織田信長主催の一大イベント=御馬揃え
天正九年(1581年)2月28日、御所東門外にて正親町天皇を招待し、織田信長が馬揃えを行いました。
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天正九年(1581)のお正月は織田信長にとって、これまた格別にめでたきお正月でした。
・・・というのも、前年の3月には、10年に渡ってドンパチを繰り広げていた石山合戦で、教祖様=顕如(けんにょ)を石山本願寺から退去させる事に成功・・・(11月24日参照>>)
さらに、同じく11月には、配下の柴田勝家が鳥越城を攻略して、石山合戦終了後も抵抗し続けていた加賀一向一揆を壊滅させました(11月17日参照>>)。
未だ、上杉謙信という大物が残るものの、一番の悩みの種であった本願寺+一向一揆を事実上解体した事は、やはり大きいと言えます。
そんな天正九年の正月十五日の左義長の行事の一つとして行われたのが、織田軍団の一大セレモニーと言われる御馬揃え(おんうまそろえ)です。
信長はじめ、親衛隊の馬廻衆(うままわりしゅう)や一門などが、思い思いの頭巾や装束で着飾って町に繰り出した軍事パレードのような物と言われていますね。
去る1月30日に放送された大河ドラマ『江~姫たちの戦国』の「第4回・本能寺へ」で、主人公の江たちが見物しているシーンがあって、その雰囲気をイメージしやすいかも知れませんね。
これまで、信長さんが登場する時代劇で、あそこまでの時間を割いて馬揃えのシーンをやってくれたドラマはなかったように思うので、なかなか良かったのではないかと思います・・・(梅もさしてたしね)
ただ、ちょっと、個人的に描いていたイメージとは違ってましたが、まぁ、それは、あくまで文章から受けるイメージと、それを映像に起こしたヤツを見た時のイメージとは違って当たり前みたいな部分もありますからね。
ドラマの中では、何やら、信長の力を誇示するような目的で、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇に見せつける的な感じで扱われ、その「俺って天皇より上」的な信長の態度に、江の怒り爆発・・・みたいな、一般的な流れでしたが、
天皇づきの女官の日記で見る限りの史実としては、「左義長やるなら見に行きたいな(*゚▽゚)ノ」との天皇の希望が先にあったという事ですから、思うに、その天皇の希望を聞いた信長が、「来はるんなら盛大にやりまっさ!」的な、むしろ天皇への大サービスだったような気がします。
(この頃の信長が天皇家に対して強圧的な態度でない事については20011年11月4日のページでどうぞ>>)
さらに、ドラマでは整然と並んだ家来衆が列を乱す事なく行進していましたが・・・
確かに、軍事パレードと聞くと、よく見る某国の整然とした隊列を思い浮かべてしまいますが、この馬揃えは、どちらかというと、もっと祭り色の濃い物だったように思います。
天正九年(1581年)2月28日・・・当日は、上京の内裏の東に北から南へ約500m幅が約110m(諸説あり)の馬場が造られ、天皇やお公家さんたちが見物できるように、その内裏の東門の築地の外に、仮の行宮(あんぐう)が設置されました。
はじめは、1軍団ごとの各国衆、続いて1門衆、さらに馬廻や小姓や弓衆・安土衆・・・という軍事編成による行軍で、信長自身は、朝の8時頃に宿所であった本能寺を出発し、室町通りから一条通りを東へ向かい、小者や小姓たちとともに、行軍のトリを飾ります。
(ちなみに、羽柴(後の豊臣)秀吉は中国攻略中のため出場してません)
ただ、この行軍が、あの『信長公記』によれば、爆竹鳴らしながらのド派手モードで、お互いがぶつからんばかりの猛スピードで駆けまわるという物だったようで・・・
しかも、運動会みたいに予行演習しませんから、最初は15騎くらいずつだったのが、「こんなんメッチャ時間かかるで!」となって、途中からは40~50騎入り乱れての走りまくりとなっていたようです。
そんな中、注目はやっぱり信長さんのいでたちですが、それがなんと!謡曲・高砂太夫のコスプレ・・・頭には唐冠(とうかんむり)、白地の唐草模様に紅梅をあしらったものに唐綿の小袖を重ね、紅緞子(どんす)に桐唐草の肩衣(かたぎぬ)と袴の姿で、手には白革に桐の紋の入った手袋を着用し、梅の生花をさしてました。
う~ん、さすがNHKさん、唐草模様じゃなかったような気がしますが、衣装の雰囲気はバッチリですね~(梅もさしてたしね…2回目)
ちなみに、この馬揃えには、皆、その馬にもお金をかけて、全国各地から選りすぐりの名馬を連れて参加し、そんな中で、信長が気に入ったのが、あの山内一豊(やまうちかずとよ)の馬だった・・・
・・・で、それは、「身分不相応なれど、この馬揃えのために」と、奥さん・千代さんのヘソクリから奮発して買った馬で、その出来事から、一豊が出世の糸口を掴むっていうドラマでも有名なお話・・・
ですが、残念ながら、同時期の史料には、そのお話は登場せず、登場するのは、以前ご紹介した『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)など、江戸時代になってからの史料なのですが、だからと言って、「創作」としてスルーしてしまうのは・・・
それは、たとえ、一豊という人物や細かな事が創作であったとしても、少なくとも江戸時代になっても、この馬揃えが、いかに家臣たちにとっても一大イベントであったかが、語り草になっていたとも言えるわけで・・・
そもそも、馬揃え自体は、あの源義経の時代からあったわけですし、信長のチョイ前にも徳川家康がやってますし、江戸時代に入っても複数回行われていますが、今でも、「馬揃え」と言えば、この時の信長の馬揃えが、一番に挙げられる事も含めて、やはり、この時の信長にとっても、そして家臣にとっても、特に重要なイベントだった・・・という事でしょうね。
★追記:
今、【織田信長の年表】>>に、このページのリンクを作っていて気づいたのですが、この馬揃えって、信長さんが、あの弥助さん(2月23日参照>>)と会ってから5日後なのですねw(゚o゚)w
確か、「江~」でも、信長さんのそばで、傘だったかなんだったかを持ってた黒人さんがいた気がしたのですが…知り合って5日目とは!!ビミョー
まぁ、5日目であろうが初日であろうがかまわないのですが、南蛮寺(教会)に黒山の人だかりができるほど、都の評判になってた弥助さんですから、もし、馬揃えに出場させたとしたら、皆の注目がそっちにいっちゃって、信長さんが目立たないのでは???
と、ツマラン妄想をする茶々でした(*^.^*)
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