ケチと呼ばせない!前田利家の金の知恵袋
慶長四年(1559年)閏3月3日、加賀百万石の祖となった前田利家が、61歳でこの世を去りました。
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昨年の12月25日に、そのお誕生日の日の記事として、若き日の姿を書かせていただいた前田利家(まえだとしいえ)さん・・・(12月25日参照>>)
本日は、ご命日という事で、その続きとも言うべきお話をさせていただきたいと思います。
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その不良っぽい性格から、若気の至りで事件を起こし、浪人の身となっていた利家・・・永禄四年(1561年)に単独参加した美濃・森部の戦いでの功績が認められ、再び織田信長の配下として働く事が許され、男・利家、24歳からの再出発が始まりました。
そして永禄十二年(1569年)・・・その信長の命により、流浪中に死去した父の家督を継いでいた兄・利久(としひさ)に代わって前田家の当主となります。
その後の利家は、とにかく様々な合戦に参加し、とにかく武功を挙げる事を目標にしていたかのようです。
元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)では、決死の撤退をする信長のそばについて警固を担当・・・続く姉川の合戦(6月28日参照>>)では、自慢の槍を大いにふるって浅井助七郎なる武将の首を挙げます。
同じ年に勃発した石山本願寺戦(11月24日参照>>)では、淀川を越えて攻め込んで来た一揆軍を春日井(かすがい)堤で迎え撃ち、信長軍が総崩れとなる中で踏ん張り続け、その姿が味方の反撃のきっかけともなった事から「堤の上の槍」と絶賛されました。
もちろん、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)にも鉄砲隊を率いて出陣するなど、「槍の又左」の異名をほしいままにするほどの功名を挙げていきます。
そんな中で、利家は、おそらく、書物などからではなく、実践で兵法を学んでいったものと思われます。
師匠はもちろん、主君・信長です。
合戦の際の信長は、一番奥の本陣にドッカリと座って、采配をふる大将ではありませんでした。
いつ何時も、自らが前に出て、果敢にアタックしながら兵を動かしていく・・・その巧みな攻略ぶりをすぐそばで観察しながら、彼もまた、そのような武将に成長していくのです。
ところで、先の姉川に続く越前征伐で、朝倉義景(よしかげ)を倒した信長は、越前の北ノ庄城主に柴田勝家を配し、佐々成政(さっさなりまさ)、不破光治(ふわみつはる)らとともに利家にも領地を与えて勝家の与力としました。
こうして、晴れて戦国大名の一人となっていた利家は、成政・光治・利家と・・・3人揃って「府中三人衆」などと称されていましたが、この頃は、朝倉は倒したと言えど、未だ越前一揆の嵐(2月18日参照>>)が鳴りやまぬ頃で、利家たちは、ただひたすら防御&防御の日々を送る毎日でした(5月24日参照>>)。
やがて、信長が石山本願寺とも和解し、勝家が一向一揆を撃破し(3月9日参照>>)、その嵐も、すっかりおさまりますが、ここに来て勃発したのが、あの一大事件・・・そう本能寺の変(6月2日参照>>)です。
家臣の明智光秀の謀反の刃に散った信長・・・そして、この時、すでに織田家の家督を譲られていた嫡男・織田信忠もが亡くなってしまった事で、その後継者を巡っての争いが始まったのです。
織田家家臣の中でも筆頭の力を持つ勝家が信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を推しつつ、その信孝に味方する信長の妹・お市の方を抱き込めば、神がかり的中国大返しで主君の仇=光秀を討った(6月13日参照>>)羽柴(はしば・後の豊臣)秀吉は、亡き信忠の嫡男・三法師と信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)を抱き込んで、真っ向から対立します(6月27日参照>>)。
その覇権争いの最終決着となるのが、あの賤ヶ岳(しずかたけ)の合戦・・・(3月11日参照>>)
この時、始めは勝家に従って賤ヶ岳へと出陣した利家は、中国大返しさながらの猛スピードで美濃(岐阜県)から帰って来た秀吉の軍を見るなり、いきなりの撤退を開始し、その後は秀吉に従います。
この賤ヶ岳の合戦・・・大将・勝家の制止を振り切って無謀な突撃をした配下の佐久間盛政のイキリ過ぎが、勝家敗戦の要因と言われますが、2008年4月23日のページ>>にも書かせていただいたように、私としては、この利家の戦線離脱が、一番の敗因ではないか?と思ってします。
そして、そこにも書かせていただきましたが、この利家の戦線離脱は、勝家への裏切り行為ではなく、この先の情勢を読んだ、利家の好判断という事になります。
もちろん、その事は秀吉も重々承知で、当時、能登七尾城を居城としていた利家は、大幅加増を受けて、堂々の金沢城主となる大出世を果たします。
ところで、ご存じの方も多いかも知れませんが、この利家さんの後半生・・・かなりのケチで、金の亡者と化していたという噂があります。
おそらくは、若き日の過ちで、妻子ある身で浪人となった時、かなり苦労したんでしょうね・・・お察ししますが、このあまりのケチケチぶりは、こののち、奥さん=まつさんの怒りをもかう事になります。
それは、この賤ヶ岳のあと、天正十二年(1584年)に起こった小牧長久手の戦い・・・(4月9日参照>>)
先の賤ヶ岳の時には、弟の信孝に対抗すべく、秀吉と結んでいた信長の次男・信雄が、やがて、自分の立つ位置に不満を感じ、秀吉に対抗できる大物=徳川家康と組んで、秀吉と相対した戦いです。
この時、家康に味方した富山城主の佐々成政が、利家の朝日砦を攻撃し、続いて、持ち城の末森城に攻めよせたのです。
攻める成政軍は5000・・・城を守る利家配下の奥村永福(ながとみ)らは、わずかに1500・・・
末森城のピンチを聞いた利家は、すぐさま末森城に駆け付けようとしますが、自らの兵隊の数も、それほどいるわけではありませんでしたので、豪雨の中の援軍派遣に、少しちゅうちょしてしまいます。
悩む利家に、まつの一声!!
「ほら、見てみぃ・・・
日頃、金をケチって家臣を雇えへんから、イザという時に援軍も出されへんねや!
あの成政のアホに、兵の数で負けるて、情けないわ!
いっその事、この金の入った袋を連れて行って、これに槍でもふるわしなはれ!」
と、言いながら、お金の入った袋を利家に投げつけたのです。
それでも、利家・・・
「スマンm(_ _)m 日頃、戦場にまでそろばん持っていって、兵糧の計算ばっかりしてた俺のせいや!」
とはいきませんでした。
それはそれ、これはこれ・・・とは言え、このまつの一撃に奮起した利家は、豪雨の中行軍し、少ない兵にも関わらず、見事、末森城を囲む成政軍に奇襲をかけ、城を守り抜いたのです(8月28日参照>>)。
ひょっとして、奥さんも、ケチに怒ったというよりは、ウジウジしてる利家に、「男なら行かんかい!」てなハッパをかけたという事なのかも知れませんね。
とにかく、この一件でも、そのケチぶりに衰えを見せなかった利家・・・近畿地方を襲った大地震で、崩壊した前田家の伏見屋敷の再建にあたっていた嫡子・利長(としなが)に、
「豪華なモン建てんなよ!
金さえ残ってたら、山が崩れようが、海が埋まろうが、アタフタせんですむんやから」
と言っていたのだとか・・・
さらに、そうして貯めた大金は、あの越後への引っ越しで、上杉に大迷惑をかけられた(2月26日参照>>)堀秀治(ほりひではる)に貸していたほか、細川忠興(ただおき)や伊達政宗(だてまさむね)にも貸していたのだそうです。
その後、豊臣政権下で、秀吉の後継者=秀頼(ひでより)の傅役(もりやく)のほか、五大老の一人にもなった利家・・・慶長四年(1559年)閏3月3日、亡くなる直前には、後継ぎの利長を呼び、
「コイツらに味方になってもらいたい時に、コレをチラつかせたれ!」
と、これまでにお金を貸した武将たちの借用書を手渡しました。
思えば、親友だった秀吉が亡くなったのが半年前の8月・・・おそらくは、加藤清正らの武闘派と、石田三成(みつなり)らの文治派の対立、そして、そこに見え隠れする家康の影を、利家は、すでに感じていたのかも・・・。
今後の前田家の命運を握る次世代へ、どう転ぶかわからない荒波に対抗すべく、兵にも、武器にも、兵糧にも、そして、敵を味方に寝返らせる事もできる万能アイテムとしてのお金の使い方を、あますところなく伝えたかったのかも知れません。
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コメント
こんにちわ、茶々様。
前田利家のイメージは漫画『花の慶次』でいつも算盤をもっている髭面のイメージが強いです。
そんな利家さんですが、信長→秀吉→家康と天下が変わって行く時代を生きたわけですが『自分が天下を!』と考えた事は無かったのでしょうか?
投稿: DAI | 2011年3月 3日 (木) 15時05分
DAIさん、こんばんは~
>『自分が天下を!』と考えた事は?
どうなんでしょうねぇ
戦国武将たる者、天下を狙う野心の一つもなければ、命をかけて合戦に挑む気にはなれないと思いますが、確かに、利家さんの、そのような話は、あまり聞いた事がない気がしますね。
昔語りの武勇伝の中に、そのような出来事を見つけたら、また、書かせていただきたいと思います。
投稿: 茶々 | 2011年3月 4日 (金) 02時21分
今年の大河ドラマの前田利家は今はまだ影が薄いですが、中盤では「重鎮」になりますね。利家を演じている和田哲作さんを、テレビではあまり見た記憶がありません。前田利家は1580年代に一気に大大名になりますね。若い時代は上記にもある数々の武功で鳴らしているので、武闘派の「後輩」の方に親近感があったんでしょうね。
余談ですが、石川県の人は「北陸3県(石川・富山・福井)の1番手」と言う意識が強いらしい(昨日の「ケンミンショー」の転勤物語より)です。これは加賀百万石の誇りですね。
投稿: えびすこ | 2011年3月 4日 (金) 17時32分
えびすこさん、こんばんは~
富山の人は、別の誇りを持ってますよ。
前田のお殿様は、金沢に歓楽街を置き、富山には下世話な物は置かなかった…なので、「富山は教育水準が高い」って、
私は、旅の人(他県の出身者の事)なので、本当かどうかは、よくわかしませんが…
投稿: 茶々 | 2011年3月 4日 (金) 23時27分
>ひょっとして、奥さんも、ケチに怒ったというよりは、ウジウジしてる利家に、「男なら行かんかい!」てなハッパをかけたという事なのかも知れませんね。
うまく言えないですけど”肝心のここぞという時”って人生誰にでもあるじゃないですか。
末森城への援軍として利家みずから動いたときも武将 前田利家としての人生においての
”肝心のここぞという時”のひとつだったのと思うんです。
もしここで 利家が
「悪いが援軍は出せない、永福すまん」と拒んでいたら・・・? もしかしたら ほかの家臣もその話を聞いて
「もう、前田様んトコじゃ やっていけない・・・ほかの殿に雇ってもらうよう再就職しよう」ってなっていたのかも。
まつさんは 家臣たちが ”前田離れ” になってしまうことを予想していたのではないのか。
だからこそ
「あんたの出番である”肝心のここぞという時”が来たんだ!自ら前線に立って家臣たちを奮い立たせろ!」by まつ
もしかして愛してたからこそ厳しく叱責したなら なかなかキツい女性ですよ^^
投稿: zebra | 2018年9月15日 (土) 08時05分
zebraさん、こんにちは~
おっしゃる通り…この時も、この後に江戸へ下向する時に息子に言ったとされる言葉をみても、まつさんは、なかなかに強い女性ですね。
まさに、加賀百万石を影で支えた女性だったと思います。
投稿: 茶々 | 2018年9月15日 (土) 16時54分