将軍・徳川綱吉に謁見したドイツ人・ケンペル
1691年3月29日、長崎出島のオランダ商館に勤務していたドイツ人医師・エンゲルベルト・ケンペルが、江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉に謁見しました。
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いつもなら和暦を主に・・・参考のためにその横に西暦を書かせていただいているという感じで、お話を進めさせていただいているこのブログですが、本日だけは、冒頭の西暦で・・・
というのは、実は1691年3月29日は、和暦になおすと元禄四年2月30日・・・そう、和暦のままだと一生書けません(^-^;
なので、本日・3月29日に、この話題を書かせていただく事にしました。
ただし、前後の出来事との兼ね合いもありますので、時代別年表式サイトマップ>>や出来事カレンダー>>などでは、和暦の2月30日で表示させていただきます。
冒頭の西暦表記は、あくまで、3月29日のページに、この話題をupした理由・・・という風にお考えいただければ幸いです。
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さて、本日の主役のエンゲルベルト・ケンペルさんは、1651年にリッペ伯爵領に生まれたドイツ人・・・故郷の学校を出た後、ドイツの中心地へと出て歴史や哲学や医学を精力的に学び、さらにポーランドやスウェーデンでも勉学に励みました。
そんな中、同郷のドイツ人の友人の紹介で、スウェーデン国王が派遣する外国使節団に随行する事となり、その一員としてロシアやペルシャを巡ります。
しかし、「まだまだ見聞を広めたい」と思っていたところ、たまたまイランに来ていたオランダの東インド会社の艦隊の船医として雇ってもらえる事となり、使節団と離れてインドへ・・・さらに、鎖国中の日本へとやってきて、1690年からの2年間、長崎の出島にあったオランダ商館の医師として勤務し、その間に、オランダ商館長に随行して、2度ほど江戸にやって来ていたのです。
かくして元禄四年2月30日(1691年3月29日)・・・
100枚ほどの畳が敷いてある大広間は一方が中庭に面していて、その中庭の反対側には、広い部屋と少し狭い部屋が二つ続いていて、奥深くには一段高くなった場所があり、彼らは、そこに通されたと言います。
その部屋の隅で、数枚の畳を重ねて高くなった場所に、両足を組んで座っている人物が・・・(それが将軍=徳川綱吉でっせ!)
「なんや、薄暗かったし、俺ら、頭下げてる間に、面会が終わってもたし・・・顔なんか見る余裕もおまへんでしたわ~」
というのが、この日のケンペルの最初の感想・・・
と、正式な面会は、これで終了したのですが、その後、彼らは再び、もっと奥の座敷に通されます。
そこは15畳ほどの板の間に、隣接した隣の部屋があるという感じ・・・しかし、その境界には簾(すだれ)がかかっていて、ケンペルたちから、隣の暗い部屋の様子は、まったくわかりませんでした。
簾の向こうには誰もいないのか?と思いきや、コソコソと話す将軍の声・・・実は、そこには、綱吉の正室=鷹司信子(たかつかさのぶこ)さんがいたんですね~
どうやら綱吉さん、この奥さんに彼らを会わせたかった・・・なんせ、外国人が珍しい時代ですから・・・
なぜ、そこに奥さんがいる事がわかったかと言うと・・・
「何か、やってみて」
と言われたケンペルが、故郷のダンスを踊ってみせたところ、この奥さんが、興味のあまりに簾から顔を出したんですと。
「それは、もう、黒い瞳をした若々しいベッピンさんでした!」
と、踊りながらも、しっかりとチェックするケンペル・・・
そうやって、気づいてから、注意深く見てみると、簾の隙間のあちこちから、チョイと隙間を広げて、こちらを見る目線の数々・・・
そんな中、飛んだり跳ねたり・・・果ては、故郷のドイツの歌まで歌って大サービスのケンペルご一行・・・
「完全に見世物になっとるやんけ!」
とケンペルが思ったかどうかはわかりませんが、やはり、悪気はないものの、白人さんそのものが珍しかったんでしょうね。
その後は、通訳を通しての綱吉からの質問タイム・・・
「オランダとバタビア(インドネシアのジャカルタの事)とは、どのくらい放れてるの?」
「バタビアの総督とオランダの王さまやったら、どっちが強いん?」
「一番、重くて危険な病気って何やと思う?」
他にも
「ひょっとして、君、不老不死の薬を探して世界中を旅してるんちゃうん?中国なんか何百年も前から、そうやってるやん」
てな質問もあったとか・・・
なんだか、アホみたいな質問・・・と思ってしまいますが、それだけ、日本では西洋に関する情報が無かった時代でもあります。
それに、このケンペルさん自身にも、叔父さんが魔女裁判にかけられて死刑になったという経歴がある事を考えれば、未だヨーロッパでさえ、混沌とした時代だったわけですからね。
これら、江戸に来た時のお話は、ケンペルの『江戸参府旅行日記』というものに書かれていますが、一方、ケンペルがヨーロッパに戻ってから執筆した有名な著作に『日本誌』というのがあります。
この著書は、最初は英語に訳されてロンドンで出版された物が、フランス語やオランダ語にも訳され、さらに、、フランスの思想家・ディドロやダランベールらが20年以上かけて1772年に完成した大規模な百科事典『百科全書』の、日本に関する記述が、ほとんど、この『日本誌』からの引用であった事から、この頃のヨーロッパの知識人の間で大ヒット・ベストセラーとなり、大きな影響を与えました。
しかも、それはヨーローッパのみならず、この日本にも大きな影響を与えています。
実は、ケンペルの『日本誌』には、付録というのがついてまして・・・
この中で、ケンペルは、
「日本には、崇める対象である皇帝(天皇)と、実際に統治する皇帝(将軍)の二人がいる事」を記し、この綱吉時代の外国に対する政策を肯定的に書き残しています。
その付録に書かれていた対外政策の部分が、後世に日本語に訳されるのですが、その題名があまりに長いため、訳した人が、論文の題名を『鎖国論』と命名しちゃいます。
つまり、今でも歴史で習う「鎖国」という言葉は、ここで生まれたんですね~
以前、【江戸時代には藩も鎖国も無かった?~歴史用語の妙】(1月8日参照>>)で書かせてもいただきましたが、江戸時代の対外政策は、「鎖国」という言葉の印象から受けるほどの強固な姿勢で国を閉ざしていたわけではないんですが・・・
とにもかくにも、日本を含め、かなりの影響を与えているケンペルさん・・・なかなかの人物です。
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