家康が見込んだ殺すに惜しい男・依田信蕃~甲州征伐・田中城の攻防
天正十年(1582年)2月20日、徳川家康が武田方の依田信蕃が守る駿河田中城への攻撃を開始しました。
・・・・・・・・・・・
天正三年(1575年)5月、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、父・信玄の時代からの多くの老臣を失った甲斐(かい・山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)でしたが、未だ駿河(するが・静岡県東部)の領地は健在で、西側の要所である高天神城も確保しており、何とか立て直し計ろうと、領内の統治に力を注いでおりました。
しかし、天正六年(1578年)3月に、あの上杉謙信が亡くなった事で勃発した上杉家の後継者争い=御館(おたて)の乱・・・この時、勝頼は、北条家の姫を妻に迎えての同盟関係の身であったにも関わらず、北条家から上杉の養子となっていた景虎(かげとら)ではなく、もう一人の養子・景勝(かげかつ)の味方となり、自らの妹・菊姫と景勝を結婚させて、ソチラと同盟を結んでしまいました(3月17日参照>>)。
結果的に、この後継者争いは、景勝の勝利となるので、それはそれで良かったのかも知れませんが、当然の事ながら北条氏との同盟関係は崩れ、勝頼は東からの脅威に注意を注げねばならなくなります。
・・・で、この東からの敵の対策に追われていたからなのか?
天正九年(1581年)3月には、西の要である高天神城を、徳川家康に落とされてしまいます(3月22日参照>>)。
しかも、ここに来て、あの織田信長が・・・
前年の天正八年(1580年)、10年に及んだ石山本願寺との戦いに終止符を打った(11月24日参照>>)事で、心おきなく武田との抗戦に力を注げるようになったのです。
もちろん、勝頼も、来るべき戦いを意識して、堅固な防備をほどこした甲斐初の本格的な城・新府城を構築し、本拠を甲府から韮崎(にらさき)へと移して準備を整えはじめますが、その準備も未だ不十分な天正十年(1582年)の1月、勝頼の妹・真理姫の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、信長側に寝返ります。
かの新府城の普請にかかる某大な出費に嫌気がさしたとも、早々と武田の行く末を見限ったとも言われる義昌の寝返りですが、この出来事は、その真理姫が自ら夫と縁を切って武田家に戻って来るほどのショックな出来事・・・もちろん、勝頼にとってもショックなら、武田の家臣にとってもショック・・・
これをきっかけに、武田の家臣の寝返りが相次ぐようになり、当然、信長も、このタイミングで武田討伐の軍を起こす事に(2月9日参照>>)・・・もちろん、信長と同盟関係にある家康も動きます。
このような経緯から、天正十年(1582年)2月20日、武田方の田中城(静岡県藤枝市)を取り囲んだ家康・・・しかし、なかなかの堅固な守りにはばまれ、すぐには落ちる気配もありません。
この時、田中城の守りを任されていたのが依田信蕃(よだのぶしげ)という人物・・・彼は、父・信守(のぶもり)とともに信玄の時代から仕えている武田の家臣で、なかなかの優れ者です。
攻めあぐねた家康は、成瀬正一(なるせまさかず)なる家臣を使いにたて、
「武田の旧臣は、ことごとく主君を見限って寝返ってるよって、もう先は見えてるで~できたら、早いうちに城を開け渡してもらえんやろか?」
と、開城の説得作戦に出ました。
すると信蕃・・・
「武田の諸将に、その真偽を確かめてから返事さしてもらいますわ~」
と、とりあえずは拒否・・・
思案した家康は、すでに武田を離反して家康の味方についていた穴山梅雪(あなやまばいせつ・信君)(3月1日参照>>)に書簡を書かせて送り届けるよう手配しました。
この梅雪の穴山氏は武田宗家との婚姻関係も結び、武田姓を免許されるほどの一門・・・言わば家臣の中の家臣ですから、さすがの信蕃も納得し、
「ほな、先年の二俣城のご縁もありますよって大久保忠世さんになら城を明け渡しましょう」
と、田中城の開城を決意したのです。
・・・と、実は、あの長篠の合戦の時、信蕃は父とともに遠江(とおとうみ・静岡県西部)二俣城(静岡県浜松市)の守りについていたのですが、この時も、やはり攻めあぐねた家康は、やむなく長期戦の兵糧攻めにするのですが、やはり、なかなか落ちず・・・
しびれを切らした家康が、城内すべての命の保証を条件にやっと開城にこぎつけたという事がありました。
この時、信蕃が高天神城へと退いた後に二俣城に入ったのが忠世・・・という経緯があったのです。
こうして天正十年(1582年)3月1日、駿河田中城が開城されました。
実は、この一連の交渉の中で、家康は、
「すなおに開城してくれたなら信州(長野県)の本領を与えよう」
という条件も出していますが、これには
「勝頼様の存亡を確かめるまでは、承諾できかねます」
と、信蕃さん、さすがの返事を返し、一旦、自分の領地である佐久郡芦田へと帰還しました。
やがて3月11日・・・ご存じのように勝頼は、天目山にて自害(3月11日参照>>)し、武田家は滅亡となるのですが、家康の思いとはうらはらに、信長は
「勝頼に忠実やった家臣を召しかかえたらアカン!」
と言い、「見つけ次第、死罪にせよ」との強硬姿勢を取ったのだとか・・・
やむなく家康は、信蕃に数人の従者をつけて二俣の奥小川という場所に、その身を隠すように指示したと言います。
おかげで、命助かった信蕃・・・本能寺の変で信長が去った後は、徳川の家臣となり、旧武田の者を従え、この先、しばらくの間、隣国の北条との戦いに苦戦する家康を助ける大活躍を見せる事になるのですが、そのお話は、また、いずれかの日づけにて書かせていただきたいと思います。
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コメント
茶々様、こんにちは。
家臣を厳罰にする、武田家に対する信長の恐れ?、恨み?がよくわかる行動ですね。
投稿: いんちき | 2011年2月20日 (日) 14時25分
いんちきさん、こんばんは~
家康は武田の家臣を多く採用しましたが、信長にその気はなかったのか?
それとも、その余裕がないうちに本能寺となってしまったのか?
気になるところです。
投稿: 茶々 | 2011年2月20日 (日) 14時51分
茶々様。
どうなんでしょうね。全国を平定するなら、家臣がいくらいてもいいような気がします。信玄を恐れていたとはよく書かれてはいますが、この頃の家臣は信玄のときと変わっているし。裏切りも多かったようなので、受け入れてもいいとは思いますが。謎ですね。
投稿: いんちき | 2011年2月20日 (日) 19時47分
こんにちは、いつも楽しみに見させてもらってます。
実は、私のblogで、今回「三吉氏」についての記事を掲載するのですが、blogを明るく堅苦しくないようにする為、綺麗なイラストの人物画を探していました。
中々これは、というものが無くて、ふと、茶々さんのblogを思い出し、「三吉慎蔵」がないか探してみました。残念ながら有りませんね。しかし、他のものを見ても驚くような気に入ったイラストばかりです。
そこでお尋ねですが、もし、私のblogでこちらのイラストを使わせてもらう事は可能でしょうか?
もちろん出典先を表記しますのは当然です。
投稿: 三郎ヱ門 | 2011年2月21日 (月) 00時17分
いんちきさん、こんばんは~
「殺してしまえホトトギス」のイメージから、「皆殺し」の雰囲気漂う信長さんですが、個人的には、敵対する者には容赦しないものの、懐に飛び込んで来た者には、かなり寛大な人ではなかったか?と思いますので…
まぁ、死人に口無しで、家康をヒーローにしている可能性もなきにしもあらずですが…
投稿: 茶々 | 2011年2月21日 (月) 01時43分
三郎ヱ門さん、こんばんは~
イラスト気に入ってくださったのですか?
うれしいです。
出典先も表記してくださるとの事で、ありがたいです。
今あるものでよろしければ、どうぞ使ってやってくださいo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2011年2月21日 (月) 01時48分
茶々様おはようございます。
藤枝市の田中城、5年前に行きました。なつかしいですね。田んぼの中にある四方形の城で本丸跡が小学校の玄関脇の庭の中にありました。本丸跡の庭に小さな模型で復元していました。城址の周りを一周したら土塁・空堀も有りました。それも武田の馬出しでした。
投稿: 銀次 | 2011年2月21日 (月) 05時19分
茶々様おはようございます。
藤枝市の田中城、5年前に行きました。なつかしいですね。田んぼの中にある四方形の城で本丸跡が小学校の玄関脇の庭の中にありました。本丸跡の庭に小さな模型で復元していました。城址の周りを一周したら土塁・空堀も有りました。それも武田の馬出・三日月堀しでした。
投稿: 銀次 | 2011年2月21日 (月) 05時40分
銀次さん、こんにちは~
行かれた事あるのですか?
>周りを一周したら土塁・空堀も…
>それも武田の…
この時代の遺構が残っていたのですね。
天下統一の時代のお城も壮大で美しいものですが、この時代の物は戦う感が出ていて、そこのところがたまりませんね~
投稿: 茶々 | 2011年2月21日 (月) 09時30分
茶々さま、こんばんは~
古い記事のレスはルール違反ですかね?
大河ドラマ「真田丸(9)」天正壬午の乱のところで依田信蕃が来るかな~と期待してたのですが、でませんでしたね。
春日信達よりかこっちにいい役者さんつっこんでほしかったですね。
補給路遮断の大軍功をあげながら、真田昌幸が生まれたところともいわれる岩尾城攻めで落命。
真田信尹の北条→徳川移籍やら小諸周辺のゲリラ戦やらに信繁を絡ませて、戦国の運命の儚さを描けば良かったのにと。
隠れ依田信蕃ファンとしては、三谷さんに期待してたので返す返すも残念。
投稿: しまだ | 2016年3月10日 (木) 16時45分
しまださん、こんばんは~
>古い記事のレスは…
いえいえ、公開しているページはコメントを受け付ける設定にしてありますので、古い記事でも問題ないですよ。
私としては、今、読み返しすと、未熟で恥ずかしいページも多々ありますが…(*´v゚*)ゞ
ところで、依田信蕃…おっしゃる通りスルーですね。
本能寺の変後の甲斐&信濃では欠かせない武将だと思うんですが、なんでなのでしょう?
三谷さんには何かの意図があるんでしょうか?
不思議ですね。
投稿: 茶々 | 2016年3月11日 (金) 03時16分
茶々様、初めまして。
依田信蕃と関係がある者です。あることを調べている時、このブログを見つけました。丁寧で歴史が苦手な私にも分かりやすかったです。依田信蕃は学校で確か習わないので知らない方が多いと思いましたが、こうして記事にしてくれたり、ファンもいて、嬉しい限りです。😂
大河ドラマに出ないとは!直談判したいぐらいです!
投稿: めんだこ | 2016年12月25日 (日) 23時51分
めんだこさん、こんばんは~
ドラマにはなかなか出て来ないで方ですが、関係のある方だと気持ちが高ぶりますね~
コメント、ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2016年12月26日 (月) 01時45分
茶々様、こんばんは。
こちらこそコメントしてくださりありがとうございます😊
まさかしてくださるとは思わなかったので嬉しいです!
今更ですが、この武将のことはどこで知ったのですか?ほかのサイトでも同じことが書かれていますが、やはりそれぐらいしか伝わってないのでしょうか…。色々と聞いてしまってすいません…。関係があると言ったクセにちゃんと分かっていなくて。所々しか知らないんです。
投稿: めんだこ | 2016年12月29日 (木) 00時55分
めんだこさん、こんばんは~
私も、すべての史料を知っているわけでは無いので、あくまで今のところの知る範囲ですが…
上記のお話は、
『常山紀談』には「東照宮依田信蕃を助け給ふ事」として、
『徳川十五代記』には「依田信蕃ヲ部下ニ隷セシ事」として、
出て来る話が有名です。
皆さん、それらを出典に書かれていると思いますよ。
マイナーな史料には、違うお話もあるかも知れませんが、マイナーなだけに、おそらく専門家の方しか目にする事ができないのではないかと思います。
投稿: 茶々 | 2016年12月29日 (木) 01時14分
茶々様、こんばんは!
ご回答ありがとうございます😊
そういうことなんですね!もっと自分で調べてそれらも読んでみて知ってみようかと思います。
またお邪魔するかもしれません。その時はよろしくお願いします。
投稿: めんだこ | 2016年12月30日 (金) 01時07分
めんだこさん、こんばんは~
国立国会図書館デジタルコレクションで『常山紀談』が読めます。
「東照宮依田信蕃を助け給ふ事」のページは→コチラ>>です。
もっとたくさんの依田さんのエピソードに触れられると良いですね。
投稿: 茶々 | 2016年12月30日 (金) 02時56分
茶々様、こんばんは〜
国立国会図書館のサイトで閲覧出来るのですね!教えてくださり本当にありがとうございます😊😊
今はこのサイトを閲覧してみます(`_´)ゞ
そうですね。教科書に載るくらいの活躍をしてたら、知ってもらえたのにと思います\\\٩(๑`^´๑)۶////
投稿: めんだこ。 | 2016年12月31日 (土) 00時09分
めんだこ。さん、こんばんは~
そう言えば、以前、ブログ9周年のページ>>で、私がよく利用させていただいている図書館等の一般公開データベースをご紹介させていただいてました~(早く言えば良かったのに…このページの事忘れてました(^-^;)
参考にしてみて下さいませm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2016年12月31日 (土) 02時01分
茶々様、こんばんは〜
そして、あけましておめでとうございます🎉🎍
いえいえ(^ ^)ご丁寧にどうもありがとうございます(^ν^)
そちらも合わせて閲覧しますねo(`ω´ )o
投稿: めんだこ。 | 2017年1月 1日 (日) 01時29分
めんだこ。さん、明けましておめでとうございますm(_ _)m
今年も、歴史のあれやこれや楽しんで参りましょう。
投稿: 茶々 | 2017年1月 1日 (日) 02時20分