応神天皇の時代と渡来人
応神四十一年(310年)2月15日、第15代応神天皇が崩御されました。
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4年半も前に書かせていただいた記事ではありますが、【神功皇后の三韓征伐】(2006年9月5日参照>>)・・・
この時、先に亡くなった影の薄い仲哀(ちゅうあい)天皇に代わって、重臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに、大陸へと出兵する勇ましい女性が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功(じんぐう)皇后・・・その活躍から、卑弥呼では?とも噂される皇后さまですが、その出兵の際に、臨月だった神功皇后のお腹の中にいたのが、誉田別尊(ほむたわけのみこと)・・・後の第15代応神(おうじん)天皇です。
臨月で日本を出発したにも関わらず、大陸へ行って戦いに勝利して、筑紫に戻って来てから出産・・・と、現実ではありえない流れのせいもあって、その前の第13代成務(せいむ)天皇と第14代仲哀天皇と、この神功皇后の3人は、実在しなかった人物ではないか?との主張もあります。
ともあれ、幼い時から聡明だった誉田別尊は、3歳で皇太子となり、摂政として政務をこなしていた神功皇后が亡くなった事を受けて、応神天皇として即位したのです。
・・・で、この応神天皇は、日本一の御陵で有名な仁徳天皇のお父さんなわけですが、第15代の応神天皇から、第25代の武烈(ぶれつ)天皇までの10代を河内王朝の時代と呼んだりします。
つまり、これまでは大和(奈良県)の三輪山を中心とした王朝であった物が、この応神天皇を始祖として河内平野に拠点を移し、10代後の武烈天皇でその血統が絶え、北陸からやって来た継体(けいたい)天皇へと政権が移る(12月8日参照>>)事から、前後と区別して考えられるという事なわけですが、最近では、万系一世とされる同じ王朝が拠点を移動したのではなく、断絶と侵略を繰り返した政権交代=別の王朝になったとの見方が主流となっています。
とは言え、この頃の王朝というのが、今の私たちが思い描く国家というような形を成していたのかどうかは微妙で、もっと規模の小さな部族同士の同盟や争いが繰り返されていただけで、国家転覆とは言い難い政権交代だった可能性もあります。
・・・というのも、第16代の仁徳天皇と第18代の反正(はんぜい)天皇は摂津や河内に中心となる宮殿を置いたとされていますが、他の天皇の宮殿は大和にあったとされ、完全に大和との関係が切れていたとは言い難い部分もあるからで、そのあたりはこの先の研究に期待したいところです。
ところで、おそらくは、ここらへんから実在の人物であろうと言われる応神天皇ですが、そのキャタクターについては、少し微妙な部分もあります。
それは、息子である仁徳天皇との共通度合い・・・
応神二十二年、天皇が難波の大隅の宮の高台に立って遠く海を眺めていたところ、横にいた妃の兄媛(えひめ)が、なにやら悲しげな表情・・・
「どないしたん?」
と聞くと、
「パパとママが恋しいねん・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」
と・・・
そう、兄媛は吉備(岡山県)の出身で、遠く故郷に両親を残したまま、こちらにお嫁に来たのです。
「ほな里帰りしといで」
と、天皇はやさしく送りだし、後に自分も吉備まで行ったのだとか・・・
一方の仁徳天皇には、寵愛していた黒日売(くろひめ)が、皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)の嫉妬を恐れて故郷の吉備に帰ってしまい天皇が吉備まで迎えに行くというエピソードがあります。
里ごころと嫉妬という違いはあるものの、ちょっと似てますね。
また、応神天皇のエピソードとして、枯野(かりの)という船が老朽化した時に、その船の材料を焼かせて塩を作り、その燃えカスから琴を作ったという話が出てきますが、これも、細かな部分は違いますが、そっくりな話が仁徳天皇のエピソードとしても登場します。
そんなところから、応神天皇と仁徳天皇は同一人物で、年代のつじつまを合わせるために、二人に分割されたのでは?とも言われます。
ただし、その人物が応神天皇であったか仁徳天皇であったか、あるいは、別の呼び方をされていた誰かであったかは不明なれど、この時代に王と呼ぶにふさわしい人物が、この河内にいた事は確かであろうと感じます。
それは、この時代に多くの渡来人が大陸からやって来て、たくさんの文化や技術を日本に伝えたとされ、古代の産業革命とも呼べそうな手工業や土木技術の変化が、明らかに見られるからですが、これだけの変化を土着の日本人だけでこなしたとは、やはり考え難いでしょうね。
この時代の朝鮮半島では、常に政治的争乱が絶えず、そのために亡命せざるを得ない集団も常にいた一方で、日本で王と呼ばれる人は、その経済力と権力の維持に、彼らの先進技術を導入しようと、むしろ大歓迎で受け入れたという背景があったはずです。
応神十六年の記述には、百済(くだら)から王仁(わに)博士がやって来て、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に様々な書物を以って学問を教え、これが、日本に儒学が伝わった最初とされています。
(かつては、漢字も王仁博士が伝えた物とされていましたが、今では、漢字はもっと以前に伝わっていたという見方が主流です)
また、応神二十年には、漢人の阿知使主(あちのおみ)が大量の技術者とともに渡来して、大陸の最新技術を伝え、後に倭漢(やまとのあや)氏として日本に根付いたとされます。
さらに、秦(しん)の始皇帝の子孫とされる秦(はた)氏が渡来したのも、この応神天皇の時代と言われ、彼らは養蚕や機織りの技術を伝えたと言われています。
そんな応神天皇は、応神四十一年(310年)2月15日、日本書紀では110歳、古事記では130歳でこの世を去り、日本で第2位の大きさを持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(羽曳野市・古市古墳群)に眠っているとされています。
110歳か130歳( ̄○ ̄;)!・・・その誕生のエピソードとともに、未だ神話の世界の夢物語感が抜けきれない天皇ではありますが、現在も脈々と受け継がれる大陸の技術を積極的に受け入れた古代の王は、この時代に確かに存在したのです。
・‥…━━━☆
今日のお話のゆかりの地を、本家・ホームページで紹介しています。
くわしい行き方など書いていますので、よろしければご覧くださいo(_ _)oペコッ
- 王仁博士のお墓がある津田から国見山の歴史散歩>>
- 秦氏の祖先を祀ったとされる機物神社のある交野・私市の歴史散歩>>
- 応神天皇陵のある古市古墳群を巡る歴史散歩>>
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コメント
はじめまして
いつも読んでます
ところで御廟山は2位じゃないです
近所なんで良く行きますけど、百舌鳥古墳群のなかじゃ一番きれいな古墳ですけどね
投稿: にせ | 2011年2月16日 (水) 12時10分
にせさん、ごめんなさいm(_ _)m
私に書き足りない部分があり、勘違いを招いてしまいました。
応神天皇陵は、百舌鳥古墳群(堺市)にある御廟山古墳の事ではなく、古市古墳群(羽曳野市)にある誉田御廟山古墳の事です。
混乱を招かないように「羽曳野市」という注釈を入れさせていただいときます。
申し訳ありませんでした。
投稿: 茶々 | 2011年2月16日 (水) 12時32分
私、莵道稚郎子皇子御墓の傍らに住んでいましたので・・・
あれは、古墳じゃないのですね><
明治時代に丘(浮舟の杜と呼ばれる円丘)を墓にしたとは・・唖然・・・
ところで、飛鳥と河内のルートを改めて地図で観てみると、竹の内街道(丹比道)と長尾街道(大津道)・・この道を通ったのか・・
うう。。。なんと、その近くに葛城古道なるもの発見!!・・・葛城氏は仁徳・雄略などの天皇に后を出し、大和朝廷を支えた豪族・・・葛城王朝、、、(汗)・・・・・
で、綏靖天皇の宮跡?そして・・・天高原、降臨の地。。。
歴史は時代によってつくられるのか・・
茶々さま、また日本史勉強になりました。
ありがとうございました。(・∀・)イイ!
投稿: やませみ | 2011年2月17日 (木) 15時37分
にゃあ
どうも失礼しました
文の追加ありがとうございましたm(__)m
投稿: にせ | 2011年2月17日 (木) 20時46分
やませみさん、こんばんは~
竹の内街道や葛城古道も気になるんですが、私としては山根街道も気になってます。
投稿: 茶々 | 2011年2月18日 (金) 01時40分
にせさん、こんばんは~
誤解させてしまって申し訳ありませんでした。
投稿: 茶々 | 2011年2月18日 (金) 01時41分
茶々さん、
実を言いますと聖書を見ていますと何故と言うのが多いです。ノアの方舟、信じられない位の寿命、超高齢妊娠と出産です。
そう言うのがありますので古事記なんか記述はまともだと思います。
渡来人ですが私の中にもあるみたいです。その渡来人の先祖は西方から来たみたいですので、私の肉好きのDNAに組み込まれているでしょう。分かりませんが・・・
でも不思議なのですが西方から東方に移った人いれば、東方から西方に移った人もいます。古代は想像以上に交流が多かったのかなと思います。
分かりませんが・・・
投稿: non | 2016年4月22日 (金) 18時32分
nonさん、こんばんは~
百済は現在の日本人のご先祖でもあるでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年4月24日 (日) 04時47分