鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一
天正五年(1577年)3月15日、織田信長が雑賀攻めを行い、鈴木孫一ら雑賀衆が和睦しました。
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10年以上の長きに渡って、織田信長との抗戦を続けた第11代・法主=顕如(けんにょ)を中心とする石山本願寺・・・(11月24日参照>>)
あの信長が、意外にも苦戦を強いられた根底には、「戦って死ねば極楽往生できる」と信じて疑わない熱狂的な信徒による、死をも恐れぬ戦いぶりがあったわけですが、もう一つ、そこに協力した武装集団の存在も大きかった事でしょう。
その一つが、本願寺門徒が籠城する石山本願寺(現在の大阪城も場所)に、兵糧を送り込む村上水軍に代表される毛利配下の水軍・・・
第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)で、彼らにしてやられた信長は、あの鉄甲船を造り(9月30日参照>>)、2度目の海戦=第二次木津川口海戦(11月6日参照>>)に挑んでいます。
そんな水軍とともに本願寺の武力を支えたのが、雑賀(さいが・さいか)衆の大量の鉄砲と、それを巧みに操る射撃技術でした。
雑賀衆というのは、紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団の事・・・当時の紀州(和歌山県)には、一応、畠山氏という立派な守護がいたわけですが、こうした土着の人々の勢力が大変強くなり、もやは守護も名ばかり・・・高野山や根来(ねごろ)寺といった宗教勢力や、雑賀衆のような勢力が、それぞれに自治をする無政府状態のようなものでした。
・・・で、そんな紀州で雑賀衆が支配していたのが、雑賀庄(さいかのしょう)・十ヶ郷(じっかごう)・宮郷(みやごう)・中郷(なかつごう)・南郷(なんごう)といった場所で、現在の和歌山市から海南市あたりが、そうだったようです。
とは言え、この雑賀衆も、揺るぎない鉄の集団とは言い難く、いくつかの集団に分かれていたようです。
そこには、上記の地域の中でも、農業に適した土地で、その生産力によって経済基盤が確立されていた場所と、そうでない場所があった事で、多少なりの亀裂が生じていたのです。
それで、農業に適さない地域の人たちは、その収入源を交易で得るという方法とり、遠く中国にも出掛けて行ったのだとか・・・
そのおかげで、造船技術は水軍となれるまでに発達し、いち早く鉄砲に着目する事にもなり、自力で鉄砲の生産をするとともに、幼い頃から、その扱い方を学ぶようにもなったのです(7月8日参照>>)。
そんなプロの鉄砲集団に目をつけたのが本願寺顕如・・・
そして、これまで雑賀衆と言えば、土橋平次(つちはし・どばしへいじ)の土橋家であったのが、この石山合戦において、一躍、名を挙げてくるのが、ご存じ、鈴木孫一(まごいち・重秀)です。
未だ続く石山合戦・・・様子見ぃの和睦が破られた天正四年(1576年)5月3日、あの天王寺合戦に登場した雑賀の鉄砲集団は、本願寺の敗色が濃くなった中にて数千挺の一斉射撃を行い、戦況を逆転させたのだとか・・・(5月3日参照>>)。
この5月3日だけでなく、しばらくは砦や城戸を取ったり取られたりする天王寺合戦は、信長方も本願寺派も、双方に勝利を主張する合戦で、その勝敗は明らかではありませんが、もちろん、この時に雑賀衆を率いていたのが孫一だったわけで、このあたりから、信長も、そして、世間一般も、雑賀衆の大将は孫一という認識ができて来ていたようです。
・・・というのも、この戦いで勝利したと主張する信長側は、孫一の首と下間頼廉(しもま・しもつまらいれん)の首を討ち取ったとして、京都でさらし首にして、それが大評判となったという事があったのだとかで・・・
もちろん、本当は孫一も頼廉も生きていたわけで、ニセのさらし首をおっ立てて、信長勝利の宣伝に使ったという事なわけですが、当時の公家の日記にも、「大坂の左右の大将」として孫一と頼廉の名が見えるところから、やはり、この時点で、それほどに、孫一の名が有名になっていたという事なのでしょう。
その頃の雑賀に、いったいどれほどの鉄砲と、その使い手が存在したのかはよくわかりませんが、その後も、本願寺顕如は、500・1000といった単位で、度々鉄砲衆の救援を求めたりしていますので、おそらくは、相当な数のプロスナイパーがいたものと思われます。
そんな彼らに対して、信長が脅威を抱かないはずはありません。
「雑賀の鉄砲集団を倒さなければ、石山本願寺には勝てない!」と考えるのは当然の事・・・
信長の雑賀攻め・位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
かくして天正五年(1577年)2月22日、先に手をまわして、孫一の十ヶ郷とは仲良くない宮郷・中郷・南郷の3郷の雑賀衆の大部分を味方につけた後、もともと信長寄りだった根来衆の協力も取り付けた信長は、10万ほど(これは盛りすぎ)の大軍を率いて紀州に攻め込んで来たのです。
その大軍を2手に分け、海側&山側の両方から織田軍は進撃を開始・・・まずは海側を行く浜手が孝子峠(きょうしとうげ=大阪府泉南郡岬町と和歌山市の境)を越えて、雑賀方の中野城(なかのじょう=和歌山県和歌山市)を、さらに平井城(ひらいじょう=同和歌山市)へと迫ります(浜方の戦いぶりは:2月22日参照>>)。
一方の孫一は、数千ほどだったとか・・・
しかし、彼には秘策がありました。
内陸を進む織田軍の山方を迎え撃つべく、本願寺紀州御坊のあった和歌浦(わかのうら)近くの弥勒寺山(みろくじさん)の山頂に、城や砦を築いた孫一は、眼下を走る和歌川に策を講じます。
この和歌川は、比較的底の浅い川・・・
「おそらく、信長軍の先鋒は一気に馬で川を渡って攻め込もうとするに違いない」
と考えた孫一は、その川底に無数の桶を埋め込んだと言います。
案の定、一気に突入しようとした信長勢・・・見た目が浅い川であるはずなのに、川の中ほどまで来ると、なぜか馬の足が取られて前へと進めない・・・そうなると、もちろん、後続の騎馬隊も、そこで渋滞するしかないわけで・・・
そこに、軍扇を開いて、「撃て!撃て!」と小躍りしながら叫ぶ孫一・・・プロ集団に狙い撃ちされた騎馬隊は、次々と鉄砲の餌食になったと言います。
『信長公記』によれば、この他にも孫一は、馬防柵(まぼうさく・馬よけの柵)も構築していたとか、
『陰徳太平記』では、あの鉄砲の3段構えも行っていたとか、と言われるほどよく戦った孫一の雑賀衆・・・
しかし、さすがに数の違いは歴然・・・孫一側にもかなりの犠牲者が出て、もはや時間の問題かと思われたところ、一帯には、「毛利軍が救援に駆け付け、後方から信長軍を挟み撃ちにする気配がある」との噂が流れます。
さすがの信長も、そうなってはマズイとばかりに、孫一側に和睦を持ちかけ、孫一もそれを承諾・・・天正五年(1577年)3月15日、今回の戦いは、引き分けという事になりました。
その夜には、信長方、孫一方、両方が「勝利した」として、その美酒に酔ったとか・・・
合戦で負傷した孫一は、痛い足を引きずりながらも、大喜びで踊ったとされ、それが、現在、紀州東照宮の和歌祭(5月第2日曜)で継承されている雑賀踊りなのだとか・・・
とは言え、あのルイス・フロイスの『イエズス会日本年報』には、「信長は2回雑賀を攻めて2回とも失敗した」との記述もあり・・・この1日だけでなく、信長VS孫一の戦いは、まだあったのかも知れません。
なんせ、この後も、孫一は、本願寺に味方して戦っていますから・・・
孫一が、信長の家臣となるのは、その本願寺顕如が信長と和睦して、石山合戦が終結してから・・・しかし、その後、1年と経たないうちに、信長が本能寺に倒れてしまったために、孫一の運命も大きく変わります。(6月4日参照>>)
結局、わずかの仲間とともに故郷を脱出する事になりますが、それからのお話は、5月2日
【重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】でどうぞ>>。
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