鳥羽伏見の責任を負った会津藩士・神保修理
慶応四年(明治元年・1868年)2月22日、幕末の会津藩で軍事奉行添役を務めていた神保修理が自害しました。
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幕末の会津藩の家老の一人・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の長男として天保九年(1838年)に生まれた神保修理長輝(じんぼしゅりながてる)さん・・・
幼少の頃から学問に秀でていて、藩校の日新館でもトップクラスの秀才・・・しかも、かなりのイケメンだったとか・・・
(確かにブサイクではない←個人的な好み入りの見解)
おりしも、ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)に始まった幕末の動乱の中、優秀な青年に成長した長輝・・・
その猛勉強で、すでに国際情勢を見る目を養っていた彼の根底にあったのは、
「こんな時に、国内でゴチャゴチャやってたらアカンのんちゃうん?一つになって外国に対向しようや」
なんていう、まさに最先端の考えでした。
やがて、そんな長輝の先進性は、次々と新体制に変貌していく各藩に遅れまいと、革新的な人材登用と軍事改革を断行する会津藩主・松平容保(かたもり)の目にとまります。
その容保によって藩の重役に抜擢された長輝・・・容保が京都守護職に任命された文久二年(1862年)からは、ともに京都に入って軍事奉行添役として軍事に奔走しました。
慶応二年(1866年)には、その最新の情勢と最先端の技術を視察させてやろうと、長輝を長崎に派遣する容保・・・彼に対する容保の期待の大きさがうかがえますね。
しかし、まさに、その視察の最中・・・一大事件が起こります。
そう、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還です(10月14日参照>>)。
このニュースを聞いた長輝が、急いで長崎から大坂へと戻って来たのは、幕府に対抗すべく朝廷から王政復古大号令(12月9日参照>>)が発せられた12月の事でした。
早速、慶喜と容保を前に、恭順の姿勢で対応するよう要請する長輝・・・
長崎での視察の際、あの先進的な考えを持つ長輝は、意外にも倒幕派の志士たちの支持を受けており、親しく接触する機会もあった事から、彼は、薩摩藩や長州藩の倒幕に対する結束力をひしひしと感じていたのです。
そんな倒幕派が、密かに西洋式の武器を大量に所持している事も知っていた彼から見れば、このまま大坂にて交戦する事は、いかにも不利・・・
戦えば負けるであろう事を充分に認識しての上申だった事でしょう。
あの勝海舟も長輝と同意見だったと言いますが、残念ながら、鳥羽伏見の戦いは勃発してしまいます(1月3日参照>>)。
始まってしまったものはやむなし・・・と、軍事奉行添役として会津軍を率いて出陣する長輝でしたが、ご存じのように、その結果は予想通りの大敗(1月9日参照>>)・・・
さらに、幕府軍の大将である慶喜が、多くの兵を大坂城に残したまま、容保とともに単身・江戸に帰ってしまう(1月6日参照>>)というオマケつき・・・
結局、その敗戦の責任は、すべて長輝に押しつけられる事になります。
長輝が長崎で見てきたように、会津藩をはじめとする幕府軍は、官軍に比べて、その軍備も古く、軍事訓練も明らかに未熟だったわけですが、それらを棚に上げた抗戦派は、
「戦いに負けたのは、コイツが西国の志士たちと親しくして、倒幕派の通じていたためや!」と非難するのです。
しかも、慶喜の敵前逃亡までも、長輝の「恭順の姿勢で・・・」の申し出によるものだと・・・
あの佐川官兵衛(かんべえ)に代表される会津藩の抗戦派はまだまだ健在で、その批判の嵐は日に日に増加し、もはや、長輝を殺害せんが勢いとなってきます。
心配した容保は、長輝の身の安全を確保するため江戸和田倉の上屋敷に、彼を幽閉しました。
しかし、その身を幽閉されてもなお、恭順を訴える長輝・・・この話を聞いた海舟は、いてもたってもいられず、慶喜に、前将軍の立場から、彼を安全な場所へ移す命令を出してくれるよう願い出たのです。
ところが、この動きを知った会津藩士たちは、それを阻止すべく、長輝の身柄を三田の下屋敷に移してしまいます。
その数日後、長輝に自害を勧める藩士たち・・・
「なんとか、藩主・容保に会わしてくれ」と願う長輝でしたが、その願いが聞き入れられる事はありませんでした。
結局、藩士たちは、「これは藩命だ」とのウソをついて長輝に切腹を命じます。
切腹が主君=容保の命令であると聞いた長輝・・・
「もともと自分に罪はないけれど、主君の命令とあっては、それに従うのが家臣のとるべき道である」
と言い、慶応四年(明治元年・1868年)2月22日、見事、自害して果てたのです。
自刃の前日に書きとめたという海舟に宛てた遺言の中には、
「後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ」
の一文があったとか・・・
岳飛(がくひ)とは、中国・南宋時代の忠臣でしたが、無実の罪で謀殺された武将・・・後に、その名誉が回復され、その忠臣ぶりが神のように崇められている人です。
自らをその岳飛になぞらえて、「いつか、わかってもらえるだろう」と・・・
思えば、これが、ただ一つ、長輝に許された弁明なのかも知れません。
神保修理長輝・・・享年31歳、
この先、生きていれば、どれほどの活躍をしたかわからない逸材を・・・
しかも、戦いではなく、内ゲバで失ってしまうのは、なんとも、やりきれない思いがするものです。
奥さんの雪子さんとは、周囲もうらやむほど仲が良かったという長輝さん・・・その奥さんは、7ヶ月後の会津戦争で、あの中野竹子率いる娘子軍(じょうしぐん)(8月25日参照>>)の一人として薙刀を奮い、見事に戦死したのだとか・・・
せめて、あの世での夫婦の再会を願うばかりです。
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コメント
茶々さん、こんにちは!
神保修理の切腹は幕末の会津藩の悲劇の1つですね!
鳥羽伏見の敗戦の責任を負わされた修理…
また、会津戦争で生き残ったがために責任を負う事となった萱野権兵衛…
こういった“侍”の見栄っ張りな部分が嫌で、幕末は誰が何と言おうと、長州(しかも諸隊側)の側に立った視点でしか観ない自分がいます(笑)
投稿: 御堂 | 2011年2月22日 (火) 15時47分
御堂さん、こんばんは~
奥さんだけでなく、父親の内蔵助さんも会津戦争で亡くなってますよね
“侍”の見栄っ張りなのか、意地なのか、忠誠心なのか…
いろいろ複雑で後世の人間には理解し難いですが、当時の人は当時の人なりに、皆、真剣だったんですよね~
投稿: 茶々 | 2011年2月22日 (火) 22時31分
こんばんは、先日は快い承諾を頂きましてありがとうございました。さっそくblogの新記事アップに使わせて貰いました。ただ、記事内容の関係を考えて少し手を加えさせて頂きましたことをお許し下さい。
リンク出来るようにしておりますので、それでご勘弁下さい。
投稿: 三郎ヱ門 | 2011年2月23日 (水) 02時04分
幕末、会津藩には多くの傑出した人材が出ましたね。山川健次郎、兄の山川大蔵、秋月悌次郎、梶原兵馬、山本八重子、中野竹子、広沢富次郎、永岡敬二郎、捨松、佐川官兵衛等等。会津藩士全体が時代に向き合った姿勢は歴史に残りますね。
投稿: 銀次 | 2011年2月23日 (水) 06時15分
三郎ヱ門さん、こんにちは~
早速のお返事ありがとうございます。
そりゃ、確かにキリギリスは…(笑)
これからも、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年2月23日 (水) 14時31分
銀次さん、こんにちは~
生き残った人たちの活躍は目を見張ります~
そのぶん、若松城とともに逝った人々が残念でなりませんね。
投稿: 茶々 | 2011年2月23日 (水) 14時34分
はじめまして!
歴史が詳しいのですね。
来年の大河で斎藤工さんが
神保修理役との事で調べておりました。
まだ始まっていないのに、
なんか悲しくなってきました。
幕末は優秀な人材が、たくさん無念な死を遂げていますよね。
投稿: ぽの | 2012年7月 1日 (日) 19時41分
ぽのさん、こんばんは~
ほんとに…
幕末は、惜しい方が、多く亡くなってしまいますね。
ただ、死にゆく方も、それを死に追いやる側も、ともに日本の明日を思って、真剣に生きていた時代でもあります。
結果を知る私たちから見れば、「何も、こんな所で死ななくても…」と思いますが、現在進行形が生きている方々には、なかなか難しいかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年7月 1日 (日) 23時36分