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2011年3月30日 (水)

仏教を否定した河内の老舗豪族=物部氏

 

敏達天皇十四年(585年)3月30日、仏教に反対する物部守屋らが、塔・仏殿を焼き、仏像を川に捨てました。

・・・・・・・

・・・と、この物部守屋(もののべのもりや)らによる仏像投げ捨て事件そのものについては、昨年の3月30日に書かせていただいておりますが(昨年のページ参照>>)、そもそもは、仏教伝来のその日(10月13日参照>>)から、仏教推進派の蘇我(そが)VS仏教反対派の物部(もののべ)という構図も出来上がっていたわけで、それが、最終的に、古代最大級の内乱とも言える合戦に発展するのですが・・・

では、なぜに、
蘇我氏は仏教を推進する側に、
物部氏は、それを反対する側になったのか?

まずは、推進派の蘇我氏・・・
こちらは、昨年のページにも書かせていただいたように、この蘇我氏自身が渡来系だった可能性もあるとされています。

そもそも突然、歴史上に現われて、わずかの間に天皇の臣下のトップを獲得する蘇我氏ですから、その出自は謎だらけなのです。

ただ、たとえ蘇我氏自身が渡来系ではなかったとしても、国内には無かった新しい技術とともに大陸からやって来た渡来系の人々を束ねるような役目をしていた事は確かで、彼らと天皇家とのパイプ役という立場から、大陸の人たちが信仰する仏教を、日本にも取り入れようとするのは、言わば自然の摂理・・・その方が、より彼らと意気投合する事は間違いないですから・・・

一方の廃仏派の物部氏・・・
こちらは、古くからの天皇の臣下という立場でした。

蘇我氏がいきなり登場した外資系企業なら、こちらは何百年と続いた老舗・・・そもそもの話は、あの初代天皇=神武天皇の東征に始まります。

ご存じのように、あの高天原(たかまがはら)からこの地上に降り立った=天孫降臨(てんそんこうりん)したのが、太陽神である天照大御神(天照大神・アマテラスオオミカミ)の孫=日子番能邇邇芸命(彦火瓊瓊杵尊・ヒコホノニニギノミコト)・・・

そのニニギノミコトの孫が神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦命・カムイヤマトイワレビコノミコト)こと神武天皇で、ジッチャンが降り立った日向(ひゅうが・宮崎県)高千穂から、東の地方を征服するために、3人の兄とともに旅立つのです。

九州から船で東を目指す彼ら、途中、戦ったり、あるいは貢物を受け取ったりしながら、その土地々々の有力者を配下に治めていった神武天皇ですが、最も苦戦を強いられたのが、浪速(なみはや)から上陸してまもなくのところを待ちうけていた登美(とみ)の豪族・那賀須泥毘古(長髄彦・ナガスネビコ)でした。

・・・で、このナガスネビコが言うには、
「この国には、もうすでに天津神の御子である邇芸速日命ちゅー神が降りてきてて、俺の妹と結婚して子供までおる。
せやから、今、俺は、この神を主君として仕えてるんや。
天津神の血筋が二つあるわけはない・・・今頃、天津神の子孫やっちゅーてやって来て、他人の国を奪おうなんて、けしからんやっちゃ!」

そう、実は、この大阪から奈良にかけての河内一帯は、あの天孫降臨の少し後に、別ルートで降臨していた神様=邇芸速日命(饒速日命・ニギハヤビノミコト)が、すでに統治していたんです。

現在、大阪の枚方交野から生駒山を越えて奈良へ向かう168号線沿いには、磐船(いわふね)神社という神社がありますが、この神社のご神体は巨大な石・・・これが、ニギハヤビノミコトが天から降りる時に乗って来た天磐樟船(あめのいわくすふね)という乗り物・・・近くには、そのニギハヤビノミコトを祀った天田(あまだ)神社も存在します。

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磐船神社
*磐船神社&天田神社への行き方は、本家・HPの「歴史散歩:交野ヶ原に七夕伝説を訪ねて」で紹介していますコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

このナガスネビコの言い分を聞いた神武天皇・・・
「天津神の子って言うても、いっぱいおると思うで~
なんやったら、ホンマに神の子かどうか、その証拠見せてみ~や」

と・・・

「ならば!」
と、ナガスネビコが証拠となる宝物を見せると・・・
「なるほど・・・ホンマモンやな。けど、それやったら、これも見てみぃ」
と、神武天皇・・・実は、同じ宝物を神武天皇も持っていたのです。

驚きながらも、「もはやあとには退けぬ」戦いに突入する両者・・・

と、ここで、『古事記』では・・・
激戦のうちにナガスネビコ倒した神武天皇のところに、かのニギハヤビノミコトが、例の宝物を持参して、
「いやいや、天津神の御子が来はったて聞いて、臣下になるために参上しました~」
と、宝物を献上してあっさりと家来に・・・

『日本書紀』では・・・
「あっちが正統やから譲ろうや」というニギハヤビノミコトの説得を聞かないナガスネビコを、自ら殺して、神武天皇に忠義を誓い、臣下になったと・・・

いやはや、記紀神話では両方ともに踏んだり蹴ったりのナガスネビコさん・・・もちろん、先日も書かせていただいたように(3月18日参照>>)、記紀は、「天武天皇とその系統が、いかに日本を治めるにふさわしい一族であるか」を内外に示すための広告みたいな物ですから、そのストーリー自体は、そのまま信じられるものではありませんが、そのような過程で臣下となったとされるくらい、古くからの忠臣だった事は確か・・・

長いお話になりましたが・・・
そう、このニギハヤビノミコトの子孫が物部氏なのです。

実際に、神武天皇が建御雷神(タケミカヅチノカミ)から授かったとされる布都御魂(ふつのみたま)という神剣を宮中から預かって、それを祭神として祀った石上(いそのかみ)神宮代々の氏神として管理していた物部氏・・・

以前、履中(りちゅう)天皇が家に放火されて逃亡するくだり(2月1日参照>>)でもお話させていただきましたが、この石上神宮は、長年に渡って、神社というよりは朝廷の武器庫のような役割をしていたと見られ、その事を踏まえれば、当時の物部氏という一族は、宮中祭祀と国家の軍事を一手に握る超一級の臣下の一族だった事がわかります。

このように、物部氏は、神武天皇より先に、一部とは言え畿内を治めていた、しかも、天津神の子供だと名乗ってた人の子孫なのですから、その立場上、自分たちのご先祖以外の神様を容認する事はできなかったのです。

とは言え、実は・・・
そんな立場とはうらはらに、近年の発掘調査では、物部氏の住居跡から、幻となっていた渋川廃寺跡が発見されています。

自分んちに寺を建てるくらいですから、つまりこれは、物部氏も、仏教の信仰自体に反対していなかったという事がわかっています。

今回の敏達天皇十四年(585年)3月30日仏像投げ捨て事件の時も、守屋一派の独断ではなく、実は敏達天皇の許可が出ていた事が『日本書紀』にも書かれていますし、奈良の元興寺(げんこうじ)の縁起にも「天皇、仏法を破らんと欲したまい」と、この頃の仏教弾圧が天皇の意思だった事が見えます。

つまり、この頃の仏教弾圧は、国家としての宗教を守るために異国の宗教を排除するという公的な取り締まりであった可能性大なわけです。

しかし、歴史は勝者が造るもの・・・
この後の戦いで敗れる物部氏は、生き残った者がことごとく奴婢(ぬひ・奴隷)流浪の民となってしまうほど、一気に墜落してしまいます(7月7日参照>>)

そのため、記紀の編者は、この時に仏教の導入に反対したのは天皇=国家ではなく、あたかも物部一族とその一派だけのように思えるような書き方にした・・・という事なのかも知れません。
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

仏教を受け入れて日本人気質は大きく変わったと思います。私は神道の方が好きですが、異国の宗教と元々の神様が結局は仲良く一つになっちゃうなんて欧米の方はアンビリーバブルなんでしょうが、それが日本人の知恵なのかな。異なる宗教同士が争ったら永遠に終わる事はないと思うので。

投稿: Hiromin | 2011年3月31日 (木) 21時01分

Hirominさん、こんばんは~

>異国の宗教と元々の神様が結局は仲良く一つになっちゃうなんて…

ほんとにそう思います。
近くの神社でお宮参りをして、神前で結婚式挙げて、ハロウィンやクリスマスで騒ぎ、死んで仏様になる…そんな節操のない日本が大好きです。

これも、日本という国に「君臨すれど統治はせず」を貫いた、お心の広い天皇という国家元首がおられたからだと思います。

投稿: 茶々 | 2011年4月 1日 (金) 02時46分

茶々さん、こんばんは。
私には不比等を通じて蘇我と物部の血があります。ですので両方とも先祖です。
多分馬子と守屋は若い頃は仲が良かったでしょう。
でも薄桜記でないですが、仲が良いほどあるきっかけで対立することがあると思います。
これは両雄並び立たずみたいな感じでしょう。
蘇我は積極貿易、物部は対外硬派でしょう。
蘇我は渡来人と関係が深く、物部は半島での戦もしてきたので渡来人に厳しいのでしょう。
貿易か強兵かでしょう。
明治の伊藤と山縣の関係みたいではないでしょうか?
その時に守屋の方に大伴がいなかったのが負けた要因だと思います。大伴と物部が一緒だと勝てる相手はいないです。

投稿: non | 2016年3月30日 (水) 15時09分

nonさん、こんにちは~

不比等さんの子孫はスゴイでしょうね~
なんせ、あの藤原家の祖ですから…

どんだけ血が受け継がれてるんでしょう。
どなたか調べはった事あるんでしょうか?

投稿: 茶々 | 2016年3月30日 (水) 17時58分

茶々さん、こんばんは。
父の従兄弟にあたる伯父と父の兄の伯父がそう言う事を調べるのが得意です。
何でも織田家は藤原利仁将軍の子孫ですが、辿ると房前の北家に繋がるので、蘇我と物部の血が少しあるそうです。
でも前に書きましたが、源氏も親戚、平家も親戚なので親戚でないのを探すのが難しいです。

物部が伝統、仏教は私だけと言うのも日本を守らないと言う意識と高句麗等の半島に警戒心が強かったのではと思います。後の事になりますと征夷大将軍は物部、近衛大将は大伴で、蘇我は大蔵大臣で、中臣は多分祭司長でしょう。多分蘇我が勝ったキーマンは大伴でしょう。大伴は案外仏教に寛容だったと思います。

投稿: non | 2016年3月30日 (水) 18時29分

nonさん、こんばんは~

女系はミトコンドリアで子孫に伝え、男系は記録で子孫に伝えるんですかね~
ふと、思いました。

投稿: 茶々 | 2016年3月31日 (木) 03時12分

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