和気清麻呂に思いを馳せる茶臼山古墳
延暦十八年(799年)2月21日、奈良時代末から平安時代初めにかけて官僚として活躍した和気清麻呂が67歳でこの世を去りました。
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和気清麻呂(わけのきよまろ)・・・最近はあまり知られなくなりましたが、戦前には教科書にも登場し、お札の肖像画にもなっていた超有名人です。
彼を、お札になるほどの有名人に押し上げたのは、このブログでも書かせていただいている、あの道鏡事件・・・(9月25日参照>>)
神護景雲三年(769年)に、時の女帝・称徳(しょうとく)天皇をとりこにした怪僧・道鏡(どうきょう)が、宇佐八幡の神託を受けて皇位を狙った時に、清麻呂が、その神託を確かめるために、もう一度宇佐八幡に参拝し、「道鏡を天皇にしたらアカン」という否定の神託を授かった事で、道鏡の野望を阻止したという事件です。
もし、清麻呂が、その神託を授からなかったら、皇室ではない人が天皇になっていたかも知れないわけで、現在まで続く天皇家も、そこで途絶えていたかも知れない・・・つまり、清麻呂は天皇家を救った英雄という事で、教科書にも載り、お札にもなっていたわけです。
てな事で、この道鏡事件があまりにも有名な事から、清麻呂って人は神官か何かかと、以前の私は思っていたわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、実は、彼は官僚・・・それも、土木技術に優れた人物で、今で言えば、国土交通省の大臣か次官かといったところでしょうか?
そもそもは備前(岡山県)藤野に生まれたとされる清麻呂・・・
その家系は、もともと第11代・垂仁(すいにん)天皇の皇子・鐸石別命(すでしわけのみこと)の子孫とされてはいるものの、清麻呂が生まれた頃には、一地方豪族にすぎませんでした。
当時の地方豪族と言えば、中央とのつながりを持つために、女子は采女(うねめ・天皇や皇后の食事や身の回りの雑事係)として、男子は舎人(とねり・皇族や貴族の警備などの雑用係)として朝廷に差し出すのが一般的・・・
当時は磐梨別公(いわなしわけのきみ)と名乗っていた清麻呂も、そして、その姉の広虫(ひろむし)(1月20日参照>>)も、ご多分にもれずの一般的ルートで宮中に仕えていました。
やがて勃発した藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ・恵美押勝)の乱(9月11日参照>>)にて武功を挙げた事で、清麻呂は藤野和気真人(ふじのわけのまひと)の姓を賜り、ここから和気清麻呂となって、ちょっとは中央で知られた人物となっていきます。
一方、姉の広虫は称徳天皇のそばに仕え、かなりの信頼を得る立場となっていきました。
実は、あの宇佐八幡へ行ったのも、称徳天皇が信頼する広虫に「もっかい神託を確かめてきてよ」と頼んだものだったのですが、病弱だった彼女は、「その旅に耐えられないかも・・・」という事で、弟の清麻呂が行く事になったわけです。
・・・で、その道鏡事件の時、未だ権力を維持していた道鏡に不利な神託を受けてきた事で、広虫・清麻呂姉弟は、その名前を別部狭虫(わけべのせまむし・さむし)と別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に変えられて九州の大隅に流罪となってしまいましたが、称徳天皇が亡くなって道鏡が失脚した事で、二人は許され、後を継いで即位した第49代光仁(こうにん)天皇によって従五位下に復活・・・広虫は孤児の救済に尽力し(1月20日参照>>)、清麻呂は播磨(兵庫県西部)や豊前(ぶぜん・福岡県東部)の国司を歴任する事になります。
そんな中、延暦七年(788年)には、
「河内・摂津の両国の境目に川を築いて海にそそぐようにすれば、大地は肥沃になるし氾濫も防げまっせ」
という案を申請して土木事業を行います。
当時は、太古の昔には海だった大阪平野のなごりがまだまだあり、上町台地の東側を流れる河内川(現在の大和川)がもっともっと蛇行して流れていて、度々氾濫を繰り返していたのです。
その河内川から西へと向かって新たな川を造り、水を海へと逃がしてしまおうというわけです。
記録によれば、のべ23万人を動員したと言いますから、政府をあげてのかなりの大事業だったようですが、残念ながら、この事業は失敗に終わります。
大阪在住の方はご存じだと思いますが、この上町台地は、その太古の昔に大阪が一面の海だった時代から半島のように突き出た陸地だった場所で、岩盤が固すぎて、当時の堀削技術では削り出す事ができなかったようです。
結局、これと同様の工事が完成するのは江戸時代になってからなのですが、考えようによっては、確かに技術がおぼつかなかったものの、その目のつけどころ=「そのルートを開削すれば氾濫は収まり豊かになる」という設計に関しては正解だったという事になります。
おそらく、その設計のセンスがかわれたのでしょう、光仁天皇に代わって即位した桓武天皇の下では平安遷都という一大事業の造営大夫として活躍したのです。
現在、大阪市内にある天王寺公園には河底池(かわぞこいけ)=通称「ちゃぶいけ」と呼ばれる、あきらかに人工っぽい池がありますが、これが、清麻呂の行った開削工事の跡だとされています。
『続日本紀』には、
「荒陵(あらはか)の南より河内川を導きて…」
と、あり、この時点ですでに荒れた陵墓となっていた場所の南側に堀を堀ったという事なのですが、その荒陵が、現在、茶臼山古墳と呼ばれている古墳であろうと考えられるところから、その南側にある長方形の池がソレではないか?というわけです。
今は、その池を越えて茶臼山古墳に向かえるよう橋が架けられているのですが、この橋の名前は「和気橋」となっています。
また、ここ茶臼山古墳は、大坂冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村(信繁)が陣を置いた場所でもあり・・・
河底池:こんもりした森が茶臼山古墳、右奥に見える橋が和気橋です。
現在のこの風景は、流罪から一転、高級官僚として大成功を収めた清麻呂にとっては、叶わぬ夢となってしまった汚点とも言える風景なのでしょうが、歴史好きとしては時空を超えた3人の英雄に思いを馳せられるステキな風景となりました。
追記:
茶臼山古墳は上記の『続日本紀』の記述に従い、以前は、茶臼山古墳と呼ばれる事が多かったのですが、最近になって、「古墳を匂わせる品が出土していない」事、「石室も確認されていない事」などから、単に『茶臼山』と呼ばれる事もあります。
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コメント
初めてコメントします。
その知識と文書力に脱帽です。
投稿: | 2011年2月22日 (火) 00時52分
コメントありがとうございます。
根が単純なので、
すなおに喜ばさせていただきますo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2011年2月22日 (火) 02時43分
和気清麻呂は皇居ランナーには結構ポピュラーだと思いますよ!銅像がある公園は集合場所になっていますし!ただし、何をした人か知っているかは疑問ですが!(;^_^A アセアセ・・・
(先生!もし御入用でしたら皇居の銅像の写真を撮ってきますよ!)
投稿: 桃色熊 | 2011年2月22日 (火) 10時49分
桃色熊さん、こんにちは~
いくつかの清麻呂さんの銅像の写真を見た事があるのですが、皇居の銅像というのは、どのタイプなんでしょう。
お札の肖像画は、けっこうカッコイイですよね?
また、機会がありましたら、お写真お願いします。
投稿: 茶々 | 2011年2月22日 (火) 12時31分