準備万端!北条時宗の元寇防塁
建治二年(1276年)3月10日、鎌倉幕府が、蒙古の再来に備えて、博多湾の海岸に石塁を築かせました。
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鎌倉時代最大・・・いや、日本の歴史上に残る国家の危機と言える蒙古襲来=元寇です。
同族同士の争いに討ち勝ち、モンゴルの第4代皇帝となったフビライ・ハーンは、都を大都(だいと・現在の北京)に遷して、国号を大元(だいげん・元)と改め、自らの国家を中華帝国の後継と位置づけました。
そんな元にとって南宋(なんそう・淮河以南の地域)の征服は悲願でもあったわけですが、当時、その南宋と友好な関係にあったのが日本でした。
そして、高麗(こうらい・朝鮮半島の国)国王を服属させたフビライが、その後の南宋征服の一環として、日本を臣下に置こうと考えるのは当然の事かも知れません。
フビライは、日本に対し、7回に渡って、「服属せんかい!」てな高圧的な国書を送りつけてくるわけですが、国家始まって以来とも言える外国勢力の侵略行為に、対処すべき方法を模索していたのか?、結局は、まともな返事すらしなかった日本・・・
そこで、起こったのが、
文永十一年(1274年)10月5日の対馬襲撃に始まり(10月5日参照>>)、その4日後に博多湾侵入をした文永の役=1回目の蒙古襲来です(10月19日参照>>)
・・・で、ご存じのように、この時は神風が・・・
と言いたいところですが、大船団がいきなり姿を消したとされる10月21日は、現在の暦に換算すると11月26日・・・
気象学上、この時期に台風なみの暴風雨はなかなか考え難いのだそうです。
しかも、もし、暴風雨での被害なら、船の残骸が湾内に散乱しているはずだし、水死体もかなりの数になるものと思いますが、そのような記録も見当たらず・・・
わずか1隻が志賀島(しかのじま)で座礁していた他は、すべてが忽然と博多湾からいなくなっていたという事で、現在では、「暴風雨も多少はあったかも知れないけれど、基本的には、元軍は、何らかの理由で、自ら撤退した」という考え方が主流となっています。
とは言え、アチラの記録によれば、その後1ヶ月もかかって、やっと高麗の港にたどりついた船団は、出発時の3分の1の兵士を失うという惨憺たる結果だったとなっていますので、やはり、何かあったのかも知れません。
とにもかくにも、一度目は死守した鎌倉幕府・・・
その後、元は、南宋の攻略を本格化させたため、日本への対処法は外交交渉へと変わり、そこで送られて来た使者が、杜世忠(とせいちゅう)をリーダーとした使節・・・
ところが、です。
元側から見れば、「文永の役で自分たちの強さを見せつけておいて、これからは交渉で」と思って派遣した使節団でしたが、日本側から見れば、「文永の役では、向こうが勝手に撤退しただけで、未だ抗戦中」の段階・・・
そんな勝手な交渉には応じられないとばかりに、時の執権・北条時宗(ときむね)は、この使者たちを惨殺し、徹底抗戦を宣言したのです(9月7日参照>>)。
これが建治元年(1275年)9月7日の出来事でした。
ここから、蒙古の再襲来に向けての準備が開始されます。
その中には、先手を取って、元軍の最前線基地である高麗を攻めるという計画もあったのだのだとか・・・
上陸して前線基地を破壊した後、海岸線に要塞を構築して制海権を確保するとい風な戦略だったとも言われますが、結局は、その計画は実施されませんでしたし、そもそも、当時の造船技術で外征ができたかどうかという疑問もあり、まだまだ研究の余地がありそうです。
そんな外征策は謎ではありますが、一方の再襲来に備える沿岸防備という物は確実に行われました。
それが建治二年(1276年)3月10日に始まった防塁の建設です。
鎮西奉行の少弐経資(しょうにつねすけ)の指揮のもと、九州の御家人の中から選ばれた異国警固番役を中心に、博多湾に入った敵を水際で食い止めるべく、沿岸部に構築された石積みの防塁・・・
それは、高さ3m、幅約1~2m、総延長20kmにも及ぶ長大な物でした。
当時は「石築地(いしついじ)」と呼ばれていたらしいこの防塁・・・現在も、福岡タワー近くの西新百道防塁、JR筑肥線・下山門駅近くの松原防塁、同じく今宿駅の北にある今宿防塁、さらに北の糸島半島にある今津防塁など、いくつか残っているようです(スミマセン、まだ私は、この目で確認してません(*_ _)人 )。
写真など見させていただくと、海側・・・つまり敵がやって来るほうの斜面は、急な、いわゆる、お城の石垣のような造りになっていますが、陸側は、ゆるやかな斜面になっているようです。
もちろん、これは、日本側の兵士は、馬に乗って防塁の上から見下ろすように対峙できるし(弓も射られる)、逆に、敵側は、わずか3mであっても、馬では登れないわけで、まさに、騎馬民=元に対する、最も有効な防御方法と言えますね。
さらに、当時なら、おそらく、見渡した一帯すべての海岸にこのような設備があるとなると、その準備万端ぶりが相手にも伝わり、見た段階で威嚇する効果もあったでしょうね。
実際に、1回目の文永の役では、博多上陸を許してしまった幕府も、この後に起こる2度目の襲来=弘安の役では、その上陸さえ許さなかったところを見れば、やはり、それなりの効果があったという事でしょう。
さらに時宗は、防塁以外にも、先の文永の役で活躍した御家人に恩賞を与えて、その士気の高まりを誘発したり、直属の北条一門を西国へ送りこんで、指揮命令系統を揺るぎない物にしたり・・・と、着々と準備を行います。
かくして弘安四年(1281年)6月6日・・・再び元軍が博多湾に侵入し、弘安の役!!
となるのですが、その前半のお話は、6月6日【第2次蒙古襲来~弘安の役】でどうぞ>>
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コメント
おー!
いつも電車で通勤してるところです。
JR筑肥線・下山門駅(しもやまとえき)ですね。
海水浴などにいくと松林の中に突然石垣が姿を現します。
ご協力できる取材があればなんなりと。
茶々さんの手足となりますですよ。はい(笑)
投稿: よっすぃー | 2011年3月10日 (木) 16時38分
よっすぃーさん、こんばんは~
そうですか…
お近くだったのですね~ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2011年3月10日 (木) 17時47分
蒙古襲来がなかったら、幕府の負担も少なかったかもしれません。2回も神風が吹くなんて信じられませんが。信じていた人多いと思います。児童書の「北條時宗」は、そんな感じです。
投稿: やぶひび | 2011年3月10日 (木) 20時29分
やぶひびさん、こんばんは~
児童書だと、原因不明のままでは終われないでしょうし、史料に「神風」のような事が書かれている場合は、やはり、そんな感じになるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年3月10日 (木) 23時48分