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2011年2月 3日 (木)

忠臣蔵のモデル?浄瑠璃坂の仇討

 

寛文十二年(1672年)2月3日、赤穂浪士の討ち入りのモデルとも言われる浄瑠璃坂の仇討がありました。

・・・・・・・・・

そもそもは寛文八年(1668年)の3月2日、下野(しもつけ・栃木県)興禅寺(宇都宮市)にて行われていた前宇都宮藩主・奥平忠昌法要の席にて勃発した刃傷事件・・・

以前、長篠の合戦関連のペーシで、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)(5月16日参照>>)鈴木金七(5月21日参照>>)のお話させていただいたように、この奥平家は、合戦でのキーパーソン=勝利のカギを握っていたお家です。

言わば、その奥平家のガンバリで勝ちえた長篠の勝利だった事で、この奥平家は、江戸時代になっても、徳川将軍家から、かなりの特権を与えられていた家柄で、その中でも、特に力を持った一族・重臣が12人いたのです。

今回、その法要の時に事件を起こしたのは、その重臣のうちの二人・・・奥平内蔵允(くらのじょう)奥平隼人という人物・・・。

苗字を見てもわかる通り、彼らは藩主筋である奥平家の一族で、しかも、内蔵允=39歳、隼人=34歳と歳も近く、さらにお互いの母親が姉妹という、かなり親密な関係・・・なのに、性格が合わない┐(´д`)┌

日頃から、事あるごとに対立し、この日も、なんだかんだでモメていた中、とうとうブチ切れた内蔵之允が刀を抜き、隼人に斬りかかったのです。

ところが、逆に返り討ちに遭い、傷を負ったのは内蔵允のほう・・・しかも、法要中の思いっきり目立つ場所での出来事だったために、内蔵允は、その場にいた全員からの失笑や冷たい視線にさらされる事に・・・カッコ悪さ100%!

とは言え、そこは法要の席ですから、「まぁ、まぁ、まぁ・・・」と、仲裁に入ってくれる人もいて、何とか、その場は収まりますが、さすがに、公的行事の席で刀を抜いた二人にお咎め無しというわけにはいかず、とりあえずは、それぞれがそれぞれの親戚筋の家で謹慎しながら、更なる処分を待つ事になりました。

ところが、その日の夜・・・内蔵允は切腹してしまうのです。

公的には、法要の席で受けた傷による死と届け出がされた内蔵允の死ですが、内々の者は皆、彼が切腹した事を知っているわけで、もし、喧嘩両成敗を適用するなら、隼人のほうも切腹の処分にするしかありませんが、これが、また、なかなか決まらない・・・

隼人自身は、謝罪の意味を込めて「切腹するならしてもいい」という覚悟を決めていたとも言われますが、あの松の廊下の刃傷事件(3月14日参照>>)でもわかる通り、その責任は、本人だけの物ではなく、その家族にも及ぶもの・・・

家族は、それを許さず、「とにかく藩の沙汰を待とう」という事になりました。

そして、半年後、やっと現藩主・奥平昌能(まさよし)の裁定が下ります。

隼人は改易。
内蔵允の嫡子・源八と従弟・正長は家禄没収のうえ追放。

ともに、奥平家を追い出されたのですから、一見、両成敗に見えますが、張本人の二人を見れば、切腹と追放という納得のいかない処分・・・当然の事ながら、遺児=源八は不満ムンムンです。

こうして、源八は、父の仇として隼人を狙う事になります。

もちろん、藩の中には、今回の処分の不等さに賛同してくれる者もいて、源八を中心に、42名の集団が形成されました。

かくして4年後の寛文十二年(1672年)2月3日未明・・・源八率いる40余名の集団は、火事場装束に身を包み、隼人の潜伏する屋敷への討ち入りを決行したのです。

舞台となったのは市ヶ谷浄瑠璃坂にある鷹匠頭・戸田七之助の屋敷・・・ここに、かの隼人が身を隠していたのです。

30ilak17120 怒涛のごとく討ち入った源八らは、屋敷内で大暴れ・・・終始優勢に事を運んだものの、ついに隼人の姿を見つける事ができませんでした。

やむなく引き揚げようと帰路についたところ、自らの手勢を率いて、かの隼人が、彼らを追いかけて来たのです。

「大暴れで疲れ切った彼らを返り討ちにしてやろう」
との隼人の魂胆でしたが、受けて立った源八・・・見事、ここで隼人を討ち取り、宿願を果たしたのです。

こうして浄瑠璃坂の仇討は成し遂げられました。

ここで、彼らは、素直に幕府に自首する事になるのですが、向かった先は、当時、大老を務めていた井伊直澄(なおずみ)のいた彦根藩・江戸屋敷・・・

と、ここまではほぼ赤穂浪士と同じ・・・しかし、ここからが違っていました。

なんと、この直澄さん・・・父の仇を見事に討った源八に、深く感銘を受けてしまうのです。

江戸の町中で、ここまでの騒ぎを起こしたのですから、当然、死罪になるところを罪一等を減じて、八丈島への流罪に・・・しかも、タイミング良く、その後、千姫様13回忌法要の恩赦が加わり、源八は、わずか6年で無罪放免となります。

さらに、島から戻った源八は、「あっぱれ!」とばかりに彦根藩に召し抱えられるという、絵に書いたようなハッピーエンドとなりました。

未だ戦国気質が抜けきれないこの時代・・・苦悩に堪えながら本懐を遂げた彼らは、義士ともてはやされ、この浄瑠璃坂の仇討もお芝居や講談に取り上げられて大人気となったのです。

・・・と、こうして見ると、討ち入りの時の装束といい、あの忠臣蔵(12月14日参照>>)にそっくりですよね~。

赤穂浪士の討ち入りの34年前に起こったこの事件・・・赤穂の彼らも、意識していなかったはずはありません。

ドラマでは死を覚悟して討ち入りを決める赤穂浪士ですが(その方がカッコイイので…)、実は、彼らの中にも、「仇討成功のあかつきには、ひょっとして新たな仕官の道があるかも」という考えがあったのでは?とも言われています。

残念ながら、この34年の間に、戦国の気質は消えてなくなり、武功よりも政治力を求める官僚的な武士が幕府の中心となってしまっていたために、赤穂浪士の行動は「思いはわかるが、許される物ではない」という判断となったのでしょう。

とは言え、幕府の方針と庶民の評判は別物・・・これら浄瑠璃坂の仇討、赤穂浪士の討ち入りは、あの荒木又右衛門鍵屋の決闘(11月7日参照>>)を加えて、江戸三大仇討と称され、芝居や浄瑠璃に引っ張りだこの演目となります。

ちなみに、日本三大仇討では、この浄瑠璃坂がカットされ、曽我兄弟(5月28日参照>>)が入りますが・・・。
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コメント

茶々さんm,こんにちは!

この浄瑠璃坂の仇討ですが、2時間枠くらいでドラマ化しても良いのに…と思うくらい展開が面白いですよね。

結局、奥平源八は流罪→恩赦→井伊家に再仕官(井伊家の記録で源八の子孫が幕末まで続いたのか調査中です…)ですから、この浄瑠璃坂の仇討を参考にした赤穂浪士たちもゼッタイ再仕官の道が頭に散らついた吉良邸討ち入りだったはず!

そう思えてなりません!

ps.この記事、TBさせて下さいませ。

投稿: 御堂 | 2011年2月 3日 (木) 16時48分

赤穂浪士のモデルですか。
赤穂浪士の中に、私の姓と同じ人がいるので、親近感持っちゃて。赤穂市のお寺まで行って浪士人形の顔見てきました。(*^-^)
なんか、微妙な感じでした。

投稿: やませみ | 2011年2月 3日 (木) 20時36分

御堂さん、トラバ、ありがとうございます。

私も、実際には再仕官狙ってたんじゃないかと思います。
ドラマでは、そうは描いてほしくないですけど…

投稿: 茶々 | 2011年2月 4日 (金) 02時38分

やませみさん、こんばんは~

同じ名前の人がいると親しみを感じますね。

>浪士人形

テレビでしか見た事ありませんが、なんか兵馬俑みたいな銅像だった気が…

投稿: 茶々 | 2011年2月 4日 (金) 02時40分

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