・・・その家族が、どうしても彼を呼び返してくれ!って泣いて頼みますもんで、これから3人の迎えの者をソチラに向かわせますよって、何とか、その死んだ者を返していただけませんやろか?お願いします。
  慶長二年二月七日 直江兼続より
  閻魔大王さんへ
  あの世の番人の方々にもよろしく~」

そうです。
兼続は、閻魔大王への手紙を書いたのです。

そして、「そんなに返してほしいなら、お前らが冥途へ行って、取り返して来い」
と、家族のうちの3人を斬ってみせしめとし、その姿とともに高札を立てた・・・というわけです。

これ以来、すっかり政道への訴えが無くなったとか・・・

まぁ、このお話は『名将言行録』という軍記物に出てきますので、どこまで信憑性にある物かは、疑ってかからねばならないような逸話の類ではありますが、得てしてこういう場合、まったくの事実でなかったとしても、
「あの人ならやりかねない」
「あの人なら、きっとこうするだろう」

といったような、その人物から抱くイメージを代弁している事もありますので、それを踏まえれば、愛の人=兼続さん、なかなかのブラックイメージです。

確かに、これで、兼続の下した判決に対して、ゴチャゴチャと文句を訴える人は、いなくなるわけですから、一刀両断のあっぱれな判決と言えばそうなのかも知れませんが、上杉家が米沢30万石に減封された時に、家臣を一人もリストラする事なく、自分の領地を3分の1にしてでも家臣を守った愛の人のイメージではない事は確かですね。
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2011年2月 5日 (土)

生きさせては貰えなかった平家の嫡流・六代

 

建久十年(1199年)2月5日、平清盛の嫡流で曾孫にあたる六代が田越川にて処刑されました。

・・・・・・・・・・

平六代(たいらのろくだい)・・・この方は、伊勢平氏の基盤を固める役割をしたとされる平正盛(まさもり)(12月19日参照>>)から数えて6代目にあたる事からつけられた幼名で、成長してからのお名前は平高清(たいらのたかきよ)と言いますが、平家物語などの軍記物には「六代」の名前で登場しますので、本日は、六代と呼ばせていただきます。

・・・で、その六代の名のもととなった正盛さんの息子が平忠盛(たいらのただもり)で、その息子が平清盛(たいらのきよもり)、清盛の嫡男が重盛(しげもり)で、重盛の嫡男が維盛(これもり)・・・そして、この維盛さんの嫡男が六代という事で、つまりはあの清盛の曾孫に当たるわけです。

その生まれは承安三年(1173年)と言いますから、まさに平家全盛の時代・・・この前年は、病気が全快した清盛が政界に復帰し、娘の徳子高倉天皇の中宮として入内させた年(6月11日参照>>)ですからね~。

その嫡流の男子として、末は博士か大臣か・・・いやいや、それ以上の期待に包まれ、すくすくと育っていったに違いありません。

Dscn3091 しかし、暗雲はすぐにやってきました。

六代が、まだ4歳だった治承元年(1177年)6月1日に発覚した鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀(5月29日参照>>)です。

実は六代の母は、この事件に加担していた藤原成親(なりちか)の娘だったのです。

備前(岡山県)流罪となったうえに処刑された祖父・成親・・・確かに、母方の祖父という事で、この一件で、六代や、その母に、何らかの処分があったわけではありませんが、父の維盛も含め、この一家に、なんとなく冷たい視線が浴びせられた事は想像できます。

きっと、一点の曇りも無い後継ぎ・・・というエリート感はなくなってしまった事でしょう。

さらに悪い事は続きます。

重盛亡き後、清盛の嫡流という看板を背負う事になった父・惟盛が、相次ぐ源氏との合戦で、ことごとく負けてしまうのです。

たとえば富士川(10月20日参照>>)
たとえば般若野(5月9日参照>>)
続いて、あの倶利伽羅峠(5月11日参照>>)

嫡流の面目は、どんどん崩れていきます。

かくして、東より迫りくる源氏の勢いによって、寿永二年(1183年)、平家はとうとう都落する事になります。

そう、ご存じ平家物語の名シーンです。

妻子を京都に残して西国に旅立つ維盛父子の別れを惜しむ涙の場面・・・あの時、京の都に残され、「置いていかないで!」と、父の鎧にすがった10歳の息子が六代なのです(7月25日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この時、妻子と別れて都落ちをしたのは、平家一門の中でも、維盛ただ一人・・・

これには、やはり、あの鹿ヶ谷の事件が要因だったとも言われます。
つまり、謀反人父を持つ妻子を、一門とともに連れて行く事ができなかったのではないと・・・

そして、この悲しい別れが、六代にとって、父との永遠の別れとなりました。

家族の事、そして敗戦の大将という重荷に耐えられなかったのか?・・・こののち、維盛は突然、戦線を離脱し、放浪の末、那智(なち)にて入水自殺をはかり、平家が滅亡する前に、自らの命を断ってしまうのです(3月28日参照>>)

父と別れた後、母と妹とともに京都は大覚寺あたりに隠れ住んでいた六代・・・やがて、寿永四年(文治元年・1185年)3月、かの壇ノ浦にて、平家は滅亡します(3月24日参照>>)

当然の事ながら、平家の嫡流である六代にも、源氏の探索が及ぶ事になり、京の都にて北条時政に捕えられた彼は、そのまま鎌倉へと送られる事になります。

もちろん、その先には死=処刑が待っていたわけですが、それを救ったのが僧・文覚(もんかく)でした。

文覚上人は、いくつかの文献では、学識の無い乱暴者との評判の人なのですが、こと頼朝とは大の仲よしで、その信頼を一身に受けていた僧でした(7月21日参照>>)

そんな文覚が、未だ幼い子を斬る事をヨシとせず、
「僕が、いつもそばについて目を光らせますから・・・」
と、頼朝に頼み込んだのです。

こうして、処刑を免れた六代は、その文覚のもとで出家し、妙覚(みょうかく)と号して、仏の道、一筋に生きる事になりました。

その後、建久五年(1194年)に鎌倉で頼朝に謁見した六代は、この時、改めて謀反の意思がない事を頼朝に告げ、正式な誓約を交わしたと言います。

しかし、一方では、この時、成長した六代に直接会った頼朝が、その聡明さがハンパない事を悟り、密かに脅威に感じた・・・なんて事も言われます。

それは、そう・・・冒頭に書かせていただいた通り結局、六代は、源氏の手によって処刑されてしまうからです。

事の起こりは、上記の謁見から数えて4年後・・・かの頼朝の死後、わずか1ヶ月

鎌倉幕府の大黒柱=頼朝が亡くなった事が京都に伝わり、動揺した公家同志の朝廷内の派閥争いで、相手側の暗殺計画を立てたの立てないので、朝廷内の親幕府派が拘束されたという三左衛門事件(さんさえもんじけん)なる事件で、ここに、あの文覚が関与していたとされ、文覚は佐渡に流罪となってしまったのです。

・・・で、この時の六代は、全国各地を回る行脚修業に励んでいた真っ最中で、当然の事ながら、事件にはまったく関与していなかったのです。

ところが・・・です。

やはり、聡明なる平家の嫡流が、源氏の世に生きる事が許されなかったのでしょうか・・・修業を終えて京都に戻ったところを、師匠の罪は弟子の責任という、わけのワカラン理由(張本人の師匠は生きてますから…)で拘束され、鎌倉に送られた後、田越川(神奈川県逗子市)にて斬首されたのです。

建久十年(1199年)2月5日・・・享年26歳の若者でした。

思えば、六代自身は、何もしていません。

源氏と戦ったわけでもありませんし、平家の復活を願ったわけでもありません。

ただ、平家の嫡流として生まれただけ・・・

とは言え、そのカリスマの血が、大黒柱を失って疑心暗鬼になった鎌倉幕府の1番の脅威となってしまったのでしょう。

ごく普通の一人の僧としても生きさせてもらえなかった六代の無念は・・・いや、ひょっとしたら、彼は、そんな運命さえも受け入れ、姿なき平家の影に怯える源氏でさえ慈悲の心で受け止める・・・そんな人物だったような気がします。

そこまで言うとカッコ良過ぎか?(*´v゚*)ゞ
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2011年2月 4日 (金)

紳士の社交場・大阪倶楽部

 

今日は、以前、見学させていただいた大阪倶楽部をご紹介させていただきましょう。

大阪倶楽部とは・・・
Dscn2165a600
大阪倶楽部のくわしい場所は、本家ホームページの歴史散歩【中之島・近代建築めぐり】>>でご紹介しています。

明治の世に、外国に追いつき追いこせとばかりに設立された紳士の社交場=クラブの一つです。

そもそもは、あの福沢諭吉ら慶応義塾関係者によって、明治十三年(1880年)に創立された交詢社(こうじゅんしゃ)・・・その次ぎに国内外の外交官を中心に、明治十七年(1884年)に組織された東京倶楽部

さらに政治家を中心とする日本倶楽部が明治三十一年(1898年)・・・と、従来の料亭やお茶屋ではない、純然たる紳士の社交場として、いくつかの倶楽部ができていったのです。

Oosakaclubp1a600 そんな中、大正の終わり頃には、首都=東京の人口を追い越してしまう程の勢いを持っていた大阪・・・確かに、関東大震災の影響もあったからなのでしょうが、アメリカニューヨークワシントンオーストラリアシドニーキャンベラのように、外国では見かけるものの、日本では、首都の人口を一地方都市が追い抜くというのは、後にも先にも、この時の大阪、ただ一度きりの事だったのです。

・・・で、そんなこんなの大正元年(1912年)、住友銀行第3代総理事・鈴木馬左也(まさや)氏を中心にした大阪財界の人々が、大大阪にふさわしい品格のある倶楽部として創立させたのが、この大阪倶楽部というわけです。

今なお、その伝統を守り、メンバー会員は女人禁制・・・現メンバー会員の紹介がなければ会員になれないという鉄則を守っておられます。

ただ、さすがに、このご時世では、メンバー会員だけでの施設維持は難しく、3階の会議室と4階の多目的ホールは貸し会場として一般にも利用可能となっています。

それでも、1階の囲碁・将棋・ビリヤード・酒場と、2階の図書室・談話室・食堂はメンバー専用のフロアとなっており、今回は特別に、女の私も見学させていただける事になった次第ですが、女であると同時に小市民の私にとっては、どんな場所なのか?の想像すらし難いわけで、まさにワクワクドキドキの見学でした。

Dscn2188a800 2階食堂

Menew2 2階の食堂には、北浜の料亭「花外楼」が入っていて、けっこうリーズナブルな値段での洋食メニューが用意されています(会員様のためのメニューです)

味は、もちろん、おいしかったです(*^-^)

Dscn2178a600 重厚な玄関・・・
落ち着きのある談話室
(こんな所でアホな会話は絶対できない(゚ー゚;)

欄間の彫刻一つにも、細心の技術がほどこされ、置かれた調度品も含め、まさに一段上の歴史的建造物です。

Dscn2197a800 Dscn2195a800

酒場と囲碁と将棋とビリヤード…あとは、ちょいとした本棚が設置されてる図書室と談話室と、屋上には一人か二人しか打てないゴルフの打ちっぱなしコーナー・・・

これで、入会金20万と年会費10万が高いか安いかは、人それぞれなのでしょうが、現メンバーの紹介がないと入会できないってトコが、やはりステータス・・・お金にまかせて贅沢をする成り金趣味ではなく、本当の紳士の社交場として、大阪倶楽部は今も、そして今後も存在し続けていくのでしょう。

ステキな経験をさせていただきました。
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2011年2月 3日 (木)

忠臣蔵のモデル?浄瑠璃坂の仇討

 

寛文十二年(1672年)2月3日、赤穂浪士の討ち入りのモデルとも言われる浄瑠璃坂の仇討がありました。

・・・・・・・・・

そもそもは寛文八年(1668年)の3月2日、下野(しもつけ・栃木県)興禅寺(宇都宮市)にて行われていた前宇都宮藩主・奥平忠昌法要の席にて勃発した刃傷事件・・・

以前、長篠の合戦関連のペーシで、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)(5月16日参照>>)鈴木金七(5月21日参照>>)のお話させていただいたように、この奥平家は、合戦でのキーパーソン=勝利のカギを握っていたお家です。

言わば、その奥平家のガンバリで勝ちえた長篠の勝利だった事で、この奥平家は、江戸時代になっても、徳川将軍家から、かなりの特権を与えられていた家柄で、その中でも、特に力を持った一族・重臣が12人いたのです。

今回、その法要の時に事件を起こしたのは、その重臣のうちの二人・・・奥平内蔵允(くらのじょう)奥平隼人という人物・・・。

苗字を見てもわかる通り、彼らは藩主筋である奥平家の一族で、しかも、内蔵允=39歳、隼人=34歳と歳も近く、さらにお互いの母親が姉妹という、かなり親密な関係・・・なのに、性格が合わない┐(´д`)┌

日頃から、事あるごとに対立し、この日も、なんだかんだでモメていた中、とうとうブチ切れた内蔵之允が刀を抜き、隼人に斬りかかったのです。

ところが、逆に返り討ちに遭い、傷を負ったのは内蔵允のほう・・・しかも、法要中の思いっきり目立つ場所での出来事だったために、内蔵允は、その場にいた全員からの失笑や冷たい視線にさらされる事に・・・カッコ悪さ100%!

とは言え、そこは法要の席ですから、「まぁ、まぁ、まぁ・・・」と、仲裁に入ってくれる人もいて、何とか、その場は収まりますが、さすがに、公的行事の席で刀を抜いた二人にお咎め無しというわけにはいかず、とりあえずは、それぞれがそれぞれの親戚筋の家で謹慎しながら、更なる処分を待つ事になりました。

ところが、その日の夜・・・内蔵允は切腹してしまうのです。

公的には、法要の席で受けた傷による死と届け出がされた内蔵允の死ですが、内々の者は皆、彼が切腹した事を知っているわけで、もし、喧嘩両成敗を適用するなら、隼人のほうも切腹の処分にするしかありませんが、これが、また、なかなか決まらない・・・

隼人自身は、謝罪の意味を込めて「切腹するならしてもいい」という覚悟を決めていたとも言われますが、あの松の廊下の刃傷事件(3月14日参照>>)でもわかる通り、その責任は、本人だけの物ではなく、その家族にも及ぶもの・・・

家族は、それを許さず、「とにかく藩の沙汰を待とう」という事になりました。

そして、半年後、やっと現藩主・奥平昌能(まさよし)の裁定が下ります。

隼人は改易。
内蔵允の嫡子・源八と従弟・正長は家禄没収のうえ追放。

ともに、奥平家を追い出されたのですから、一見、両成敗に見えますが、張本人の二人を見れば、切腹と追放という納得のいかない処分・・・当然の事ながら、遺児=源八は不満ムンムンです。

こうして、源八は、父の仇として隼人を狙う事になります。

もちろん、藩の中には、今回の処分の不等さに賛同してくれる者もいて、源八を中心に、42名の集団が形成されました。

かくして4年後の寛文十二年(1672年)2月3日未明・・・源八率いる40余名の集団は、火事場装束に身を包み、隼人の潜伏する屋敷への討ち入りを決行したのです。

舞台となったのは市ヶ谷浄瑠璃坂にある鷹匠頭・戸田七之助の屋敷・・・ここに、かの隼人が身を隠していたのです。

30ilak17120 怒涛のごとく討ち入った源八らは、屋敷内で大暴れ・・・終始優勢に事を運んだものの、ついに隼人の姿を見つける事ができませんでした。

やむなく引き揚げようと帰路についたところ、自らの手勢を率いて、かの隼人が、彼らを追いかけて来たのです。

「大暴れで疲れ切った彼らを返り討ちにしてやろう」
との隼人の魂胆でしたが、受けて立った源八・・・見事、ここで隼人を討ち取り、宿願を果たしたのです。

こうして浄瑠璃坂の仇討は成し遂げられました。

ここで、彼らは、素直に幕府に自首する事になるのですが、向かった先は、当時、大老を務めていた井伊直澄(なおずみ)のいた彦根藩・江戸屋敷・・・

と、ここまではほぼ赤穂浪士と同じ・・・しかし、ここからが違っていました。

なんと、この直澄さん・・・父の仇を見事に討った源八に、深く感銘を受けてしまうのです。

江戸の町中で、ここまでの騒ぎを起こしたのですから、当然、死罪になるところを罪一等を減じて、八丈島への流罪に・・・しかも、タイミング良く、その後、千姫様13回忌法要の恩赦が加わり、源八は、わずか6年で無罪放免となります。

さらに、島から戻った源八は、「あっぱれ!」とばかりに彦根藩に召し抱えられるという、絵に書いたようなハッピーエンドとなりました。

未だ戦国気質が抜けきれないこの時代・・・苦悩に堪えながら本懐を遂げた彼らは、義士ともてはやされ、この浄瑠璃坂の仇討もお芝居や講談に取り上げられて大人気となったのです。

・・・と、こうして見ると、討ち入りの時の装束といい、あの忠臣蔵(12月14日参照>>)にそっくりですよね~。

赤穂浪士の討ち入りの34年前に起こったこの事件・・・赤穂の彼らも、意識していなかったはずはありません。

ドラマでは死を覚悟して討ち入りを決める赤穂浪士ですが(その方がカッコイイので…)、実は、彼らの中にも、「仇討成功のあかつきには、ひょっとして新たな仕官の道があるかも」という考えがあったのでは?とも言われています。

残念ながら、この34年の間に、戦国の気質は消えてなくなり、武功よりも政治力を求める官僚的な武士が幕府の中心となってしまっていたために、赤穂浪士の行動は「思いはわかるが、許される物ではない」という判断となったのでしょう。

とは言え、幕府の方針と庶民の評判は別物・・・これら浄瑠璃坂の仇討、赤穂浪士の討ち入りは、あの荒木又右衛門鍵屋の決闘(11月7日参照>>)を加えて、江戸三大仇討と称され、芝居や浄瑠璃に引っ張りだこの演目となります。

ちなみに、日本三大仇討では、この浄瑠璃坂がカットされ、曽我兄弟(5月28日参照>>)が入りますが・・・。
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2011年2月 2日 (水)

離れてもなお母の愛~成尋とその母

 

延久三年(1071年)2月2日、平安時代の僧・成尋が、宋へと向かうため、大雲寺を出発しました。

・・・・・・・・・

今、この21世紀の世の中・・・1日・2日の時間さえあれば、地球上のあらゆる場所に行けるし、帰ろうと思えば、どこからでもたやすく帰って来られます。

そんな現代でさえ、可愛い息子が未だ見知らぬ海外に行くとなると、母親としては心配になるものです。
それは、息子の年齢に関係なく・・・。

一方、旅立つ息子のほうは・・・。

確かに、19や20歳の若い世代なら、親の事など2の次で、自らの夢に向かって、ただ突っ走るのみでしょうが、自分自身がすでに50・60歳になっていたら、当然、その親の世代は、70~80歳なわけで、自分の夢の実現のためとは言え、年老いた親を残して遠くに行く事を、100%の気合いで押し進めるのには、多少の抵抗を感じるはずです。

まして、それが、荒波を越えて、命がけで海外に行かねばならなかった平安時代なら・・・。

寛弘八年(1011年)に生まれたという成尋(じょうじん)・・・母は、名門・醍醐源氏の流れを汲む源俊賢(としかた)の娘だそうですが、この女性の結婚相手が、陸奥守であった藤原実方(さねかた)の息子のうちの次男・貞叙か三男・義賢かという事が微妙であるため、当然の事ながら、この成尋の父親も、二人のうちのどちらというのが曖昧ながらも、今のところではおそらくは貞叙という方のほうではないか?という事になってます。

とにかく、この父親という人が早くに亡くなり、成尋は7歳にして出家をし、京都岩倉大雲寺(京都市左京区)に入ります。

途中、行円(ぎょうえん)明尊(みょうそん)など、天台宗の名僧に教えを乞いながら、やがて大雲寺の住職に就任するまでになります。

そして、幼くして父を亡くしたぶん、母を思う気持ちの強い成尋は、この住職就任をきっかけに、母を大雲寺に引き取り、ともに暮らす生活を送っていたのです。

しかし、延久元年(1069年)・・・59歳になっていた成尋は、一大決心を母にうち明けます。

「実は・・・仏教を極めるために、(中国)に渡りたいと思てます。
3年経ったら、必ず帰ってきます・・・
けど、大陸への船旅は命がけの危険な旅・・・
万が一の時は、極楽でお会いしましょう」

この時、母は81歳・・・おそらくは、純粋な母親の気持ちとしては、引きとめたかったでしょう。

なんせ、その息子は、大雲寺の住職のほかにも、すでに延暦寺総持院阿闍梨(あじゃり・僧に教える側の立場の僧)となり、時の権力者・藤原頼通(よりみち)護持僧(ごじそう・祈祷の専属契約してる僧)にもなってるんですから、
「なにも、今更、そんな命がけの事を・・・」
と、思ったに違いありません。

しかし、それを押さえるのも、母の愛・・・いつもやさしい息子が、どんな思いで81歳にもなる母に、自らの夢を語ったのか・・・

それが、わかるからこそ、彼女は何も言わず、息子を見送ったに違いありません。

かくして2年後の延久三年(1071年)2月2日、大陸へと向かう商船に乗るため、まずは九州へ・・・成尋は、母と暮らした大雲寺を後にしたのです。

無事、宋へと到着した成尋は、中国仏教の聖地である天台山五台山などを巡りつつ、皇帝・神宗(しんそう)にも大歓迎され、善慧大師(せんねだいし)なる号まで賜りました。

数百人の護衛を従えた皇帝の姿・・・
見た事もない建物・・・
考えた事も無い動物・・・
味わった事のない食べ物・・・

見る物・聞く物のすべてに驚きを隠せない成尋は、この行程を日記の要領で記録し、「参天台五台山記(さんてんだいごだいさんき)なる旅行記を書き上げます。

一方、延久四年の8月に、
「3月15日に、無事、船に乗ったから・・・いってきま~す」
の手紙を受け取った母・・・ここのところ、毎日、息子の夢を見てしまいます。

♪しのべども この別れ路を 思ふには
 唐紅
(からくれない・大陸風の深い赤)の 涙こそふれ♪
「息子と別れる事を考えたら、なんぼ我慢してても、真っ赤な涙が雨のように降ってくるねん」

♪もろこしも 天(あめ)の下にぞ ありと聞く
 照る日の本を 忘れざらなん ♪

「そっちも、この国と同じ太陽が照らす空の下にあるんやて?せやねやったら、絶対、この日本の事忘れんとってな」

Syou120s そう、
宋での出来事を日記に記した息子に対して、母は、歌を詠み「成尋阿闍梨母集(じょうじんあじゃりははのしゅう)という歌集を残すのです。

やがて延久五年(1073年)10月、帰国の船が用意されたにも関わらず、成尋は、ともに中国に渡って来た弟子=7人のうち、手元に身の回りの世話をする一人を残して他の者を乗船させ、自らは
「さらに修業を続けたい」
として、中国に残る道を選びました。

そこには、こんな約束破りも
「僕の母さんなら、わかってくれる」
成尋の、そんな思いがあったに違いありません。

そして、母も・・・
遠く離れた場所にいても、心通じ合う母子なら、その息子の気持ちを受け止めた事でしょう。

しかし、一方で、自らの寿命という物も気になる母・・・
おそらくは、もう、息子に会えない事もさとったに違いありません。

♪涙川 なくなくなりて 絶えぬとも
 流れけりとは あとに来て見よ ♪

「こんな泣いてばっかりおったら、涙の川も枯れてまうわなぁ…けど、後でええから、その涙の川の跡だけは見に来てや」

「今は、お前の夢を叶える時・・・私に会いに来るのは、ずっと後・・・死んでからでもええんよ」
私的な解釈ですが、そんな母の気持ちが込められているような気がします。

息子の旅行記・・・
母の歌日記・・・

結局、日本に帰る事はなく、大陸の土となった成尋・・・

携帯電話のない一方通行ぶりに、もどかしいほどの美しさを感じる1000年前の母子の会話は、今、現在も、我々に感動を与えてくれます。
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2011年2月 1日 (火)

カノジョ寝撮られ放火され…ゴタゴタ即位の履中天皇

 

履中天皇元年(400年頃)2月1日、第17代・履中天皇が即位しました。

・・・・・・・・・・

あの日本一・・・いや世界一の広さの古墳でおなじみの仁徳天皇

履中(りちゅう)天皇は、その仁徳天皇の長男として仁徳天皇二十四年(336年)頃に生まれました。

Rityutennouac その御名を大江之伊邪本和気命(大兄去来穂別尊・オオエノイザホワケノミコト)と言います。

その恋多き性格ゆえ、女のモメ事が絶えなかったものの、「民のカマドは賑わいにけり」のお話に代表されるように、国の乱れ的な騒動はなく、おおむね平和な国家を築いていたとされる仁徳天皇・・・(1月16日参照>>)

実像はともかく、そのような名君の後には、得てしてその後継者を巡っての争いが起こるもんです。

仁徳天皇亡き後、長男で皇太子だったイザホワケは、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)(葛城葦田宿禰の娘とも)である黒媛(くろひめ)を妃にしようと考えました。

しかし、ここに彼の即位をヨシとしない者が一人・・・イザホワケの弟・墨江中王(住吉仲皇子・スミノエノナカツノミコです。

「なんとか邪魔してやろう」と、兄の名をかたって黒媛のもとを訪れたナカツノミコは、その勢いのまま、彼女と一発・・・もとい、彼女と一夜をともにします。

そうとは知らぬイザホワケは彼女を皇妃に迎えるとともに履中天皇元年(400年頃)2月1日大和磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)にて、第17代・履中天皇として即位しました。

ところが、事件はその祝宴の夜に起こります。

彼女と先にヤッちゃった事件が大きくなる事を恐れたナカツノミコ・・・もちろん、そこには、兄に代わって自らが皇位につこうという野心もあったのかも知れませんが、とにかく、酒宴の席で酔いつぶれ、グッスリと眠り込んだ兄を殺そうと、宮殿に火を放ったのです。

しかし、近臣・阿知直(アチノアタイ)の機転で、炎の中から脱出した天皇・・・ひとまず、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)へと、その身を隠します。

この時、履中天皇らの逃亡先が「なぜ、石上神宮だったのか?」という理由については、記紀ではふれていませんが、この石上神宮は、あの神武東征の時、神武天皇のピンチを救うべく建御雷神(武甕槌・タケミカヅチ)という神様が、高倉下(たかくらじ)という男を通じて神武天皇に授けた佐士布都(さじふつ・布都御魂=フツノミタマとも)という刀を奉る神社です(2月11日の中盤部分参照>>)

これは、「当時の石上神宮が、多くの武器を納めた武器庫のような役割を果たしていたと事を刀を奉る神社という言い回しにしてある」なんて事も言われ、しかも、その管理をしていたのが物部(もののべ)という事ですから、履中天皇は、逃走してそこに身を寄せたというよりは、大量の武器と物部の軍事力を確保するために、石上神宮に籠城したとの見方もあるようです。

とにもかくにも、その石上神宮に、兄貴の事を心配して陣中見舞いにやってきたのが、さらに下の弟・水歯別命(瑞歯別尊・ミズハワケノミコト:後の反正天皇)でした。

しかし、すぐ下の弟に殺されかけた履中天皇は、どうもミズハワケの事を信じられず、せっかくやって来た弟にも、会おうという気になれません。

そこで履中天皇・・・ミズハワケに
「スミノエノナカツノミコを殺してくれたら、お前の事、信じるから」と・・・

「あいわかった!」
と二つ返事のミズハワケは、ナカツノミコの側近で隼人族曾婆加理ソバカリ・刺領布=サシヒレとも)
「ナカツノミコを殺したら大臣にしてやるよ」
と約束して、ソバカリに皇子を暗殺させたのです。

こうしてナカツノミコを倒したミズハワケは、ソバカリとともにその報告に兄のもとへ向かうわけですが、その道すがら、隣にいるソバカリの事が気になってたまらなくなります。

なんせ、自分の
「ナカツノミコを殺したら大臣にしてやるよ」
の話に、いとも簡単に主人であるナカツノミコを裏切ったソバカリです。

いつ何どき、「今度は、自分が裏切られるかも知れない」と思い出すと、たまらなく不安になり、結局、このソバカリを騙し討ちにしてしまうのでした。
(自分勝手やなぁ~( ̄○ ̄;)!)

こうして、即位前後のドタバタ劇を終え、何とか落ち着く履中天皇ですが、その治世は、先の仁徳天皇の時代を受け継いだうえに、平群木菟(へぐりつく)蘇我満智(そがのまち・あの蘇我一族の祖と言われている人です=3月3日の中盤参照>>物部伊莒弗(もののべのいこふつ)などの側近にも恵まれ、おおむね天下太平の世となったとされます。

・・・とは言え、履中天皇のお名前自体が「大江之伊邪本和気命=古事記」「大兄去来穂別尊=日本書紀」の二つの表記があるように、お話の前後や内容も、古事記と日本書紀では微妙に違っていたりしますが、本日は、両方をミックスしつつも古事記寄りにお話を展開させていただきました。
ご理解くださいませo(_ _)o
 

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