南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇
文永九年(1272年)2月17日、第88代・後嵯峨天皇が、53歳で崩御されました。
・・・・・・・・・
後嵯峨(ごさが)天皇・・・まだ、その名を邦仁王(くにひとおう)と呼ばれていた、わずか2歳の時に父・土御門(つちみかど)上皇と生き別れとなります。
そもそもは、あの承久の乱・・・
この承久の乱の首謀者となる後鳥羽(とば)上皇は、源平争乱の中、壇ノ浦で、わずか8歳で入水した安徳(あんとく)天皇(3月24日参照>>)の弟で、その幼さゆえ都に残された人物です。
その安徳天皇をいただく平家が、三種の神器を持ったまま西海へと落ちたため、神器のないままの異例の即位で後鳥羽天皇となったのでした。
その後、ご存じのように、争乱の勝者である源頼朝(みなもとのよりとも)によって鎌倉幕府が開かれたわけですが、第3代将軍・源実朝(さねとも)の時代になると、もはや源氏・直系の将軍よりも、それを補佐するはずの北条氏の執権の方の勢いが強くなってきます。
さらに、建保七年(承久元年・1219年)1月に、その実朝が暗殺された(1月27日参照>>)事によって、もはや将軍は完全な飾り物となり、まさに北条の天下・・・
すでに第2皇子の土御門天皇に譲位して、後鳥羽上皇となって院政を行っていたものの、北条が仕切る幕府との関係が悪化する一方だった事で、後鳥羽上皇は討幕を決意・・・おとなしい土御門天皇を退位させて、討幕にノリノリの第3皇子・順徳(じゅんとく)天皇を即位(12月28日参照>>)させます。
そして、いよいよ承久の乱決行の時、順徳天皇はわずか4歳の自分の息子=仲恭(ちゅうきょう)天皇に皇位を譲って挙兵しました。
しかし、ご存じのように、この承久の乱は、あの頼朝の妻=北条政子の涙の演説の効果で奮起した武士たちにより、見事に天皇側の敗北となりました(5月14日参照>>)。
首謀者の後鳥羽上皇は隠岐(島根県)への流罪(2月22日参照>>)、ノリノリで参戦した順徳上皇は佐渡への流罪(12月28日参照>>)・・・この時、乱に消極的だった土御門上皇には、幕府からの咎めはなかったのですが、父と弟のしでかした事件の大きさに悩んだ土御門上皇は、自ら、土佐(高知県)への流罪を申し出た(10月11日参照>>)と言います。
そう、本日の主役・後嵯峨天皇は、この土御門上皇の第3皇子・・・この事件が2歳の時だったのです。
未だ、その顔もわからぬ年頃に、父と生き別れになった皇子は、母方の叔父や祖母のもとでひっそりと・・・「生きていさえすれば、いつかは会える・・・」と、わずかな希望を抱きつつ暮らしていたのだとか・・・
しかし、皇子が12歳の時に、父は流刑先で亡くなり、その後、彼を養育してくれた叔父も、そして母も亡くなる中、徐々に側に仕える者も少なくなり、皇子は20歳になっても元服すらできず、いずれは出家するつもりで、ただひたすらおとなしく過ごす毎日でした。
一方、この間の天皇ですが・・・
上記の通り、後鳥羽上皇(父)・土御門上皇(兄)・順徳上皇(弟)の3人が流罪となり、その順徳上皇が皇位を譲った仲恭天皇はわずか70日で廃位・・・つまり、天皇であった事すら記録から消されてしまったのです(4月20日参照>>)。
当然の事ながら、勝利した鎌倉幕府側としては、乱に関係のない人物を次の天皇にしたいわけで・・・そこで、白羽の矢が立ったのが、茂仁王(ゆたひとおう・とよひとおう)・・・
この人は、あの安徳天皇の弟で、源平の合戦の時には平家とともに西海へと逃れた守貞(もりさだ)親王の息子ですが、ほとんどの皇室の人が関係している承久の乱に関わっていない人を選ぶためには、もはや、過去の戦いの事をウダウダ言ってるわけにはいかないわけで・・・
こうして、第86代後堀河(ごほりかわ)天皇が誕生しました。
・・・で、その次は、後堀河天皇の息子が第87代四条天皇に・・・
ところが、この四条天皇が、わずか12歳という若さで事故で亡くなってしまいます。
当然、子供は、まだいませんでした(1月9日参照>>)。
突然、空席となった天皇の椅子・・・
朝廷の実力者・九条道家は、順徳上皇の息子・忠成王(ただなりおう)を皇位につけようと幕府に働きかけますが、時の執権・北条泰時(やすとき)は断固反対!・・・
未だ、承久の乱に関与しまくった順徳上皇が、隠岐にて健在な事を理由に、土御門上皇の息子=邦仁王を推したのです。
もはや出家あるのみ・・・と思われていた邦仁王は、こうして、公家たちの反対を押し切った形で第88代後嵯峨天皇として即位したのです。
実は、その理由には、上記だけではなく、この後嵯峨天皇の叔父にあたる土御門定通(つちみかどさだみち)の側室となっていたのが、先の第2代執権・北条義時の娘・・・つまり泰時の妹だったわけで、おそらくは泰時の心の中で、とうの昔に決めていたのでしょう。
とは言え、表向きは、鶴岡八幡宮のお告げがあったという事にして、公家たちを抑え込んだのでした。
こうして誕生した後嵯峨天皇でしたから、その在位中の幕府との関係はすこぶる良好でした。
北条氏の力を後ろ盾に、各地に御殿を建設して、遊宴したり歌合をしたり蹴鞠をしたり・・・高野山への旅行も度々楽しんだりして、即位から5年後の寛元四年(1246年)、第3皇子の第89代後深草天皇へとバトンタッチしました。
ところが、この後深草天皇が、大変小柄で足腰が弱かった事から、父の後嵯峨上皇は、だんだんと第7皇子のこ恒仁(つねひと)親王を、次期天皇にしたくてたまらなくなって来たのです。
この恒仁親王は、健康そのもので、しかも大変優秀な息子・・・結局、正元元年(1259年)、後深草天皇を反強制的に退位させて、弟の恒仁親王を、第90代亀山天皇として即位させたのです。
当然、後深草上皇は、不満ムンムンです。
そして、後深草上皇の不満がつのる一方の文永九年(1272年)2月17日、後嵯峨法皇(文永五年・1168年に出家)は崩御されたのです。
しかも、亀山天皇の次の天皇に、その息子の世仁(よひと)親王に指名して・・・
えらい遺言を残してくれたもんです。
後嵯峨法皇の崩御後、その遺言通りに、亀山天皇の息子が、第91代後宇多(ごうだ)天皇として即位します。
遺言なのですから、当然と言えば当然ですが、一方の後深草上皇の不満が頂点に達するのも当然と言えば当然・・・
文永十一年(1274年)、父・後嵯峨法皇の三回忌に六条殿の長講堂に参詣した後深草上皇・・・手には、自らの血で書いた法華経を握りしめ、亡き法皇に、その無念の思いを祈願し、翌年には出家してしまいます。
これには、弟の亀山上皇もびっくり!
何とか事を収めようと、後深草上皇の息子・煕仁(ひろひと)親王を自分の猶子(ゆうし・契約関係の強い養子)とし、後宇多天皇の次に天皇になれるよう皇太子に立てました。
この皇太子が、後の第92代伏見(ふしみ)天皇・・・これで、後深草上皇の不満も解消された事でしょうが、この時の両者の対立は、この後、長期に渡る確執として残ってしまうのです。
そう、この後深草天皇の血統が持明院統(じみょういんとう)、亀山天皇の血統が大覚寺統(だいかくじとう)と呼ばれ、さらに、持明院統が北朝に、大覚寺統が南朝に・・・
そう、あの南北朝の時代へと突入する事になるのです。
★続きのお話は9月3日のページでどうぞ>>
まさに、南北朝への火種をまき散らしちゃった後嵯峨天皇・・・まさか、この先100年、鎌倉幕府が倒れた後も、モメるとは、思ってもみなかったかも・・・
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コメント
こんにちは!
初めてお伺いしました!
できれば、南北朝のときのことを詳しく教えて頂きたいのですが…
北畠顕家様のこととか…
その時代の人々のいみな、とかはわかるのでしょうか??
投稿: GREEN | 2011年2月17日 (木) 23時51分
GREENさん、こんばんは~
北畠さん…武田信玄より先に「風林火山」の旗を使ったって噂の人ですね~
そう言えば、楠木正成や足利尊氏は出て来てますが、北畠さんは、あまり登場してませんね~
機会があったら、また書かせていただきたいと思いますが、なにぶん、まだまだ勉強中なもので…(゚ー゚;
いみな、とかは…
記録に残ってるんでしょうか?
恥ずかしながら、私も知りません、申し訳ないです。
投稿: 茶々 | 2011年2月18日 (金) 02時09分
いつも大変興味深いお話、ありがとうございます。
今回も勉強になりました。
一点気になったことがあります。
承久の乱後、後鳥羽上皇は隠岐に配流されましたが、順徳上皇は隠岐ではなく佐渡に配流されたと思います。
投稿: Purplite | 2012年2月17日 (金) 08時33分
Purpliteさん、ありがとうございます。
1年前の記事なのに、ぜんぜん気づいてませんでした(^-^;
佐渡です!佐渡です!
また、気づかれましたらお教えくださいませm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2012年2月17日 (金) 11時38分