時代祭の先頭を行く「山国隊」と北野天満宮
明治二年(1869年)2月16日、農民兵として戊辰戦争を戦った山国隊が、京都を出立・・・帰国の途につきました。
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毎年10月22日、平安遷都を記念して行われる時代祭・・・京都三大祭の一つにも数えられる有名なお祭りなので、ご存じの方も多いでしょう。
このお祭りは明治二十八年(1895年)に、桓武天皇の平安遷都から1100年を記念して開催された博覧会(4月1日参照>>)のメインパビリオンとして創建された平安神宮の記念事業として開始されたもので、初回は、やはり記念という事で、少々雰囲気が違っていたようですが、2回目からは、遷都の日である10月22日に、桓武天皇と孝明天皇の御霊が、その住まいであった御所から平安神宮へと向かうお供として行列が付き添うという、現在の形となりました。
その見どころは、なんと言っても、明治時代を先頭に、徐々に古へと戻って行く、その時代々々の衣装を身にまとった総勢2000名越え、長さ2kmにも及ぶ時代行列ですよね・・・まさに、タイムマシーンで見る一大絵巻のようです。
・・・で、この行列の先頭を行くのが、維新勤王隊列の鼓笛隊・・・現在は、この名前で呼ばれていますが、実は、大正時代頃までは「官軍・山国隊」と呼ばれていた列で、実際に、山国隊の生き残りや、その子孫たちが行列に参加していたのです。
今日は、その山国隊(やまぐにたい)のお話・・・
山国とは、現在の京都市右京区京北・・・幕末当時は丹波国桑田郡にあった地名です。
そこは、桂川(大堰川=おおいがわ)に沿って開かれた豊かな山村で、豊富な木材がある事から、桓武天皇が平安遷都を機に皇室の領地へと編入し、以来、御所や都の造営の用材を提供した来たという歴史があり、京都からは常に役人が出向き、村からも都への手伝いに出かけて行ったりと、皇室とは深い関係にあった村だったのです。
しかし、やがて、貴族の時代から武士の時代へと移り行く中、一つ、また一つと皇室の直轄地が削られていき、江戸時代には、もともとの山国の里がいくつかに分割された状態になってしまっていたのです。
とは言え、やはり、同じ故郷に住む者同士・・・何とか、もとの一つに戻したいと思うのは人の常・・・やがて、何やら江戸時代の終わりも見え始めた幕末・・・
ここがチャンスとばかりに、天皇から官位を拝領し、それを後ろ盾に、なんとかもとの山国全体を皇室の直轄地に戻してもらおうという動きが起こります。
その運動のリーダーとなったのが、水口市之進(いちのしん)・鳥居五兵衛(ごへえ)・河原林安左衛門(かわらばやしやすざえもん)・藤野斎(いつき)の4名でした。
皇室に願い出るため、京都に出る彼ら・・・幸いな事に水口の弟が鳥取因幡藩の呉服所役人の養子になっていたので、そのコネで因幡藩の屋敷に入る事を許され、そこを拠点にチャンスを待ちます。
しかし、この頃の京都は、まさに幕末動乱の舞台・・・きな臭さをヒシヒシと感じながら様子をうかがっていたところ、慶応三年(1867年)12月、あの王政復古の大号令(12月9日参照>>)が発せられました。
同時に、丹波の村々にも、あの西園寺公望(さいおんじきんもち)の名前で、「勤王の志ある者は武器を持って官軍に参加すべし!」との呼びかけがあったのです。
もともと天皇家の直轄領を願っている山国の人々・・・積極的に参加しないはずはありません。
一旦、山国に帰っていた水口たちも、故郷の山国神社で結成された30名の仲間の軍とともに、再び京都へと戻って来ました。
京都では、西園寺に会う事はできませんでしたが、政府議定(ぎじょう)の岩倉具視(ともみ)に接触でき、彼の指示のもと、因幡藩の付属部隊として、その名も山国隊が誕生したのです。
山国隊は、因幡藩屋敷で合宿し、北野天満宮と椿寺の間にあった茶畑に造成された訓練所にて、まずはフランス式の軍事訓練に挑みます。
訓練にあけくれる日々の中、その行き帰りには、天満宮に立ち寄って戦勝の祈願をする毎日だったのだとか・・・
やがて慶応四年(明治元年・1868年)2月13日・・・山国隊は関東の戦場に向かって出陣しました。
隊長は因幡藩士の馬場金五、組頭は地元のリーダーの一人だった藤野・・・
一方、水口は、わずかな居残り組とともに、内裏の警護や隊の資金調達の役割を担います・・・なんせ、徴兵ではないので、隊にかかる費用は自腹ですから・・・
居残り組の思いを背負いつつ東に向かう山国隊は、まずは勝沼で、あの新撰組の近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)(3月6日参照>>)とぶつかります。
その後、江戸に入った山国隊は、4月には北関東の宇都宮で戦い、5月15日には、あの上野戦争(5月15日参照>>)にも参戦・・・隊のうちの幾人かは、さらに東北へも向かいました。
最終的に、戦死者4名、病死者2名、負傷者数名・・・全体で30名だった事を考えると、彼らにとっては大きな被害という事になりますが、とにもかくにも維新は成り、11月25日には、東征大総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)とともに凱旋帰京を果たしたのでした。
時代祭の行列は、この時の凱旋の様子を再現したものとも言われます。
年が明けた明治二年(1869年)の正月・・・懐かしの北野天満宮に参拝した山国隊の生き残り一同は、戦勝祈願が叶ったお礼と亡くなった者への鎮魂の意味を込めて、石灯籠を奉納します。
山国隊奉納の石灯籠(北野天満宮)…クリックで大きくしてご覧ください
現在、北野天満宮の境内の北西あたりにひっそりと建つこの石灯籠がソレです。
「山國隊」の文字の下には、代表者であろう人の名が刻まれているようですが、今はもう読み取れません。
こうして明治二年(1869年)2月16日、京都にとどまる事になった藤野を除いた山国隊は、故郷の地へと戻って行ったのです。
山国隊の資金調達のため、多くの山林が売りはらわれた山国では、結局、当初の夢だった皇室の直轄地の話は、露と消えてしまいました。
しかし、彼らの活躍は、故郷の誇りとして、しっかりと後世に伝えられたのです。
その証が、時代祭りの先頭を行く、あの勇姿・・・そこには、名も無い農民兵として時代の転換期に命を賭けた、彼らの思いが込められているのです。
ところで、京都に残った藤野さんには、ちょっとした後日談があるのですが、そのお話は、また次の機会に・・・
ひっぱる~ひっぱる~(◎´∀`)ノ
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コメント
農村の人が自ら戦に赴く時の気持ちってどうだったのでしょうか・・・剣術は・・・
確かに外国式の訓練・・・即ち、銃で戦うことだったのでしょうけれど。
忠誠心なのでしょうか。。。
戦死・病死者の御魂は山国護国神社にあるのです・・
当時の名もなき戦士達に思いを馳せる・・・そういう思いで今一度、時代祭りを観てみたいものである。
投稿: やませみ | 2011年2月17日 (木) 01時01分
やませみさん、こんばんは~
山国の人々は、天皇家に特別な感情があったようなので、やはり忠誠心も高かったように思いますが、他の村々ではどうだったのでしょうね。
士気の高い人ばかりではないような気もします。
投稿: 茶々 | 2011年2月17日 (木) 01時59分
茶々さん、こんにちは!
山国隊の記事でTBさせて頂きます。
先日、長浜城に企画展を観に行った際に鳥取で催される特別展のチラシをGETしてはいたのですが、山国隊の凱旋という新聞記事を目にして、観に行きたい気持ちが余計に芽生えてしましました(笑)
ps.
藤野斎の後日談ネタ書いちゃってます。(気持ち、これが一番言いたかったのかもしれへん…笑)
投稿: 御堂 | 2011年9月29日 (木) 15時01分
御堂さん、こんばんは~
トラバ、サンクスです(゚ー゚)
あの記事を見たら、行きたくなりますよね~
>藤野斎の後日談ネタ
私も、また、いつか書きます
投稿: 茶々 | 2011年9月29日 (木) 18時55分
藤野斎さんは山国隊の隊長ではありません。馬場金五さんの後任は鳥取藩士河田左久馬です。もうちょっと良く調べて下さい。
投稿: | 2016年2月27日 (土) 18時09分
そうでしたか…
その後に、鳥取藩参謀の河田左久馬さんが隊長を兼務されているのですね。
訂正させていただいときます。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2016年2月28日 (日) 02時07分
山国隊と言えば河田左久馬です。何故左久馬を書かないのですか。平安遷都から1100年を記念して開催された博覧会の実行委員長は河田左久馬の弟、精之丞で左久馬は子爵として元老院議員で東京に移住していたので、精之丞が時代祭りを始めて自身が行列に参加していた。山国隊については仲村研さんの本を読むと良いよ。
投稿: さくま | 2016年2月28日 (日) 19時03分
さくまさん、こんばんは~
歴史という物は様々な見方があり、皆が一つの正解に到達する物ではありません。
私は、よく太平洋戦争を引き合いに出させていただくのですが、未だ生きてる人がいる太平洋戦争の事でさえ、その人の見方&考え方によって様々な意見が出るのが歴史です。
・・・で、このブログは、私=茶々個人の趣味のブログでありますので、複数あるうちの、どの文献に重きを置き、どのような展開に話を持って行くかは、管理人である私の好みによる物と、ご了承いただければ、ありがたいです。
仲村研氏の書籍は拝見させていただいてはいないのですが、今回のこのページに関しましては、山国村の永井登氏が明治39年に編さんした『山国隊誌』という史料などを参照させていただき、あくまで、山国村の郷士・農民兵の事を中心に書かせていただきました。
『山国隊誌』には河田左久馬さんのお名前は出て来ず、明治19年に山国神社に建立された『山国隊碑』の碑文にも、そのお名前が無いようですので、今回のページには書かずにいた次第です。
仲村研氏は鳥取県のご出身のようですので、因幡鳥取藩ゆかりの方から見れば「山国隊と言えば河田左久馬」との思いがおありになり、そのご本をお読みになれば、山国隊の話に河田左久馬さんが登場しない事にご不満をお持ちになるのも当然だと思いますが、上記の通り、今回は山国村の記録をもとに郷士・農民兵の事を中心にしましたので、ご理解いただければ幸いです。
また、このブログは1話完結かつ5分程度で読み終えるよう1ページを3000文字前後に収めるよう書いておりますので、1つのページにすべての出来事を書く事ができない事もご理解いただきながら、いずれまた鳥取藩を中心とした山国隊のお話も書かせていただけたら…と思っておりますので、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2016年2月29日 (月) 02時34分
歴史とは色んな見方があるのですね。ここで議論するつもりはないのでこれで止めますが、事実をひとつだけ言わせて下さい。
山国神社の近くに山国護国神社があり、隊士らの招魂碑があります。ここには隊長河田左久馬・司令長原六郎などの碑があります。
投稿: さくま | 2016年2月29日 (月) 10時25分
さくまさん、こんにちは~
そうですね。
確か、山国護国神社には、明治期の京都府知事・槇村正直や因幡鳥取藩主・池田慶徳の顕彰碑や歌碑もあると聞きました。
つまり、明治政府や旧鳥取藩が中心の神社ですので、関連の碑もあるのでしょうね。
もちろん、「書かずにいた」は「書かなくて良い」と思ったわけでもありませんし、ましてや河田左久馬さんの功績がどーのこーのという事ではありません。
上記の通り、山国側の史料には河田左久馬の名前が登場しないので、今一つ稲葉鳥取藩と山国隊の関わり方が、私にはよくわかっていません。
「預かり」という事は新撰組と松平容保との関係、あるいは奇兵隊をはじめとする諸隊と各藩みたいな感じなのかな?とも思ってもみましたが、実際には、直属の藩士たちと同等で「ともに戦った」のと、「○○配下とせねば活動できないため、配下と称してして指揮命令系統だけを受けていた」のとでは、その関わり方も違って来るような気がしまして…よくわからないのに書くわけにはいかず、今回は、あくまで読んだ史料を参考にして、その範囲内で書かせていただいた次第です。
まだまだ知らない事はたくさんあります。
人間、一生かかっても、世の中のすべての事を知るのは不可能ですが、これからも出来る限り、様々な視点からの史料を探し、読み、調べて、勉強していきたいなと思っています。
ご理解いただいた事に感謝します。
投稿: 茶々 | 2016年2月29日 (月) 17時32分