実績はなくとも…甲州流軍学を大成させた小幡景憲
寛文三年(1663年)2月25日、あの甲州流軍学を大成させたという江戸時代の兵学者・小幡景憲が92歳の天寿を全うしました。
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群雄割拠する戦国時代・・・あまたある戦いを勝ち抜いた大名のそばで、多くの軍師と呼ばれる人たちが活躍しましたが、ひょっとしたら、軍師というよりも兵学者と呼ぶにふさわしいのは、この小幡景憲(おばたかげのり)が、ダントツ・・・という事になるのではないでしょうか?
その祖父は小幡虎盛(とらもり)と言い、あの武田信玄の重臣として活躍した猛将でした。
父の小幡昌盛(まさもり)も、信玄の息子・武田勝頼に仕える重臣で、武田軍団の中心的存在でしたが、天正十年(1582年)頃までには病死していて、ご存じのように、その年の3月には、その勝頼も天目山に散り、武田も滅亡します(3月11日参照>>)。
この時、通称・勘兵衛(かんべえ)こと景憲は、わずか10歳前後・・・しばらくの沈黙の後、多くの旧武田の家臣を召し抱えた徳川家康に仕官し、やがて、徳川秀忠の小姓になりました。
しかし景憲は、もともと大名や旗本として出世しようという気はなく、軍略家あるいは剣術家として身を起こしたいという夢があったようで、文禄四年(1595年)・・・24歳で秀忠のもとを出奔し、諸国放浪の修業の旅に出たのです。
・・・と言いながらも、慶長五年(1600年)のあの関ヶ原では井伊直政(なおまさ)に加勢し、さらに慶長十五年(1614年)の大坂冬の陣では、加賀の前田利常(としつね・利家の四男)の配下として参戦しています。
しかも、続く大坂夏の陣では、なんと豊臣方の大野治房(はるふさ・治長の弟)に声をかけられ、大坂城に入ったりなんぞしています。
ヘッドハンティングされたがり?
それとも、安定した終身雇用より派遣社員として、より待遇の良いところへと転々とするタイプなのか?
まぁ、関ヶ原や大坂の陣に限らず、戦国時代の合戦には、その都度、別の大名に雇われて、あっちについたりこっちについたりする、臨時の傭兵のような地侍や浪人はたくさんいたわけで、特に景憲だけが変わった行動をとっていたわけではないのですが・・・
ただ、最後の大坂夏の陣だけは、景憲に声をかけてしまったのは、治房のミスと言えるかも知れません。
実は景憲さん・・・もうすでに徳川方に雇われておりました。
大坂城へ入城する前に、京都所司代だった板倉勝重(かつしげ)と密会し、大坂城内の様子を逐一報告するダンドリを決めていたのです。
こうして大坂城に入城した景憲は、夏の陣の総攻撃直前まで大坂城にいて、諜報活動=いわゆるスパイとして暗躍し、寸前になって脱出を試み、うまい事、徳川方に帰参したのです。
・・・とは言え、実は、彼が徳川方のスパイである事は、とうの昔にバレていて、早い段階から大坂城内の諸将のほとんどが疑いの眼差しを向け、はなから、景憲には大した情報をつかませないようにしていた・・・なんて話もあります。
現に、この夏の陣では、彼が徳川方に流した情報で、何かの決め手になるようなものは一つも無かったと言います。
実は、この夏の陣だけではないのです。
軍師、あるいは、武将として臨時参戦した関ヶ原や冬の陣でも、その策が採用されたという形跡もなければ、兵士として武功を挙げたという記録も皆無・・・
にも関わらず、晩年の景憲は
「真田信繁(幸村)や後藤基次が有名なったんも、俺が大坂城で提案した策の通りに動いたからや」
とか、
「夏の陣で、徳川方の戦死者が少ないんも、大坂城におる間に俺が策を講じたからやねん」
と、若いモンに自慢気に語っていたのだとか・・・もはや、死人に口なし!やからなぁ(゚ー゚;
・・・と、これだけなら、ただのホラ吹きジイサンですが、もちろん、景憲はタダ者ではなかった・・・
そうです。
スポーツなどの場合、現役で活躍した一流選手が、引退後も一流の指導者になるとは限らない・・・
逆に、現役時代は、大した成績も残せなかったサエない選手が、その後に大監督として注目を浴びる事だってあるわけです。
景憲は後者のほうでした。
もちろん、その土台は、あの諸国を放浪した武者修行の時代からつちかわれていたのですが・・・。
祖父や父の主君だった信玄はもとより、武田軍団ゆかりの地を巡りながら、その古戦場に実際に立って、様々な事を探索したり、それこそ祖父と父という看板をフル活用して、今は散り散りとなっている旧武田の家臣に教えを請う・・・
兵学を学んだ中には、武田軍団を引き継いで井伊直政の赤備え(10月29日参照>>)の中心人物となり、彦根城の建設にも携わった早川幸豊(はやかわさちとよ)や、あの山本勘助に軍学を教わったという、やはり直政に属した広瀬景房(かげふさ)など・・・
剣術では、あの小野派一刀流の小野忠明(11月7日参照>>)に学び、免許皆伝となったとも・・・
そんな中で、史料や書物の収集にも励んでいた景憲は、高坂昌信(こうさかまさのぶ・信玄時代からの武田の家臣)や、春日惣次郎(そうじろう・昌信の甥)が執筆したという、あの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』を入手します。
そして、自らが学んだ事を書き貯めた著書や、この『甲陽軍鑑』を基本の教材として、そこに、中国の『孫子(そんし)』や『呉子(ごし)』などの理論をつけ加え、さらに天文学や気象学・陰陽道も散りばめながら、しかも、途中途中に名将のエピソードを織り交ぜつつ展開する軍学=甲州流軍学を大成させるのです。
これが、まさに大当たり!!!!
大坂の陣の後に、徳川家に帰参して旗本となった景憲のこの軍学が、大いにもてはやされるのです。
そんな中には、紀州の徳川頼宣(よりのぶ・家康の十男)や桑名の松平定綱(さだつな・家康の甥)といった徳川の身内や譜代はもちろん、肥後の細川忠興(ただおき)や長門の毛利秀元(ひでもと・輝元の養子)などの外様まで・・・多くの大名が、直接、教えを請いたいと、彼の門を叩いたと言います。
他にも、彼の弟子の一人である北条氏長(うじなが・氏康の曾孫)は北条流軍学を、山鹿素行(やまがそこう)は山鹿軍学をと、景憲の軍学を基本にした支流を創始しています。
こうして、江戸幕府御用達の兵法の基本となった甲州流軍学は、幕末に西洋式の軍隊が導入されるまで、武士の必須科目として受け継がれていく事になるのです。
かくして寛文三年(1663年)2月25日、血で血を洗う戦国時代を92歳まで行き抜いた小幡景憲・・・ホラ吹きジイサンと呼ばれようが、これだけもてはやされたなら、ちょっとくらい手柄話を盛りたくもなりますわな。
実績もないのに理論に納得させられ、皆が「すばらしい!!」と絶賛・・・考えようによっちゃ、これこそ景憲最大の策略かも知れません。
確かに、『孫子』にもありました(3月11日参照>>)。
「百戦百勝、善にあらず、戦わずして勝つ」と・・・
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コメント
今も昔も、情報戦ですよね。
今の内閣は、情報収集に必死ですが、日本が情報収集能力に欠けていたではなく、、、閣僚達止まりだったからです、上にあげていなかったからで、このことからも閣僚の力は侮れません。
情報戦は、ときに失敗すると大変です。
諜報活動がばれると外交的に窮しています。
どんな戦でも無血とはいかない様です。
マスメディアも一翼を担っています。
自己に不利な情報は流さないからです。
情報を選別する能力を高めたいものです。
投稿: やませみ | 2011年2月25日 (金) 11時20分
そういえば、近年発見された「山本菅助」文書では二代目山本菅助が小幡景憲から軍学の印可状を受けているのですよね。「菅助」子孫は甲陽軍鑑から軍学を学び、「山本勘助」子孫として大名家に仕官してますが、菅助が小幡景憲に師事していることは、なかなか興味深い事実であると思います。
投稿: 黒駒 | 2011年2月25日 (金) 15時12分
やませみさん、こんにちは~
内ゲバばかりではなく、華麗な情報戦を見せてほしいです。
投稿: 茶々 | 2011年2月25日 (金) 15時32分
黒駒さん、こんにちは~
彼の高弟たちが、「近世軍学をけん引した」とも言えますからね~
その点でも小幡さんは大したもんです。
投稿: 茶々 | 2011年2月25日 (金) 15時36分
懐かしさにコメントします。吉川英治の神州天馬峡に出てくる軍師木幡民部景憲すごくかっこいい人物でした。実在したのですね。
こばたといっておりましたが。
投稿: 入江 | 2011年3月 9日 (水) 10時49分
入江さん、こんにちは~
>神州天馬峡
その頃の少年向けの時代劇は、歴史を踏まえたしっかりした作品ばかりでしたね。
原作が吉川英治さんだという事は、ずっと後で知りましたが、「なるほど」と思ったものです。
投稿: 茶々 | 2011年3月 9日 (水) 13時31分