末梢しきれなかった記紀神話の真と偽
天武天皇十年(681年)3月17日、天武天皇が「日本書紀」の編さんを命じました。
・・・・・・・・・・
以前、『古事記』が、第40代・天武(てんむ)天皇の
「稗田阿礼(ひえだのあれ)なる人物に、『帝皇日継(ていおうひつぎ・帝記)』と 『先代旧辞(せんだいのくじ・旧辞)』を覚えさせ、それを書きとめよ」
という命によって、太安万侶(おおのやすまろ)が編さんして、第43代元明天皇の時代に献上した・・・というお話をさせていただきました(1月28日参照>>)。
そして、この『日本書紀』も、その企画発案をしたのは天武天皇・・・
その基となった史料は、上記の『帝記』と『旧辞』のほかに、豪族たちに伝わる史料や各地に残る伝承、朝廷にある宮廷の公式記録や寺院などの記録、果ては『百済記』『百済新撰』『百済本記』など、外国の史料も含まれていると言います。
それを川島皇子(かわしまのみこ)ら王族6人と、中臣大嶋(なかとみのおおじま)らの官人6名の計12名によって、40年近くかかって編さんされました。
『古事記』同様、途中で天武天皇は亡くなり、その息子の舎人(とねり)親王が編さんの最後の仕上げをして第44代元正天皇の時代・・・養老四年(720年)4月21日に完成しました。
そんな『古事記』&『日本書紀』は、ともに天地の始まりから神々が誕生し、地上へと降臨・・・その神々の系譜が現在の天皇に受け継がれるまでの事がまとまられていますが、文体や対象年代、内容のはしょり方で、それぞれ違う目的があったものと思われます。
『古事記』は、神話の時代の出来事を物語風に書くことに重点を置き、その文体は、日本語を漢字の音で表す、いわゆる万葉がな・・・この事から、『古事記』は、国内向けに天皇家の正統性を記した物と言われています。
一方の『日本書紀』は、出来事を時系列で表す中国の歴史書にならった構成で、しかも文体は漢文・・・なので、コチラは外国に読まれる事を想定して記した日本の歴史の紹介といった感じでしょうか。
ただし、『日本書紀』によれば、
「推古天皇二十八年(620年)に、聖徳太子や蘇我馬子(そがのうまこ)によって編纂されたとされる『天皇記』や『国記』の方が、もっと古い史書であったが、皇極天皇四年(645年)に起こった乙巳(いつし)の変(6月12日参照>>)で燃えてしまった」
という事で、それまでの歴史書を再編=リニューアルした事になってます。
そうです。
以前、書かせていただきましたね。
「天武天皇から日本の歴史が始まる」と・・・(2月25日参照>>)
実は、それまで大王(おおきみ)と呼ばれていたこの国の王を「天皇」と称するようになったのも、対外的に倭(わ)と呼ばれていたこの国を「日本」としたのも、天武天皇の時代とされています。
そんな天武天皇が、歴史書の編さんを・・・
つまり、天ができ、地ができ、そこに出現した神々が国を造り・・・そんな偉大な神々の血を引くのが天皇であり、だからこそ、この国を治めるのにふさわしいのである!
と、現天皇の統治を正統化し、それを国内外に向けて発信するのが、記紀の最大の目的と言えるかも知れません。
注目したいのは、神々からの直系で初代天皇とされる神武天皇・・・
記紀の編さんを命じたのが天武で、初代の天皇が神武・・・しかも、その神武天皇の御名は神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)。
この「いわれびこ」という名前が、天皇がいかにして大和(奈良県)で即位する事になったのか?という謂われ=由来を物語る役割をしている人物という事なのではないか?との解釈もできなくもない・・・
そして、そんな由来を示す神武天皇が、かの天武天皇と、けっこうなキャラかぶり・・・
実は、神武天皇は、東征の際、一旦難波から上陸するも、長髄彦(ナガスネヒコ)に敗れ、大きく迂回してから大和を目指しますが(2月11日の中盤参照>>)、天武天皇も壬申の乱の時に、大きく迂回をしてから近江(滋賀県)を目指しています(6月25日参照>>)。
また、途中の熊野でピンチになった時、神武天皇は天照大神(アマテラスオオミカミ)の使いとされる者に助けられたとされていますが(同上>>)、天武天皇も決戦に挑む前にアマテラス=太陽神を遥拝(ようはい・はるかに拝む事)しています(同上>>)。
これは、天武天皇が勝利を願って、初代の神武天皇と同じ行動をした・・・というよりは、その反対で、天武天皇が勝利した壬申の乱の時にとった行動を、神武天皇にさせる事で、わざとキャラをかぶらせる・・・
つまり、神様の直系で、最初の天皇になった偉大な人物と、天武天皇をダブらせる事によって、天武天皇がいかに偉大で正統性があるかを見せつけるといったところでしょうか。
ゆえに、記紀神話は、天武天皇の系統の天皇が、日本という国を統治するために作成された作り話として、教科書には、その成立は載っても、物語の内容が載る事は、ほとんどありません。
しかし、これを、まったくの作り話として一蹴してしまって良いのでしょうか?
・・・というのは、記紀の違いで、個人的に最も気になる個所・・・出雲神話のくだりです。
『古事記』では、須佐之男命(スサノヲノミコト)の6代目の孫として登場し、『日本書紀』では素戔鳴尊(スサノヲノミコト)の子として登場する大黒さん事=大国主神(オオクニヌシノカミ)・・・
ブログにも書かせていただいた様々な試練を受けて成長していく話(12月21日参照>>)や有名な因幡の白ウサギの話で、出雲神話の主役とも言えるのが、このオオクニヌシ・・・
しかし、上記のお話は『日本書紀』には登場しません。
もちろん、この後に、アマテラスの孫・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト)が降臨する前に、これまで治めていた葦原中国(あしはらのなかつくに・日本の事)を、その天孫に譲るという「国譲り」のシーンでは、オオクニヌシは登場しますが・・・
私は、この違いを、対外的にはある程度スルーできる話だが、国内的にはスルーする事が不可能だった話と考えているのですが・・・
なんせ、このオオクニヌシは、天孫が来る以前に、この日本を統治していた別の国の王・・・本来なら、できるだけオオクニヌシを小者扱いしてスルーしたかった話じゃなかったのかな?と思います。
しかし、この話は、国内ではすでに有名な言い伝えとなっていたため、国内的に発信する『古事記』で、その話をはしょると、いかにも作り話的になってしまうので、一応載せた・・・
でも、対外向けに発信する『日本書紀』には、いらない話として排除したって事だと・・・
もし、そうなら、これと同じような扱いをされているお話が、まだいくつか存在するのでは?
一見、天武天皇を正統とするための作り話・・・しかし、そこには、末梢したくてもしきれなかった本当の歴史が散りばめられている・・・
しかも、対外向けと国内向けにはしょり方、散りばめ方を変えてある・・・
今残る記紀神話の中で、どこが本当なのか?
また、なぜ、その部分を残したのか?
また、隠したい部分は何だったのか?
それらを推理する事で、神代の頃の歴史が浮かび上がると同時に、成立した時代の歴史も読み取れる・・・
まさに、点と線を結ぶ推理・・・わくわくしますね(*゚▽゚)ノ
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コメント
>「稗田阿礼なる人物に、~を覚えさせ、それを書きとめよ」
ここが一番気になります。
“覚えていた”ではなく、“覚えさせた”
どういうことでしょう?
直接書きとる事ができない理由は何でしょう?
-------(妄想中)--------
Σ(゚д゚;)...まさか言葉が違う?
通訳が必要だったなんて、あり得るでしょうか?
投稿: ことかね | 2011年3月17日 (木) 17時29分
ことかねさん、こんばんは~
う~ん、
やっぱり、『帝記』と『旧辞』という文献が、そこになかったって事じゃないでしょうか?
あるなら、太安万侶が、そのまま書き写せばいいわけですから…
あるいは、一旦読ませた後に聞いて書くという事は、「間違ってるかも知れないよ」って事で、いわゆる「事実をもとにしたフィクションです」という感じにしたいのかも
投稿: 茶々 | 2011年3月18日 (金) 01時03分
>茶々様
やはり突飛過ぎたようで、引かれてしまいましたね。(笑)
“そこにない”も考えたのですが、それだとさらに疑問が増えるんですよね。
我ながら変なところに喰い付くな、と呆れますが、
「意外と深いぞこの迷宮」と、楽しく頭の中を妄想が三つほど同時進行中です。(眠い)
投稿: ことかね | 2011年3月19日 (土) 13時47分
ことかねさん、こんにちは~
いえいえ
>言葉が違う?
ってのもあり得るかも知れません。
「『万葉集』を朝鮮語で読むと…」
みたいな本も出てるくらいですから、当時の大陸との関係は切っても切れないでしょうし、日本人のルーツが騎馬民族なら、先住民の言葉が違っていたかも知れませんしね。
この迷宮は、入ったら抜けられませんね~
投稿: 茶々 | 2011年3月19日 (土) 15時42分
記紀は地理などはかなり正しいと思います。
神武東征と言う最も創作っぽい記述でも河内湾や瀬戸内海の地理が非常に現実に沿って書かれていること。
また空想の存在と言われた出雲での異常なほど大量の鉄剣発掘などでも出雲という地理の記述はある意味正しかったわけです。
任那と記述された朝鮮半島南部の地域からも前方後円墳や勾玉の発掘などで倭が朝鮮半島南部に何かしら影響を持っていたと言うのも正しかった。
記紀が何故今もって古代史で第一級資料かと言うと、年表や事績の記述よりも地理の記述がほぼ確実だからでしょうね。
投稿: クバ | 2014年9月23日 (火) 11時37分
クバさん、こんにちは~
そうですね。
現段階で記紀以外の一級史料が無い以上、その記述と遺跡の発掘を照らし合わせて解明していくしか無いですね。
古代史は謎に満ちていてオモシロイです。
投稿: 茶々 | 2014年9月23日 (火) 17時32分
初めまして。
柿本人麻呂の関連でヒットして寄らせていただきました。
日本書記によるよって歪められた歴史の真実を取り戻したいと思ってブログを書いています。
これからも参考にさせていただきたいと思います。
どうぞよろしく。
えいきち
投稿: えいきち | 2014年10月25日 (土) 14時33分
えいきちさん、こんにちは~
記紀の時代は史料が少ないですから謎も多いですね。
また、お暇な時にでも、ご訪問くださいませo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2014年10月25日 (土) 17時00分