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2011年3月27日 (日)

日露戦争・旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫

 

明治三十七年(1904年)3月27日、日露戦争の第二次・旅順港閉塞作戦でのエピソードで知られ、戦前には「軍神」と称された海軍中佐・広瀬武夫が戦死しました。

・・・・・・・・・・

明治三十七年(1904年)2月4日、宮中御座所にて、大臣・元老の列席のもと開かれた御前会議で、ロシアに対する国交断絶と開戦を意味する最後通牒が、外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)から、駐日ロシア公使・ローゼンに手渡された・・・つまり、日本からロシアへの宣戦布告という形で開始された日露戦争・・・(開戦までの経緯については2007年2月10日参照>>)

早くも2月6日・・・戦闘状態に入り、2月8日には、陸軍と海軍による旅順港・仁川沖の同時海戦にて火ぶたを切ります。

しかし、開戦早々に、仁川(じんせん)に上陸を果たし、ほぼ一方的な勝利をおさめる陸軍に対して、連合艦隊を主力に持つ海軍は苦戦を強いられていました(2月9日参照>>)

Nitirotizucc
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・というのも、旅順港は鉄壁の要塞・・・チョロチョロっと港を出てきたロシア艦隊に対し、至近距離から砲撃を加える連合艦隊ですが、港に近付いて、その射程距離内に入れば容赦なく、旅順要塞に設置された大砲が、艦隊めがけて火を吹きます。

それを承知のロシア艦隊は、チョロチョロと港を出て来ては、大きく離れる事もなく、しばし交戦しては、30分もたたないうちに港内に戻ってしまう・・・これのくりかえしです。

2月14日にも、連合艦隊は大規模な攻撃を仕掛けますが、ロシア側が港を出ない以上は、結局は要塞からの攻撃を受ける事になり、日本側は、それ以上手出しできません。

「これでは、らちがあかん!」
とばかりに、決行される事になったのが、『旅順港閉塞(へいそく)作戦』・・・

狭い旅順港の入口に、錘(おもり)を満載した古い船をわざと沈めて、湾口を塞いでしまおうというのです。

そもそも、ロシア艦隊がチョロチョロと出てきては戻っていくのも、現在、湾内にいるロシア太平洋艦隊を温存したいがため・・・ロシアには、未だヨーロッパにて展開中の、世界一とうたわれるバルチック艦隊がありますから、現状のままで、この太平洋艦隊がバルチック艦隊と合流するような事になっては、さすがの連合艦隊も不利・・・

湾の入り口を塞いで、太平洋艦隊を動けなくしてしまえば、少なくとも、合流する事はありませんし、湾から出られなければ、事実上、太平洋艦隊を無力化する事ができます。

こうして、まずは3月24日に最初の作戦を決行・・・その日の未明に、5隻の老朽船と77名の志願兵によって構成された1軍が旅順港に近づきますが、この時は、沿岸からの激しい砲撃に耐えきれず、作戦失敗・・・

そして、4隻に船を動員して決行された2度目明治三十七年(1904年)3月27日・・・しかし、この時も、ロシア側に事前に察知されてしまい、作戦は失敗に終わります。

さらに、5月2日には、12隻もの船を用いて、最大で最後の閉塞作戦を決行しますが、この日は天候も悪く、敵の迎撃にも遭い失敗・・・結局、この作戦が成功する事はありませんでした。

入口が狭いゆえの閉塞作戦ではありましたが、その幅がわずか約90m・・・そもそも大型の艦船が自由に動く事は困難だったのです。

結局、この旅順の攻略は、陸軍による攻撃にゆだねられる事になりますが、一方では、ロシア艦隊にも別の動きが・・・と、日露戦争のこの先については、連合艦隊による起死回生の戦いが展開されます黄海海戦8月10日のページへどうぞ>>

・‥…━━━☆

ところで、冒頭に書かせていただいた通り、明治三十七年(1904年)3月27日に行われた二度目の旅順港閉塞作戦・・・この日の広瀬武夫(たけお)少佐(死後に中佐に昇進)の、有名な逸話が残ります。

♪轟く砲音(つつおと) 飛来る弾丸
  荒波洗ふ デッキの上に 闇を貫く 中佐の叫び
  「杉野は何処
(いずこ) 杉野は居ずや」 ♪
         -尋常小学唱歌(四)「広瀬中佐」ーより引用

Hirose500 今でこそ、知る人も少なくなりましたが、戦前には、教科書にも載り、唱歌にもなった広瀬中佐・・・現在でも、出身地の飛騨高山には、彼の銅像が建っているのだとか・・・

そもそも、上記の文章を読んでいただければお解りのように、この旅順港閉塞作戦・・・作戦自体は成功しても、生還できる可能性は非常に低い、決死の作戦でした。

敵の港での作戦決行ですし、運よく船から脱出できても、猛攻撃をかいくぐって帰還しなければならないのです。

この日、閉塞船・福井丸の指揮をとっていた広瀬は、作戦の失敗後に出た撤退命令に従って航行中に爆撃に遭い、一旦は救命ボートに乗ったものの、部下の杉野孫七(まごしち)上等兵曹(死後に曹長に昇進)見当たらない事に気づきます。

慌てて船に戻り、3度にわたって船内を駆け巡り、杉野を捜しますが、やはり見つけ出せず・・・やむなく、再び救命ボートにて帰還の途についたところを、ロシアの砲撃によって、36歳の命を落としたのです。

このように、行方不明の部下を見殺しにできずに船に戻ったために戦死をした広瀬中佐も、そして、そのまま行方不明となった杉野曹長も、上記のような唱歌に歌われ、日本初の「軍神」として神格化されていきました。

とは言え、流れついた広瀬中佐の遺体はロシア側で埋葬されたものの、杉野曹長の遺体は見つからず、戦いの直後から、一部には生存説があったとか・・・

「シベリアの収容所にいる」とか、
「次の引き揚げ船で帰ってくる」とか、
「奉天(ほうてん)の中学校で講演をやった」とか、

果ては、
「関東軍の特殊機関の一員となったため、名前を隠し、死んだ事になっている」
などなど・・・

しかし、どれも話だけで、確認のとれるものではないようです。

大東亜戦争当時には、「死んでもラッパを離しませんでした」木口小兵と同様に、軍人のかがみとして子供教育の題材となっていた広瀬中佐・・・

でも、敗戦後は一転して、軍国主義の遺物と化した逸話・・・なので、現在の小学校で、このお話を教えられる事はありません。

確かに、軍国主義も、戦争を美化する事も避けたほうが良いに決まっていますが、部下を思う上司の気持ち、友人を見捨てる事のできない心は、純粋な愛情から出たもの・・・今も昔も変わらずにいたいものです。

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コメント

去年は坂の上の雲で広瀬さんが出てきていましたね。
昨日坂の上の雲を観ていて、以前友達と広瀬さんかっこいいという話をしていたのを思い出しました。
前にその友達から「広瀬武夫中佐」というようなタイトルの本を貸してもらいました。(かなり古い本で横文字が右から左に読むものでビックリしましたw(゚o゚)w)
児童向けだったのですぐ読めたのですがおもしろい本でした。
轟く砲音…… 
の歌も載っていました(o^-^o)


投稿: ティッキー | 2011年12月12日 (月) 16時21分

ティッキーさん、こんばんは~

児童向けで「広瀬武夫中佐」…
ひょっとしたら戦前の本ですかね~?
(横文字が右から左ですし)

貴重な本だったと思いますよ。

投稿: 茶々 | 2011年12月12日 (月) 22時37分

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