1人=100文で見学OK!テーマパーク・信長の安土城
天正四年(1576年)2月23日、織田信長が安土に移り、畿内・近江・美濃・尾張に夫役を課して、安土城の築城に取り掛かりました。
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安土城・・・
織田信長が、その威信をかけて築城した「天下布武」を象徴するかのような豪華絢爛な城・・・
破天荒な男の考えた破天荒な城は、何もかもが初づくしで、こののちの築城スタイルに大きな影響を与えます。
そこまでにスゴイ城なのに、わずか3年でこの世から消え(6月15日参照>>)、往時を描いたまともな絵図すら残らない幻の城・・・
歴史好きの妄想を刺激して止まない安土城については、イロイロ書きたい事もあるのですが、まずは「今日は何の日?」のセオリー通りに、本日の出来事として「築城に取り掛かる」段階のお話をさせていただきましょう。
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まずは、信長がこの安土を築城場所に選んだのは・・・
やはり、その立地条件の良さ。
ご存じのように安土は琵琶湖の東岸の南寄りの場所にあり、現在は、平地からポコンと一段高くなった丘のような安土山となっていますが、信長の時代には、この西側まで琵琶湖で、この安土山は、その琵琶湖に突き出た半島のようになっていました。
なので、城を出たすぐの場所から船が出せ、その船を使えば、半日ほどで京都へ行けます。
しかも、東海道、中山道、北国街道のいずれにもすぐに向かえるし、背には近江(滋賀県)の穀倉地帯が広がっています。
さらに、湖南の坂本には明智光秀、ちょいと北の佐和山には丹羽長秀(にわながひで)、湖北の小谷に代わる長浜には羽柴(後の豊臣)秀吉・・・と、いかにも心強い面々がひかえています。
「これほどはない」という好立地に、府城を構える事は、もはや必然とも言えるかも知れません。
そんな安土の地に建設された城は、冒頭に書かせていただいたように、いわゆる「天下普請」=信長個人ではなく、信長の命により、その配下の者総出で建設に尽力するという物です。
普請惣奉行(ふしんそうぶぎょう)を任された丹羽長秀の指揮のもと、工事は驚くようなスピードで進んでいったと言います。
・・・と、ここで、ワタクシ個人的に、最も大きな安土城の特徴と思っているところをお話させていただきます。
それは、この安土城は戦うための城ではなかったのではないか?という事です。
「そりゃ、信長の権威を天下に知らしめるための城なのは当然だろ!」
と、お思いかも知れませんが、私が言いたいのは、それだけのための城であったのでは?という事です。
たとえば、天下人の権威を知らしめるための城と言えば、秀吉の大坂城もそうですが、大坂城は、その大きさ&豪華絢爛さで、秀吉の力の強さを誇示していますが、一方では、守りにも強い難攻不落の城でもありました。
家康の江戸城もそうです。
しかし、安土城はどうでしょう?
最も気になるのは大手道・・・
以前は、安土城が廃城となった後に、この安土山の中心が同じ敷地にあった摠見寺(そうけんじ)に移り、百々橋(どどばし)口がメインの出入り口となり、さらに、焼失した本堂とは別の場所に仮本堂を立ててしまっていた事から、この百々橋口が大手とされていました。
しかし、平成元年の発掘調査で、その仮金堂の建設で埋まってしまっていた、本当の大手道という物が見つかりました。
それが、今、安土城跡の拝観入口正面から続く、あの復元された大手道なのですが、これが、どうです・・・その石段の幅は7mもあり、さらに両側には1mの敷石部分がある・・・しかも、この広々とした石段が約180mも直線に進むのです。
両側に秀吉や前田利家といった家臣たちの屋敷が連なるとは言え、ここまで広い道をほぼ一直線につけたなら、写真の赤ちゃんだって、杖なしで登れるのですから、見ようによっちゃぁ、守る気ゼロのようにも見えます。
・・・で、考えられるのは、この城は、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇を迎えるための城であって、この広い大手道は、天皇が輿(こし)に乗ったまま、御殿のある本丸のところまで、来ていただくための道だったという事です。
天皇を安土に迎えるという計画は、天正五年(1577年)の文書に初めて登場しますが、すでに着工の時から、その事を考えていた可能性も充分あるのではないでしょうか?
そして、もう一つ、あの城郭の中心にある大きくて豪華絢爛な櫓(やぐら)の天主(てんしゅ)という呼び方です。
一般的には、信長がこの安土城に初めて、あのような建物を建設して「天主」と呼び、以降、秀吉や家康が同様の物を立てても、彼らは、それを「天守(てんしゅ)」と呼んだ・・・
なんて言われますが、以前にも書かせていただいたように、今では、天守閣のような大きな櫓を最初に建設したのは、松永久秀の多聞城だったとされています(12月26日参照>>)。
そして、信長自身も、この安土城の前に本拠地とした岐阜城に、それらしい建物を建てています。
そして、興味深いのは、岐阜城の場合、信長自信が、山上にそびえる大きな櫓の事を「天守」と呼び、その麓にあった居館を「天主」と呼んでいたというのです。
それを裏付けるかのように、安土城の天主に信長が住んでいたという事は、皆さまご存じの通り・・・
付け加えておきますが、一般的には、あの天守閣は武器や兵糧を補完しておいて、いざという時には、そこで籠城作戦に入る要塞であって、天守閣に殿さまが住む事はありません。
さらに、オマケのエピソード・・・
天正十年(1582年)の正月、信長は安土城の大見学会を開催しています。
あまりの人の数に、一部の石垣が壊れて、死傷者が出るほどの騒ぎになったと言いますが、そんな中、信長は、自ら本丸御殿の厩(うまや)の入り口に立って、一人=100文の拝観料を受け取り、後ろにひかえる従者に投げるように渡していたのだとか・・・もちろん、一般市民を相手にですよ!
しかも、お盆には、あちこちに提灯をぶら下げ、ライトアップまで試みていたとか・・・
もはや一大テーマパーク!・・・やはり守る気ゼロに見えてなりません。
「天下目前なのだから、もう、守らなくても・・・」
なんて事も言えますが、それこそ、秀吉や家康を考えてみてください、天下を取った後でも、すんなりと後継ぎに継がせられるとは限りません。
家康だって、3代将軍の家光の頃にようやく安心・・・いや、綱吉の時もヤバかったし、考えてみれば15代の慶喜(よしのぶ)まで、常に、その危険と背中合わせだったのですから、信長が、いざという時の事を考えていなかったとは思えません。
そこで、登場するのが、すぐそばにある観音寺城です。
この観音寺城は、中世日本における最大の城郭と言われる立派な物で、近江源氏の佐々木氏の築いた城です。
信長があの足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した時には、六角氏が居城としていて、信長は、抵抗する彼らを倒して入京を果たしたのです(9月12日参照>>)。
それ以降、この観音寺城は歴史に登場しないまま廃城となるので、最後の城主は六角義賢(ろっかくよしかた)父子という事になるのかも知れませんが、なぜか、信長は、この城を無傷のまま、安土城を建設しています。
一般的には、征した城の近くに、代わりとなる城を築城する場合、前者の廃材を使用するのが普通なのではないでしょうか?
小谷落城の後に長浜城を建てた秀吉も、佐和山城の後に彦根城を建てた井伊直政も(2月1日参照>>)・・・そして、石垣なんかは、とことん破壊してしまうのが当然のような気がするのですが・・・。
しかも、この安土城は、これまで土塁が主流で、重要部分だけを石垣で構築していた形から、安土山全体を石垣で囲うような工法を取りましたから、当然のごとく大量に必要な石材を全国から集める事になり、ご存じのように、石段には石仏まで使用されています。
なのに、観音寺城の石垣には手をつけず・・・
以前、安土城跡と観音寺城跡を見に行った事をブログに書かせていただきましたが(10月6日参照>>)、そこで同時に見学できる(歩いて行ける)ほど、この二つの城は近いのですよ。
もしかして信長さんにとっての安土城は、天皇を招待できるほど、ごっつい応接間を併設した癒しの大豪邸なのかも?
「安土城は見せる城、戦う時は観音寺城で・・・」と考えていたって事ないですかね?
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コメント
今では清洲城も安土城が再建されているので、今年は注目されていますね。
しばらくすると大河ドラマに大坂城も出てきますね。
投稿: えびすこ | 2011年2月24日 (木) 08時49分
えびすこさん、こんにちは~
江はイロイロな体験をしていくんでしょうね~きっと
投稿: 茶々 | 2011年2月24日 (木) 13時10分
信長の館にある、安土城からみても、テーマパークは否めませんなあ。
あんなキラキラした金箔の部屋に、長居はできませぬ。
何せ、銭を旗印に使ったぐらいですから。。
楽市楽座に、物流拠点を重視した経済政策。
安土宗論に見る、宗教家の銭のあさましさの追及。。
そして、近江商人。
三方よしの精神で、商売、やりましょ。
織田信長と安土。
安土町の人々が、「安土」という地名にこだわる理由解ります。
投稿: やませみ | 2011年2月25日 (金) 00時40分
「安土存続問題」は合併直前にテレビでも触れていましたね。「安土」は新市の町名として残ったのかな?
番組は本能寺の変を消化して少し「中だるみ」に入った感あり。長期のドラマは中だるみが2回は必ずあるようなので、男性の視聴者から見るとしばらく波乱がない展開かな?
女性の視聴者は向井君待ち?
投稿: えびすこ | 2011年2月25日 (金) 09時33分
やませみさん、こんにちは~
安土の人ではないですが、安土という地名は残してほしいですね。
あと、大阪府唯一の千早赤坂村も…
投稿: 茶々 | 2011年2月25日 (金) 15時29分
えびすこさん、こんにちは~
どこかで小耳に挟みましたが、豊悦の死で、ずいぶんと視聴率が落ちたらしいです。
やはり、皆、向井君待ちなのでは?
投稿: 茶々 | 2011年2月25日 (金) 15時31分