生きさせては貰えなかった平家の嫡流・六代
建久十年(1199年)2月5日、平清盛の嫡流で曾孫にあたる六代が田越川にて処刑されました。
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平六代(たいらのろくだい)・・・この方は、伊勢平氏の基盤を固める役割をしたとされる平正盛(まさもり)(12月19日参照>>)から数えて6代目にあたる事からつけられた幼名で、成長してからのお名前は平高清(たいらのたかきよ)と言いますが、平家物語などの軍記物には「六代」の名前で登場しますので、本日は、六代と呼ばせていただきます。
・・・で、その六代の名のもととなった正盛さんの息子が平忠盛(たいらのただもり)で、その息子が平清盛(たいらのきよもり)、清盛の嫡男が重盛(しげもり)で、重盛の嫡男が維盛(これもり)・・・そして、この維盛さんの嫡男が六代という事で、つまりはあの清盛の曾孫に当たるわけです。
その生まれは承安三年(1173年)と言いますから、まさに平家全盛の時代・・・この前年は、病気が全快した清盛が政界に復帰し、娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させた年(6月11日参照>>)ですからね~。
その嫡流の男子として、末は博士か大臣か・・・いやいや、それ以上の期待に包まれ、すくすくと育っていったに違いありません。
六代が、まだ4歳だった治承元年(1177年)6月1日に発覚した鹿ヶ谷(ししがだに)の陰謀(5月29日参照>>)です。
実は六代の母は、この事件に加担していた藤原成親(なりちか)の娘だったのです。
備前(岡山県)に流罪となったうえに処刑された祖父・成親・・・確かに、母方の祖父という事で、この一件で、六代や、その母に、何らかの処分があったわけではありませんが、父の維盛も含め、この一家に、なんとなく冷たい視線が浴びせられた事は想像できます。
きっと、一点の曇りも無い後継ぎ・・・というエリート感はなくなってしまった事でしょう。
さらに悪い事は続きます。
重盛亡き後、清盛の嫡流という看板を背負う事になった父・惟盛が、相次ぐ源氏との合戦で、ことごとく負けてしまうのです。
たとえば富士川(10月20日参照>>)、
たとえば般若野(5月9日参照>>)、
続いて、あの倶利伽羅峠(5月11日参照>>)
嫡流の面目は、どんどん崩れていきます。
かくして、東より迫りくる源氏の勢いによって、寿永二年(1183年)、平家はとうとう都落ちする事になります。
そう、ご存じ平家物語の名シーンです。
妻子を京都に残して西国に旅立つ維盛父子の別れを惜しむ涙の場面・・・あの時、京の都に残され、「置いていかないで!」と、父の鎧にすがった10歳の息子が六代なのです(7月25日参照>>)。
そのページにも書かせていただきましたが、この時、妻子と別れて都落ちをしたのは、平家一門の中でも、維盛ただ一人・・・
これには、やはり、あの鹿ヶ谷の事件が要因だったとも言われます。
つまり、謀反人父を持つ妻子を、一門とともに連れて行く事ができなかったのではないかと・・・
そして、この悲しい別れが、六代にとって、父との永遠の別れとなりました。
家族の事、そして敗戦の大将という重荷に耐えられなかったのか?・・・こののち、維盛は突然、戦線を離脱し、放浪の末、那智(なち)にて入水自殺をはかり、平家が滅亡する前に、自らの命を断ってしまうのです(3月28日参照>>)。
父と別れた後、母と妹とともに京都は大覚寺あたりに隠れ住んでいた六代・・・やがて、寿永四年(文治元年・1185年)3月、かの壇ノ浦にて、平家は滅亡します(3月24日参照>>)。
当然の事ながら、平家の嫡流である六代にも、源氏の探索が及ぶ事になり、京の都にて北条時政に捕えられた彼は、そのまま鎌倉へと送られる事になります。
もちろん、その先には死=処刑が待っていたわけですが、それを救ったのが僧・文覚(もんかく)でした。
文覚上人は、いくつかの文献では、学識の無い乱暴者との評判の人なのですが、こと源頼朝とは大の仲よしで、その信頼を一身に受けていた僧でした(7月21日参照>>)。
そんな文覚が、未だ幼い子を斬る事をヨシとせず、
「僕が、いつもそばについて目を光らせますから・・・」
と、頼朝に頼み込んだのです。
こうして、処刑を免れた六代は、その文覚のもとで出家し、妙覚(みょうかく)と号して、仏の道、一筋に生きる事になりました。
その後、建久五年(1194年)に鎌倉で頼朝に謁見した六代は、この時、改めて謀反の意思がない事を頼朝に告げ、正式な誓約を交わしたと言います。
しかし、一方では、この時、成長した六代に直接会った頼朝が、その聡明さがハンパない事を悟り、密かに脅威に感じた・・・なんて事も言われます。
それは、そう・・・冒頭に書かせていただいた通り、結局、六代は、源氏の手によって処刑されてしまうからです。
事の起こりは、上記の謁見から数えて4年後・・・かの頼朝の死後、わずか1ヶ月。
鎌倉幕府の大黒柱=頼朝が亡くなった事が京都に伝わり、動揺した公家同志の朝廷内の派閥争いで、相手側の暗殺計画を立てたの立てないので、朝廷内の親幕府派が拘束されたという三左衛門事件(さんさえもんじけん)なる事件で、ここに、あの文覚が関与していたとされ、文覚は佐渡に流罪となってしまったのです。
・・・で、この時の六代は、全国各地を回る行脚修業に励んでいた真っ最中で、当然の事ながら、事件にはまったく関与していなかったのです。
ところが・・・です。
やはり、聡明なる平家の嫡流が、源氏の世に生きる事が許されなかったのでしょうか・・・修業を終えて京都に戻ったところを、師匠の罪は弟子の責任という、わけのワカラン理由(張本人の師匠は生きてますから…)で拘束され、鎌倉に送られた後、田越川(神奈川県逗子市)にて斬首されたのです。
建久十年(1199年)2月5日・・・享年26歳の若者でした。
思えば、六代自身は、何もしていません。
源氏と戦ったわけでもありませんし、平家の復活を願ったわけでもありません。
ただ、平家の嫡流として生まれただけ・・・
とは言え、そのカリスマの血が、大黒柱を失って疑心暗鬼になった鎌倉幕府の1番の脅威となってしまったのでしょう。
ごく普通の一人の僧としても生きさせてもらえなかった六代の無念は・・・いや、ひょっとしたら、彼は、そんな運命さえも受け入れ、姿なき平家の影に怯える源氏でさえ慈悲の心で受け止める・・・そんな人物だったような気がします。
そこまで言うとカッコ良過ぎか?(*´v゚*)ゞ
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コメント
「おとなしそうに見えて頼朝さんみたいになっても困るなぁ」と、周りは疑心暗鬼だったのでしょうか。でも仏の道を真面目に歩んできた六代さんはきっと 「姿なき平家の影に怯える源氏でさえ慈悲の心で受け止める・・・」 そういう境地になっていたと思います。
投稿: Hiromin | 2011年2月 5日 (土) 20時28分
Hirominさん、こんばんは~
まったくの勝手な想像ですが、私もそう思いたいんです。
相手から見れば「聡明だから脅威に感じる」かも知れませんが、彼にすれば「聡明だからこそ、自らの立場がわかる」って感じじゃなかったかと…
投稿: 茶々 | 2011年2月 6日 (日) 00時38分
現在平家末裔の人はいるんでしょうかね?「平姓」であっても後世に苗字を間乗った人もいるので、平家の子孫とは言えないです。一門が全国に逃亡したと言われますが。
来年の大河主人公の平清盛は850年も前の人なので、前半生の部分でいくつか創作があってもストーリー上は矛盾はないと思います。
投稿: えびすこ | 2011年2月 6日 (日) 09時17分
出家→還俗で、反源氏勢力が、担ぎ出す可能性もあるからでしょうね。頼朝も助命したから平氏を倒したわけだし。
投稿: やぶひび | 2011年2月 6日 (日) 11時17分
こういう人が存在したこと知りませんでした、いやあー本当に勉強になります。来年の大河ドラマが楽しみです、って今年の大河ドラマもこのアメリカでは見れていません。早く日本チャンネルで放送してくれないかな。あと、3週間の我慢です。
投稿: minoru | 2011年2月 6日 (日) 12時08分
祖父の藤原成親の子孫だという家が当市(旧児島郡)にも有ります。習字なども代々上手で、本家は地区一番の大地主(大庄屋?)当時は、優秀な種を求めて娘達が押し寄せたんでしょうか?
投稿: syunchan | 2011年2月 6日 (日) 21時12分
えびすこさん、こんばんは~
なんか、全国の平家の人の会みたいなのがあって、けっこう盛んに交流しておられるようですよ。
清盛の異母弟さんは生き残ってますし、無事な人もいたのでは?
ハロプロの平家みちよさんが、末裔として有名ですよね。
落武者の子孫って人は、友人にも二人いますww
家紋が、「アゲハ蝶」と「違い鷹の羽」なので、可能性あるかも…です。
投稿: 茶々 | 2011年2月 7日 (月) 01時40分
やぶひびさん、こんばんは~
本人にはその気なくても神輿に乗らされるかも知れませんからね~
弟までヤッちゃった人ですからね~頼朝さんは…
投稿: 茶々 | 2011年2月 7日 (月) 01時42分
minoruさん、こんばんは~
そうですね~
ドラマでも、最後のほうはアッサリ終わっちゃう事が多いですからね~
まぁ、放送時間にも限りがあるので、しかたないですが…
投稿: 茶々 | 2011年2月 7日 (月) 01時44分
syunchanさん、こんばんは~
平さんは武士ですが、藤原さんは公家ですもんね。
やはり、セレブの雰囲気だったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年2月 7日 (月) 01時47分
「平家一門会」と言うのがあるんですね。
「平野」や「平井」と言った姓の人は、平家の末裔と言う可能性もありますね。織田信長も平家の末裔らしい?です。
平清盛は伊勢平氏で祖先に当る平将門が、桓武平氏で関東を制圧していたので、関東では将門伝説が多いです。千葉県の成田山は平将門を征伐するためにできた寺院なので、「風と雲と虹と」の1回だけ節分会に大河ドラマ出演者が来なかったらしいです。
投稿: えびすこ | 2011年2月 7日 (月) 09時27分
えびすこさん、こんにちは~
>1回だけ節分会に大河ドラマ出演者が来なかった…
へぇ、そういう事もあるんですね~
「殴り込み」ってな感じで行ってみてもいい気がしますが…
投稿: 茶々 | 2011年2月 7日 (月) 12時03分
残党集めて時がきたら挙兵すればよかったのに..。
投稿: ゆうと | 2012年3月22日 (木) 19時12分
ゆうとさん、こんばんは~
六代には、その気が無かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年3月22日 (木) 19時16分
平家の一族は、生き残りが多いようです。僕が知っているだけでもこんなにいます。忠快坊、平増盛(知盛の次男)平時国(時忠の子)頼盛。
投稿: 6幡太郎 | 2012年7月24日 (火) 16時50分
6幡太郎さん、こんばんは~
やはり嫡流というのが、この時代は引っかかるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2012年7月24日 (火) 21時06分
平家物語でも六代の章は印象的です。
何もしていないにも関わらず犠牲になってしまった六代の無残さもさることながら、彼のような「平家縁の子供達」を探す課程で「報償金目当て」に様々な…それこそ普通の人々によって魔女狩りのような事態が引き起こされていたと知った時は、思わず震え上がりました。
今と違って貧しい人が多かった上に、栄華を極めた平家への嫉妬が元になったのでしょうか。
投稿: パイナップル | 2017年6月 9日 (金) 22時04分
パイナップルさん、こんばんは~
まさに盛者必衰ですね。
「平家にあらずんば人にあらず」の時代もありましたから、巡り巡って~諸行無常ですね。
投稿: 茶々 | 2017年6月10日 (土) 02時23分