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2011年2月10日 (木)

源義経を受け入れた奥州・藤原秀衡の思惑

 

文治三年(1187年)2月10日、兄・頼朝に追われた源義經が、奥州平泉の藤原秀衡のもとに逃げ込みました。

・・・・・・・・

平安時代に奥州を支配した藤原氏・・・その本拠地を磐井平泉に定めたのは初代・藤原清衡(きよひら)でした(7月13日参照>>)

Hidehira600 その後を継いだ2代目・藤原基衡(もとひら)が、さらに基盤を強固な物にし、3代めの藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が後を継いだのは、すでに36歳の男盛り・・・その後継者である泰衡(やすひら)も3歳になっていました。

黄金・鉄・駿馬の産地として知られる東北の支配者として全盛期を築いた秀衡は、朝廷から陸奥守(むつのかみ)という地位を与えられてはいたものの、京都に都を置く朝廷とは一線を画した存在・・・その豊富な産物での交易によって財力を高め、一説には奥州十七万騎と言われるほどの軍事力と、京の都を彷彿とさせる寺院建築によって文化の高さを披露しながら、いわゆる独立国家としての姿勢を保っておりました。

やがて源平争乱の時代が訪れても、秀衡はどちらに味方をするという姿勢を見せる事なく、静観を続けていたわけです。

とは言え、承安四年(1174年)、黄金によって財をなした商人=金売り吉次が連れてきたとされる若き日の源義経を迎え入れてはいます。

この時の秀衡の心境は、それこそご本人に聞くしかありませんが、一方では、奥州の微妙な立場が浮き彫りになる、「なるほど」という推理も成り立ちます。

世は、未だ平家全盛の時代・・・その頃に、寺から抜け出した源氏の御曹司を保護するという事は、その平家に刃向かう事になるわけですが、言い換えれば、「その平家が牛耳る京の都を中心とする国の影響を、この奥州は受けていないのだ」という主張にも聞こえます。

敵でもなく味方でもない・・・それでいて、この源氏の御曹司を保護するくらいの国力を持っているのだ!てな感じかも知れませんね。

こうして、義経は16歳から23歳までの多感な7年間を奥州で暮らす事になるのですが、もし、上記の独立国家としての姿勢を保ちたいのが秀衡のホンネであるとするなら、その思惑を大いに外れてしまう出来事が起こります。

それが、その23歳での義経の旅立ち・・・

すでにブログにも書いておりますが、奥州にいて、兄・頼朝の挙兵を知った義経が、兄のもとに馳せ参じ(10月21日参照>>)源氏の大将として合戦に参加する事になるのですが・・・

この一連の争乱で平家が勝ったとしたら、敵対した源氏に義経を送りだした奥州藤原氏は、当然、平家の敵という立場になりますし、源氏が勝ったとしても、その源氏の世では、奥州藤原氏は、源氏の配下となりはしないか?という心配が、秀衡にはあった事でしょう。

どっちに転んでも、独立国家という姿勢の維持が困難になりそうなこの義経の参戦を、秀衡は反対したとも言われますが、結局、ご存じのように義経は兄のもとで参戦し、しかも最終的に平家滅亡への引導を渡す大活躍をやってのけます(3月24日参照>>)

にも関わらず、突然の兄弟げんか(5月24日参照>>)、義経は兄から追われる身となり(10月11日参照>>)、各地を転々としたうえ(このあたりは「源義経の年表」でどうぞ>>)文治三年(1187年)2月10日、多感な時期に保護してくれた第2の故郷=奥州の秀衡のもとに、再び逃げ込んで来たのです。

この時、風邪で寝込んでいた秀衡は、その体調を押して義経を出迎え、手厚くもてなしと言いますが、その本心はどうだったのでしょうか?

おそらくは、これまでの流れから推測すると、もはや源氏の棟梁となって着々と鎌倉幕府の基盤を固めていた頼朝から追われる義経は、厄介者以外の何者でもなかった・・・というのがホンネかも知れません。

しかし、一方では、酸いも甘いも噛み分けた秀衡・・・頼朝の思惑にも気づいていたかも知れません。

そうです。
時期としては、この義経の逃げ込みから3年後の事になりますが、以前、書かせていただいたように、頼朝は、一度、朝廷から任ぜられた右近衛大将と権大納言を、わずか3日で返上しています(12月1日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、頼朝にとっての奥州は、かつては自らの直系のご先祖が治めていた土地・・・そこを、後三年の役(11月14日参照>>)のドサクサにまぎれて、かの清衡が支配する事になったわけで、いずれは、そこを源氏の支配下に置こうと考えていた可能性大なわけです。

当然、お祖父ちゃんのいきさつを知ってる清衡なら、義経の事があろうがなかろうが、「平家の次ぎは奥州藤原氏」と頼朝が考えている事も察していたはず・・・

そうなれば、奥州の独立を保つためには、頼朝との徹底抗戦しかないわけです。

そこで、奥州十七万騎の登場ですが、後に最大の戦いとなった阿津賀志(あつかし)の戦のページ(8月10日参照>>)でも書かせていただいたように、この兵力のほとんどは、半士半農の農民兵で、農期の真っ最中に実際に戦える兵は、1万に満たなかったほど少なかったと言われます。

だからこそ、その時の頼朝は、一番忙しい刈り入れ時を狙って奥州に攻め入ったわけですが、頼朝が気づいているなら、迎える秀衡も当然承知・・・

少ない兵で大量の頼朝正規軍を迎え撃つ方法はただ一つ・・・地の利を生かした奇襲作戦を展開して追い返してしまう事です。

そこに逃げ込んで来たのが、数々の奇襲作戦で源氏に勝利をもたらした義経・・・彼の噂は、おそらく奥州にも届いていた事でしょう。

残念ながら、秀衡は、その義経の逃げ込みから8ヶ月後の10月29日に息をひきとりまが、その遺言は、
「判官殿(義経の事)を愚かなしに奉るべからず」
「義経公を大将軍にせよ」

だったと言います。

おそらくは、すでに後継者と決めていた実子=泰衡ら兄弟と、預かり者の義経との関係にも、様々な思いがあった事でしょうが、この遺言を見る限りでは、奥州藤原氏の独立維持を、義経の奇襲作戦成功に託した感じもしないではありません。

結局は、頼朝が奥州を攻めに来る前に義経は死ぬ事になりますが(4月30日参照>>)・・・

まったく別の秀衡と義経の関係・・・【義経と牛若は同一人物か?】>>もお楽しみいただければ幸いです。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

今日の記述より、義経と牛若丸は同一、別人という過去の記述も興味深く読ませていただきました。別人という発想は全く有りませんでした。ただ、金次?が逆に家来として奥州につれていったという記述は過去にどこかで見たような記憶が有りますが・・
 知人の話ですが、義経は複数いた。自分は、その山本?義経の末裔だという人物がいるそうです。確かに、八艘飛びも、寺でお経ばかり読んでいたのでは出来ませんネ。
少なくとも義経の影武者的な人物が複数?いたのは確か見たいですね!本物はあくまでもお飾りですしょうが、生きていてもらわなければいけません・・昔は、高貴な血統が大事だったんですね!

投稿: syunchan | 2011年2月10日 (木) 19時06分

syunchanさん、こんばんは~

へぇ、末裔という人がいたのですか?
それは知りませんでした。

しかし、複数っていう発想はアリかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2011年2月10日 (木) 22時15分

 中世の兄弟関係は日常生活では別々に育てられるため、今より兄弟関係は希薄だったはず。中世の武士の場合、戦での敗北の最後、一緒に自刃するのは乳母兄弟の家来が多かった。広大な武士団となると、兄弟は敵として見ていたほうが、その一族をとらえらるのではないかな?
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投稿: 銀次 | 2011年2月11日 (金) 05時27分

 勿論、影武者の義経の末裔です。同様な人物も当然複数いるんでしょうか。
聖徳太子や弘法大師の伝説も溢れ程有りますモノネ・・
 また、どういう訳か、高貴な人ほど入れ替わり説や出生にまつわる逸話も多いし、ありますね。歴史を解くキーワード・・そんなたいそうなことでもないかな??蛇足で済みません。

投稿: syunchan | 2011年2月11日 (金) 10時08分

銀次さん、応援ありがとうございます

多くの側室から生まれる多くの異母兄弟、そして政略結婚…
と、現代人には理解し難いものですが、そこには、今と変わらぬ親子・夫婦の愛も生まれていたわけで…
その時代の人々の心情に、少しずつでも近づいて行けたら…と、いつも思います。

投稿: 茶々 | 2011年2月11日 (金) 15時36分

syunchanさん、こんにちは~

やはり、「血筋の看板」というのは大きな影響があったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年2月11日 (金) 15時37分

こんにちは。平家物語と三国志演義、奥州十二年合戦などから歴史大好きになり、大学では中世史を中心に学習しました。
卿の意見は視点がおもしろいと思います。ひとのこころはそんなに変わらないと思いますので、秀衡はダメ息子たちに(国衡は庶子。泰衡は嫡子。)危機感を覚えていたのでしょう。後三年の役よりおよそ100年。いくさは遠くなりにけり。関東の新興武家政権(源頼朝を頂点とした連合政権)との対峙。奥州(東北)が島ならば良かったのにと思っていたのかもしれません。公家は賄賂(黄金、その他)で抱き込めますが、源氏にとっては、奥州は怨みの地、積怨の地。系図を見ると八幡太郎義家は頼朝の直系の祖。そして義家の母は桓武平氏です。(平清盛の妻、平時子に繋がります)
頼朝は三男ですが、嫡子として育てられます。自分こそ、清和源氏と桓武平氏をまとめる存在という自負、誇りもあったのではないでしょうか?

 

投稿: 特警ウインスペクター | 2013年3月 9日 (土) 10時02分

特警ウインスペクターさん、こんにちは~

そうですね。
頼朝が、「平家の次は奥州藤原氏」と思っていた事は秀衡も重々承知でしたでしょうからね。

投稿: 茶々 | 2013年3月 9日 (土) 15時12分

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