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2011年2月26日 (土)

豊臣秀吉をうならせた天下の陪臣・堀直政

 

慶長十三年(1608年)2月26日、堀秀政亡きあとの堀家を支えた堀直政が、この世を去りました。

・・・・・・・・

あの豊臣秀吉に、
上杉の直江兼続(なおえかねつぐ)、毛利の小早川隆景(こばやかわたかかげ)二人と並べて、
「天下の三陪臣(ばいしん・家臣の家臣)
と言わせた堀直政(ほりなおまさ)・・・

一昨年の大河で注目を浴びた兼続や、豊臣五大老の隆景ほど有名ではありませんが、山崎賤ヶ嶽(しずがたけ)小牧長久手小田原・・・と、天下を左右する戦いのいずれにも参戦して、その実戦経験はかなりのモンです。

とは言え、彼は、最前線に立って兵を率いて武功を挙げるというよりは、冷静な判断のもとに作戦を遂行して勝ちにつなげる・・・軍師のイメージの強い方だという気がします。

美濃(みの・岐阜県)斉藤義龍(よしたつ)の死後、織田信長の家臣となった奥田直純(おくだなおずみ)の息子として生まれた直政は、後に信長の側近として活躍する堀秀政(ほりひでまさ)とは従兄弟同士・・・

幼い頃、僧となった伯父のお寺で、ともに勉学に励んでいた二人は、その伯父から、「二人のうち、どちらか先に手柄を立てた者が堀家を継ぎ、一方はその家臣となって盛りたてよ」と教えられたのだとか・・・

やがて、秀政が信長の小姓となり、その後、側近に登用された事から、幼い頃の約束の通りに、直政は秀政の家臣になったと言われますが、このエピソードは、他の武将の逸話にも登場する話なので、後世の創作の可能性が高いと言われています。

しかし、そのようなエピソードが無かったとしても、現実に従兄弟同士の二人が、主君と家臣の関係になっていた事は確か・・・しかも、直政は秀政よりも6歳も年上なのですから、本来なら、そのプライドが邪魔して、なかなか従うのが難しいところを、あえて、波風立たぬようキッチリこなす所は、まさに、その度量の大きさを象徴しているかのようです。

とは言え、信長のもとで側近としての地位を確立していく秀政の一方で、この頃の直政の話は、ほとんど史料に出て来ないのが現実なのですが、後の二人の関係から見れば、おそらく、直政も信長の配下として秀政の補佐的な仕事をこなしていたと思われます。

そんな直政の活躍ぶりが登場するのは、信長が本能寺で倒れた後、主君の秀政が秀吉の配下となってからです。

秀政のあるところ、必ず側にて補佐する直政でしたが、残念ながら、その秀政は、天正十八年(1590年)5月・・・あの小田原征伐の陣中にて、38歳の若さで病死してしまいます(5月27日参照>>)

この時の堀家は、以前、あの柴田勝家の所領だった北ノ庄を領地としていましたが、秀政の後を継ぐべき息子・秀治(ひではる)が若すぎるとして、秀吉は、その所領を召し上げようとするのです。

さぁ、ここからが直政の出番!!!

若年の主君に動揺する家臣団を速やかに統率したかと思うと、自らの次男・直寄(なおより)に手紙を持たせて、秀吉のもとへ走らせ、
「ウチの社長の長年の功績、知ってはりますやろが!
万が一、跡目を継がせへんてな事になったら、俺らヤリまっせ!」

一発カマします。

もちろん、この行動は大成功!・・・見事、所領は安堵され、事無きを得ました。

やがて慶長三年(1598年)の1月、秀吉は、越後(えちご・新潟県)春日山城主の上杉景勝(かげかつ)会津若松城(福島県)の城主とし、その空いた春日山城主に、かの秀治を据えるという国替えの命令を下したのです。

何やら、複数の複雑な要因がからむこの引っ越し騒動ですが、結果的に、秀吉の置き土産となった(この年の8月に秀吉は亡くなりますので…)となったこの国替え・・・(1月10日参照>>)

米どころの越後45万石の領主となった堀家はホクホクですが、石高こそ、合計120万石となり、あの徳川家康に次ぐ大大名となるものの、領地を2分割されたような不便さ、生まれ育った越後を離れる寂しさをともなうこの国替えは、上杉にとっては、いささか不満だっようで、上杉の執政・直江兼続は、「発つ鳥、後を濁しまくり」のイケズをやって、会津へと引っ越していきます。

そのお話は、以前、こののちに起こる越後一揆のくだり(7月22日参照>>)で書かせていただいているので、内容がかぶりますが・・・当時、今回のような大名の国替えの場合、領民から徴収する年貢米は、前半の半年分のみを徴収し、残りの半年分は、新たにやってくる大名のために残しておくのが常識だったのです。

もちろん、秀治&直政もそのつもりで、自分のところの下半期分を新領主に引き継いで越後にやってきましたが、いざ、年貢を徴収しようとすると・・・越後の領民は「すでに渡したので、もう、ありません」と・・・

つまり、上杉が一年分を先に徴収し、それを持ったまま、会津に引っ越してしまっていのです。

当然、半年分の年貢の返還を、上杉に求める直政らでしたが、かの兼続は、「そんなん知らんがな」と、その要求を一蹴・・・しかたなく、直政らは、入国後すぐに検地を行い、寺社からは所領を没収し、農民には追加の増税を行ったわけですが、当然の事ながら、これらは寺社や農民からの反感をかう事になります。

やがて、慶長五年(1600年)・・・秀吉の死後に大老の筆頭として権力を握り始めた家康に対して、かの景勝が上洛拒否(4月1日参照>>)・・・

「言う事、聞けへんねやったらイテまうど!」
と強気の家康に対して、火に油を注ぐがごとくの兼続の過激・直江状(4月14日参照>>)・・・と、時代は一気に関ヶ原に向けて動き始めるのですが、この時、自らを有利に導くために、兼続が影で扇動したのが、先ほどの越後一揆(再びの7月22日参照>>)

先に1年分を払ったにも関わらず、新しい領主に、再び半年分の税金を課せられる事になり、不満ムンムンの越後領民の心を利用して、堀家に対する一揆を起こさせたわけです。

もちろん、越後領民だけではありません。

兼続は、会津からも援軍を送り、一揆勢は、またたく間に数万人に膨れ上がったと言います。

堀家最大のピンチ!ですが・・・

さすがの直政・・・慌てず騒がず、適格な判断で一揆鎮圧の采配を振ります。

この時、直政の長男・直次(なおつぐ)の守る越後三条城(新潟県三条市)一揆勢に包囲され、あわや風前の灯となった事がありましたが、「助けに行く~!!!」と大騒ぎする主君・秀治を、直政が「大丈夫です」力づくで押し止めたなんて光景もありました。

見事、直政の見込み通り、直次はほどなく、一揆を鎮圧して見せました。

また、この兼続の一揆作戦と前後して、石田三成の西軍へのお誘い攻撃も受けていた直政でしたが、
「前田君も、丹羽(にわ)君も、北国のヤツらは皆、こっちの味方になってるで~君も、はよ、上杉君と合流してぇや」
の書状には、前田家へ使者を出して、その真偽を確かめるという冷静さも失っていませんでした。

もちろん、ご存じのように前田家は東軍=家康側ですよね。

こうして、一揆の鎮圧という形で、揺るぐ事なく東軍として関ヶ原を戦った直政は、その後、佐渡の一揆も鎮圧して家康を喜ばせます。

戦いが終わった直政は、秀吉の奥さん=おねさんが住む事になった、あの京都高台寺の建設にも尽力し、その普請費用の半分を請け負ったと言います。

Koudaizigaryuurounenecc
高台寺

やがて慶長十一年年(1606年)、主君・秀治の病死を見送った後、慶長十三年(1608年)2月26日直政もまた、その62年の生涯を閉じました。

聞くところによれば、かの秀治さんは、それほどの器量を持っていなかったとも伝えられ、本来なら、やはり、あの秀政の死で幕を閉じていたかも知れない堀家に、見事、関ヶ原という大波を越えさせた感のある直政さんです。

残念ながら、堀家はこの後の江戸時代に改易となりますが、一部の血筋は、前田家の家臣となったり、新発田(しばた)藩士や小浜藩士などになって維新を迎えます。

直政がいなかったら、それも無かったかも知れません。

秀吉をうならせた陪臣・堀直政・・・まさに戦国を代表する名将の一人と言えるでしょう。
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コメント

こういう歴史の教科書に載ってない(載ってませんよね?)その他大勢の功労者こそ、歴史を静かに動かしたのだと思います。大胆に、華やかに動かす人ももちろん魅力的ですが。

投稿: Hiromin | 2011年2月27日 (日) 21時46分

Hirominさん、こんばんは~

直政さんは…
秀吉の家臣の家臣なので、やはり教科書には出て来ないかも知れませんね。

戦国時代は、やはり魅力的な人がたくさんですね~

投稿: 茶々 | 2011年2月27日 (日) 23時13分

江戸時代では堀直政の系統が大名として残るのが皮肉ですね。

投稿: | 2011年4月 9日 (土) 16時23分

勘違いしていました。
調べてみたら堀秀政の弟の系統も大名として存続してました。

投稿: 先のコメントの者です。 | 2011年4月 9日 (土) 16時34分

先のコメントの者ですさん、ありがとうございます。

そうですね~
大名にはなれなかったものの、血脈が残る事は良かったです。

直政さんのほうなら、なお良かったんですが…(^-^;

投稿: 茶々 | 2011年4月 9日 (土) 18時00分

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