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2011年3月18日 (金)

謎が謎呼ぶ柿本人麻呂

 

養老四年頃(720年頃)の3月18日、歌聖と称される三十六歌仙の一人・柿本人麻呂がこの世を去りました。

・・・・・・・・

養老四年頃(720年頃)という曖昧さのワリに、3月18日という日づけでの記載というのも何なんですが、実は、明石柿本神社にて、月遅れの4月18日に例祭が行われる事から、3月18日柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ・人麿・人丸)の忌日とされていますので、本日書かせていただきます。

Kakinomotonohitomaro500 と言っても、柿本人麻呂は・・・
どこの誰だか知らないけれど、誰もが知ってる謎の人・・・

人麻呂がこんなに有名なのも、のちの勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう・天皇の命で作られた国の公式歌集)古今和歌集の序文で、編さん者のひとりである紀貫之(きのつらゆき)「歌の聖(ひじり)」と絶賛するからで、

その称号にふさわしく、あの『万葉集』には、人麻呂の歌が80首も採用されています。

『万葉集』は、5世紀から8世紀後半までに詠まれた歌・4500首以上を集めて、大伴家持(おおとものやかもち)(8月28日参照>>)が編さんしたとされる天平時代成立の歌集ですが、その中には詠み人知らず(作者不明)が含まれていますので、何人の歌が・・・という事はわからないものの、「一人の人の歌が80首」というのが、かなりの数である事は想像がつきますね。
(まぁ、一番多いのは家持本人=473首なんですが(゚ー゚;結局、自分かい!…と言いたいが、数が多いので編者だろう?とも言えるので)

とにもかくにも、草壁皇子(くさかべのみこ・天武天皇の息子)高市皇子(たけちのみこ・同)など、複数の重要王族の死に際して、その死を惜しむ歌を奉ってるところから、8世紀初頭には、宮廷の公式な場で、天皇あるいはそこにいる全員の気持ちを代弁して歌を詠む宮廷儀礼歌人であった可能性が高い人麻呂ですが、そんな有名歌人であるにも関わらず、人麻呂の名前は『日本書紀』『続日本紀』といった国家の正史にはまったく登場しない・・・

ゆえに、人麻呂の人物像は、その『万葉集』に残された歌から推理するしかなく、1000年以上たった今でも、謎が謎呼ぶ展開となっているわけです。

この謎解きは、かなり昔からの学者の関心事であったと見え・・・

  • 官位が五位以上の人物なら、必ず任官が正史に記録されているはずだから、正史に記録がないという事はそれ以下の下級官人であった
  • 都だけではなく、讃岐(さぬき・香川県)筑紫(つくし・福岡県)などの地方を訪れた、あるいは実際に住んでいたと思われる歌を詠んでいるので地方に派遣された役人かも知れない。
  • 人麻呂が「死に臨んで詠んだ」との詞書(ことばがき・歌の説明)のある歌は石見(いしみ)の歌なので、離島か内陸部かは不明なれど、石見付近で亡くなった可能性が高い

などという事が、すでに江戸時代の研究で成されています

しかし、上記の中の「下級官人」って事について、かの古今和歌集の序文での紹介では「高位の官吏」とされている事や、万葉集から見る人麻呂の行動(けっこう高貴な人と交流してる)などと矛盾しているとの指摘もされてきました。

そこで、近年になって登場してきたのが、梅原猛氏が『水底(みなそこ)の歌』で展開した「人麻呂=死刑」説・・・

人麻呂が何か政治的な事件に関与して、政治犯として石見に流され、そこで死刑となった・・・当時の習わしとしてあった「罪人は変名する」という罰則のもとで「名前を変えられ、正史には別の名前で書かれているので、人麻呂としては登場しないのだ」という説です。

確かに、以前も書かせていただいた道鏡事件で一旦流罪となった和気清麻呂(わけのきよまろ)別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)に、姉の広虫別部狭虫(わけべのせまむし・さむし)に変えられています(2月21日参照>>)

清麻呂の場合は、道鏡が失脚した後に表舞台に返り咲きますので、清麻呂の名前が残りますが、流罪のままだったら穢麻呂の名前しか残りませんからねぇ~。

そこで氏は、正史に登場する柿本佐留(かきのもとのさる)という人物が人麻呂・その人であろうという推理を立てています。

清いが穢(きたな)いに、広いが狭いに変えられるなら、人が佐留(猿)に変えられるのも納得かも・・・

さらに、その佐留関連から、やはり大歌人と称されながらも謎の人物である猿丸太夫(さるまるだゆう)が人麻呂ではないか?とも言われていますが(4月18日参照>>)、そのページにも書かせていただいたように、古今和歌集序文には二人ともの名前が登場という矛盾・・・

一方では、その佐留という人物自体が、人麻呂の兄とする説もありますので、まだまだ謎は解けそうにはありません。

また、最後に死刑となったという推理から、さらに発展し、あの「いろは歌」の作者ではないか?という説も登場(12月10日参照>>)・・・

そんなこんなの人麻呂さんですが・・・
私個人的には、おそらくは、その経歴を末梢されたであろう現在の彼の姿が、いかにも人麻呂らしいと思えてなりません。

それは、万葉集に残された歌を見る限り、人麻呂という人は、
公的な場では、いかにも儀礼的に歌を詠む宮廷歌人であり、私的な場では、いかにも抒情的に繊細な心の内を歌う詩人・・・つまり、プロ中のプロのような人だと想像するからです。

たとえば、『柿本人麻呂歌集』に残る、こんな歌・・・

♪たらちねの 母が手放れ 斯(か)くばかり
 為方
(すべ)なき事は いまだ為(せ)なくに ♪
直訳すれば
「母の手を離れてからこのかた、こんなにどうしようもない事に出会った事はない」

って事ですが、
つまりは、うら若き未だ少女のような娘が初めて恋をして、
「こんなに切ないなんて、いったいどうしたらいいの」
と、戸惑い悩む気持ちを、当人の少女として歌っているのです。

これが、あまりにも「オッサン作」をイメージし難い事から、この歌は、後世に、柿本家の子孫が勝手に歌集に収めた物ではないか?とも言われますが、『柿本人麻呂歌集』には、他にもこのような歌が複数あり、その時々によって、オッサン人麻呂は、大人の女になったり子供になったり・・・

1首や2首ならともかく、けっこう多くの別人の歌を、子孫と言えど、勝手に歌集に加えたりしないでしょうから、やっぱり、これらは人麻呂の作なのでしょう。

つまり、人麻呂という人は、自分の気持ちを歌にのせて歌うだけでなく、他人に提供する曲を作るようなプロの作詞家なのです。

プロなれば、その作品こそが自分の顔・・・

そんなプロフェッショナル人麻呂なら・・・
「俺の人生なんかどうでもいい!作品を見てくれ!」
と言いそうな気がしてなりません。
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コメント

ずっと昔、明石天文台に行った事があります。近くに人麻呂神社がありました。明石、須磨と聞くと光源氏の事を思います。流人だったのでしょうか。
井沢元彦の「猿丸幻視行」も人麻呂の子孫が出てきますね。

投稿: やぶひび | 2011年3月18日 (金) 15時58分

やぶひびさん、こんにちは~

>井沢元彦の「猿丸幻視行」

謎解きは良い題材になりますから…

投稿: 茶々 | 2011年3月18日 (金) 16時01分

死去した時に70歳くらいであったと思われるため、後年の肖像画とかでは老人の姿ですね。「柿本」姓の人が後の時代にいないので、架空の人物の説もありますね。

余談ですが、大河ドラマで文化人が主人公にならない事に小さな疑問を感じております。
有名な「文化人」はおおむね江戸時代に集中しているので難しいんでしょうね。

投稿: えびすこ | 2011年4月 3日 (日) 08時55分

えびすこさん、こんにちは~

やはり、文化人は、人生の波乱万丈感が少ないからでしょうかね?

海北友松なんて、なかなか良い気もしますが…

投稿: 茶々 | 2011年4月 3日 (日) 16時20分

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