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2011年3月 9日 (水)

負けるたびに強くなる…浅井亮政の底力

 

大永三年(1523年)3月9日、近江大吉寺梅本坊で行われた京極高清の後継者会議をきっかけに、浅井亮政らが京極氏に反旗をひるがえしました。

・・・・・・・・・

おそらくブログ初登場の浅井亮政(あざいすけまさ)さん(名前くらいは出てたかも(゚ー゚;)・・・

Azainagamasa600 ご存じ、北近江(滋賀県北部)にその名を誇った戦国大名の浅井氏は、この人から・・・今年の大河ドラマの主役=お江さんの父=浅井長政おじいちゃんですね。

『浅井三代記』によれば・・・

若き日の亮政は、
「戦国の乱世で次々に入れ替わる権力者・・・しかし、その誰もが、権力さえ握れば、困窮にあえぐ民衆の事なんかそっちのけで、その栄華に酔いしれ、自らの利益しか考えず、政治は乱れるばかり・・・

傾く一方の国を、いつかその掌中に治め・・・いや、せめて、一国一城の主(あるじ)となって、主君を補佐しながら政治に関与できる立場になりたい」
と、霊験あらたかな浄信寺(じょうしんじ・滋賀県木ノ本町)大地蔵菩薩に度々祈願していたのだとか・・・

その主君というのは、冒頭に書かせていただいた京極氏です。

京極氏は、鎌倉時代以前から近江に根を張る近江源氏(おうみげんじ)と称された佐々木氏の流れを汲む近江守護の家系・・・浅井氏は、その京極氏に応仁の乱以前から仕えていた譜代の家臣根本被官(こんぽんひかん)でした。

亮政は、そんな浅井氏の、さらに分家の出身でしたが、本家の浅井直政の娘・蔵屋(くらや)の婿となり、何とか出世の糸口をつかみ始めます。

そんな時期に起こったのが京極氏の後継者争いでした。

当時の京極氏の当主は、京極高清(きょうごくたかきよ)という人物でしたが、この高清が、なぜか長男高広(たかひろ・高延)を嫌い、次男(養子説あり)高慶(たかよし・高吉)に後を継がそうとした事から、戦国前半期=群雄割拠時代おなじみの後継者争いが勃発するのです。

次男の高慶を推すのは、
もちろん父の高清と重臣の上坂信光(こうさかのぶみつ)ら、
一方の長男=高広を推すのは、
近江の国人衆の浅見貞則(あさみさだのり)を筆頭に、その浅見氏や、三田村氏などの国人衆・・・

京極氏が真っ二つに分かれてしまったのです(8月7日参照>>)

そこで大永三年(1523年)3月9日の近江大吉寺(だいきちじ)梅本坊での後継者会議・・・となるのですが、当然の事ながら会議は紛糾!!

・・・で、この会議をきっかけに国人たちによるクーデターが発生!・・・もちろん、我らが亮政さんは国人衆の一員として、このクーデターに参加します。

国人一揆と化したこのクーデターにより、信光は失脚し、高清らは尾張国(愛知県西部)へと逃れました。

こうして、京極氏は高広が継ぐ事になりましたが、もはや実質的な力は国人衆のほうが上・・・この後の高広は、国人衆の意のままの存在となってしまうのです。

そんな国人衆のトップは、やはり浅見氏の貞則・・・彼が一歩抜きん出ていて、その他の国人衆は、ほぼ一線で、亮政も特別目立つ存在ではありませんでした。

しかし、ここで、やはり亮政が憂いた通り・・・権力を握った貞則は、その権勢をふるいはじめ、自分たちの身内による横暴を極めていくのです。

さぁ、いよいよ亮政が頭角を現す時がやってきました。

主君・京極氏の横暴でさえ許せない彼が、少しは力が上とは言え、同じ国人の貞則の横暴を許せるはずがありません。

まずは、自分自身の足場を固めるため、天然の要害であり、かつ湖北3郡を眼下にできる険しい山麓=小谷山(おだにやま・滋賀県湖北町)城を構築し、本拠を構えます・・・もちろん、これが、あの小谷城ですよ!

かくして、クーデターから2年後、かつては敵対し、自らが尾張へと追放した高清を帰国させて旗印とし、あの信光とも連絡を取って、今度は、貞則と高広を相手に戦いに挑んだのです。

この時、亮政に味方してくれたのは、地元の国人衆・・・彼らの支持を得て、亮政の勢力は、徐々に拡大していきます。

しかし、これをヨシとしなかったのが六角定頼(ろっかくさだより)・・・六角氏は、京極氏と同じく近江源氏佐々木氏の流れを汲む南近江の守護で、むしろ、コチラが佐々木氏の嫡流・・・

京極氏より、力を持ちつつあった亮政を、そのままにしておけなかったのでしょう・・・こして始まった六角氏の関与は、亮政に同調する三田村氏の切り崩しから始まり、やがて、本拠の小谷へと進攻してきますが、ここで、決起したのが、南近江の反六角氏派の国人衆・・・

しかも、その後、美濃(岐阜県)斉藤氏までもが亮政を支援した事で、一旦は、和睦を提案した定頼でしたが、結局、それはすぐに崩れ、再びの攻撃・・・敗れた亮政は、今や主君となった高清を連れて、美濃へと逃れます。

この時、亮政らを助けようと援軍を派遣したのが朝倉氏だったとして、浅井・朝倉のなかよし関係はここに始まる・・・とも言われていますが、最近は異説もあり、今後の研究に期待したいところです。

ところで、本日の主役の亮政さん・・・実は、この後の合戦には、ことごとく負け続けます。

斉藤氏の支援を受けて、湖北へと戻る事に成功した後も、六角氏と結んだ高慶&信光との戦いが複数回あり、さらに、最終的に和睦した京極父子を看板に、執権として実質的に北近江を支配するも、その名前だけの地位に嫌気がさした京極父子とも、もちろん、六角氏オンリーとの戦いも・・・
  ●箕浦合戦>>
  佐和山合戦>>

とにかく、一度も勝てません。

ところが・・・です。

なぜか、彼は、負けるたびにその勢力圏を拡大していくのです。

実は、ここに来ても、亮政を支持してくれていたのが、地元の国人衆・・・

千差万別の思いで地元に生きる国人たちを一つにまとめ、たとえ戦いに負けても、いや、負けたからこそなお、その団結力をより強固な物にしていき、その信頼を一身に受けていくのです。

そこには、あの若き日の亮政の思い・・・「権力を握った者は、自らの保身のためではなく、困窮する民衆のためにこその政治手腕をふるうべきである」

そんな亮政の思いが、地元に根付く国人たちに、ひしひしと伝わっていたからではないでしょうか?

夢半ばの天文十一年(1542年)1月6日に、亮政は52歳の生涯を閉じ、結局は、完全に京極氏を管理下に置いた戦国大名としての浅井氏が誕生するのは、彼の息子&孫の時代になってからではありますが、その信念は、孫の長政にも、そして、あの浅井三姉妹にも受け継がれていたはずです。

だからこそ!!の思いがあって、一昨日の大河ドラマの熱い感想(3月7日の前半部分参照>>)になってしまったわけですが・・・

しつこいようですが、そんな浅井家だからこそ、自分たちが安全な所にいるからと言って、領民の事をいっさい考えもしないで長浜城の制圧(12月11日参照>>)を無視するがのごとく、ただただ「戦争反対!」を声高に叫ぶような流れになっていた大河が、許せないと思ってしまった次第です。
(あくまで個人的な思い入れによる感想+浅井家をかっこよく書きすぎましたが、本日は主役なのでお許しを…(*´v゚*)ゞ)
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、こんばんは!

浅井家が近江で伸し上がった背景は、安芸での毛利家と同じように国人たちの心をつかんでいたからでしょうねぇー。
ただ、毛利が傘(からかさ)連判状のような集合体だったのに対し、浅井はもうチョット進んでいた感じです。
先年、「江北の戦国大名浅井氏展」ってのを観に行った際、3代にわたって約50年間北近江を統治した浅井亮政、久政、長政に関連する文書や絵図などが展示されていたのですが、一番興味深かったのが長政が命令や指示をした回覧形式の文書ってのがあったんですね。
現在でも企業が行っているみたいに文書回覧がなされていて、担当者→部署責任者→家老→宿老→殿様、みたく回覧されたら花押でサインされている―って感じになっているんです。浅井家の支配構造を表しているようで面白かったですよ。
中には、「浅井の殿様の言う事に間違いはないから…」って、内容も確認しないで盲(めくら)判押してる家臣(=国人衆)も入れば、回覧なしにいきなりトップ決済されてて、「オイオイ、何しとんねん!」ってもめにもめた事もあったのでは?と、そうした光景を現代風にイメージしちゃうんですが…

PS.上記に関して、TBしても宜しいですか?

投稿: 御堂 | 2011年3月 9日 (水) 19時10分

御堂さん、こんばんは~

亮政の発給文書もいくつか残っているようですね。
やはり、国人衆にとっては、我らが代表って感じだったんでしょうか。

今年は大河の影響もあって、ゆかりの地では特別展なども行われているようで…行ってみたいです。
TBありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2011年3月 9日 (水) 23時46分

今日の「週刊新潮」で番組の記事がありましたが、個人的な印象としてどうも「篤姫」以降、週刊誌は「幕末作品は高評価で戦国作品は低評価」と言うスタンスを取っているのではないのか(明確な「証拠」がないのですが、必ずしも当てはまらないと言う人がいれば幸いです)と、このところ勘ぐっております。週刊誌で活字になるとちょっと戸惑います。大河ファンとしては公平に欠くと思うのです。
新潮の記事は大絶賛された篤姫と同じ脚本担当者なのに、番組の内容や場面への意見ではなく、出演者を冷やかすとも受け取れるタイトルの文面には「おいおい」と言ってしまいました。演じる俳優は「それは承知」なので、俳優には落ち度はないです。でも視聴者はNHKに意見はしても、主演交代や番組打ち切りを望んではいません。
最近の芸能評論家の人は、大河主演俳優に対してのハードルが少し高いのではないかとも考えます。すみません。今日は番組に対しての私見が多くなって(詫)。m(_ _)m

投稿: えびすこ | 2011年3月10日 (木) 17時55分

えびすこさん、こんばんは~

私も「篤姫」は好きでしたが、今のところの「江」は、ちょっとツッコミたくなりますね。

同じ脚本家の方でも、時代によって得意・不得意があるのかも知れません。

今後の展開に期待します。

投稿: 茶々 | 2011年3月10日 (木) 23時39分

ふと思ったんですが、「当事者」とも言える登場人物の末裔の方が、「番組内の場面が史実とは違う」等の抗議をNHKにした・しているとの話を聞いた事(あれば新聞記事で載ります)があまりないです。そうなると一般視聴者よりも、末裔の人達の方が温かい目で番組を見ているのでは、と感じます。
過去に前例がないと思うんですが、もしも特定人物の末裔に配慮するのならば、(その人物のライバルと比較して)人物像が二極化しますね。あと歴代の大河ドラマ脚本担当の人は、少なからずクレームが出る・来る事を、放送前から承知して書いていると思います。これは俳優の責任ではないので。

投稿: えびすこ | 2011年3月12日 (土) 11時05分

えびすこさん、こんにちは~

そうですね~子孫の方のお話は、あまり聞きませんね。

伊達政宗の子孫の方が家紋を登録商標にしていて、「大河ドラマ内(ゲーム等でも)で使用するのしないの」と大変だったという話や、最近では中原中也のご子孫の商標権みたいな話はありましたね。

投稿: 茶々 | 2011年3月12日 (土) 15時53分

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