一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門
元禄十一年(1698年)2月9日、上野寛永寺・根本中堂の造営工事が開始され、用材調達を受け負った材木商・紀伊国屋文左衛門が大儲けしました。
・・・・・・・・・
♪沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船♪
と、唄にも残る紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)・・・
紀州(和歌山県)は湯浅に生まれたとされ、一代で巨万の富を築き上げた事から名前を略して「紀文」、あるいは「紀文大尽」などと呼ばれ、数々の伝説的な逸話を残す人物ですが、その伝説が、いずれも事実かどうかというのは確認し難く、中には架空の人物ではないか?なんて話もありますので、今回のお話は、それ(架空かも知れない事)を踏まえたうえでのお話という事でお聞きくださいませ。
・・・で、先の唄の歌詞ですが、
文左衛門、20歳の正月間近・・・紀州では驚くほどミカンが豊作で、かなりの安値で取引されていました。
しかし、一方で、ここの所しけが続いて船が出せず、正月用のミカンが江戸へ運べないという事がありました。
そこで文左衛門・・・知り合いから金を借りて安いミカンを買い占め、家にあった古い船を急いで修理して、嵐の太平洋に船出したのです。
そうです。
嵐が止んでからでは、他の船が運んでしまいますから、ここは一つ、命がけの勝負です。
やがて、嵐の夜が白々と明ける頃、江戸湾にポッカリと白い帆が浮かんで見えました。
これが冒頭の唄のシーンです。
江戸の人たちが待ちに待っていたミカン・・・千石船に山と積まれたミカンは、またたく間に高値で売れ、一か八かの大博打は、見事に大成功を収めたのです。
そんなにたくさん積めたのかどうか微妙ですが、この一回で、文左衛門は3万~5万両の儲けがあったと言われています。
しかも、その帰りの船でも・・・
ちょうどその時、大坂では風邪が大流行していたのですが、儲けたお金で、今度は塩鮭を買い込み、船に満載して帰路につきます。
そして、「塩鮭は風邪に効くよ~」という宣伝文句のもと高値で売りさばき、こっちでも数万両稼いだのだとか・・・
そして、それをもとでに東京進出・・・いや、江戸へと下る文左衛門・・・
今度、目をつけたのは材木でした。
ご存じのように、この頃の江戸は成長著しく、人口の増加がものスゴイ事に(1月29日後半部分参照>>)・・・そのワリには家を建てる場所が限られているため、家と家との間がなく、その密集ぶりはハンパない・・・
よって、一旦火事になると、必ずと言って良いほど大火となり、その度に建てなおすのが当たり前・・・なんせ、火事と喧嘩は江戸の華ですから・・・
と、そうなると、当然、材木の需要も高まるという事です。
こうして、江戸は八丁堀で材木問屋を始めた文左衛門・・・大火の後始末や神社仏閣の修復に、木材は莫大な利益を産んでいったのです。
やがて、
♪両方の 手で大門を 紀文閉め♪
なんて、川柳に詠まれるくらいのハブリの良さを見せつける文左衛門。
この大門というのは、あの吉原の門の事で、これを紀文一人が両手で閉める・・・つまり吉原を貸し切りにしたって事です(ディズニーランドを貸し切った人もいたなぁ(゚ー゚;)。
節分の時には豆の代わりに小判をまいたなんて逸話もありますが、これも実は彼の計算ずく・・・単に、贅沢三昧して遊びほうけているのではなく、これで人を呼んでいたんです。
つまりは、派手に遊ぶ事で、そのおこぼれを貰おうという連中が集まってくるわけで、
「自分と組めば、間違いなく儲かるよ!」
てな、自分の宣伝だったわけです。
もちろん、単に群がるだけのヤツはウマい事排除して、本当の儲け話を持ってくる連中とだけ、真剣なおつきあいするわけですが・・・
そして、その狙い通りやってくるのは、商人だけではありません。
そう、
こういった自分宣伝が功を奏して、まずは忍(おし・埼玉県)藩主・阿部正武(あべまさたけ)との結びつきができました。
この阿部さんは、江戸城二の丸の修理惣奉行を務め、さらに三の丸の普請奉行も任されていた人物・・・そして、ここを入り口に、勘定奉行の荻原重秀(おぎわらしげひで)や大老の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)とも結びつきができていったのです。
こうして、幕府御用達の材木商となった文左衛門・・・
やがて訪れた元禄十一年(1698年)2月9日の上野寛永寺・根本中堂の造営工事・・・これの材木調達を一手に引き受けた紀文は、なんと50万両という巨万の富を得たとの事・・・
その後も、幕府の公共事業で稼ぎまくった彼は、とうとう八丁堀の一画を買い占め、そこに広大な屋敷を建てたのです。
しかし、見事な成功を収めた彼も、ここらあたりで、とうとう年貢の納め時・・・
それが、宝永十文銭の鋳造でした。
幕府の依頼を受けて乗り出した鋳銭業でしたが、彼が鋳造した銭の質が悪く、思うように流通しなかった事で大損に・・・しかも、ここに来て、将軍・徳川綱吉の死とともに、幕府内を新井白石が牛耳るようになり、正徳の治(しょうとくのち)という経済引き締め政策を開始しました。
しかも、これまで思うがままに山林を濫伐して来てしまったため、もう、売るぶんの材木が確保できないほどの材木不足となり、材木売って一攫千金なんて事もできなくなってしまったのです。
結局、材木問屋は廃業し、八丁堀の大きな屋敷も手放し、晩年は、没落&貧困の中で、享保十九年(1734年)4月24日に66歳の生涯の閉じた・・・なんて事を言われていますが・・・
実は、一方では、上記の引っ越しの時には、大八車30台で18日間かかったなんて話もありまして・・・つまり、その時にそんだけの資産を、まだ持っていたのですから、そう簡単にはなくならないだろうと思えるわけで・・・
しかも、同時に賃貸経営なんかもやってたし、さらに、あの安倍ちゃんからは、以前の借金の利子として、毎年、金50両と米50俵が、文左衛門が死ぬまで送られてきていたとも・・・
もし、これが本当なら、貧困どころか、かなり優雅な晩年をい過ごしていた事になるのですが、果たして・・・
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コメント
景気がよかったんでしょうね。「元禄太平記」にも出てきたと思います。
投稿: やぶひび | 2011年2月10日 (木) 11時19分
やぶひびさん、こんにちは~
まさにバブルですね~
「昭和元禄」は遠くなりにけり…
投稿: 茶々 | 2011年2月10日 (木) 16時20分
うううっ・・・
紀伊国屋文左衛門って、実在してたかどうかって・・
昔、学校で習ったのに・・・我が紀州の有名人として(つд⊂)エーン
お墓もあるし、碑(故松下幸之助)が建てたものですが・・・
だけど、その名が多くの企業に使われているとおり、商人のあこがれの人物なのかも。
投稿: やませみ | 2011年2月11日 (金) 22時43分
やませみさん、こんばんは~
私も学校で習った記憶があるので、架空の人物説がある事には驚きましたが、架空の人物よいうよりは、噂が噂を呼んで、実際の人物像と少し違っているのでは?といった感じじゃないかと思うのですが…
商人のあこがれというのは確かでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年2月12日 (土) 02時22分