元祖イクメンで女性ファン多し~本願寺蓮如
明応八年(1499年)3月25日、浄土真宗の「中興の祖」と呼ばれる第8代法主・蓮如が85歳の生涯を閉じました。
・・・・・・・・・
京都東山の本願寺・第7代の存如(ぞんにょ)の嫡男として、応永二十二年(1415年)2月に生まれた蓮如(れんにょ)・・・彼のもとに新しい母親がやって来たのは、蓮如が6歳の時でした。
父の存如が、ええとこのお嬢さんを正室に迎えたのです。
蓮如の生母という女性は、本願寺に奉公していた下働きのような女性で、その名前すら伝わっていません・・・どうやら、正室との身分の差を感じて、自ら身を引いて本願寺を去って行ったようです。
しかし、お察しの通り、ここは昔話の王道・・・蓮如=シンデレラ状態のキツイ継母のイジメに遭う事になります。
夜になっても灯明さえ灯させてもらえないような暗い部屋に追いやられ、食事が2~3日に一度てな事もあったようですが・・・
ただ、少しだけ継母側の弁解するならば、当時の本願寺はとてつもない貧乏所帯で、その継母たち自身も毎日の食事に事欠くありさまであった事も確かなのですがね。
青年期になっても、生活の苦しさは変わる事はなく、相変わらずの貧乏と継母のイジメに遭いながらも、蓮如は、ただひたすら、親鸞(しんらん)以来の教えを学ぶ事に打ち込みました。
やがて27歳の時、如了(にょりょう)という女性と結婚します。
この女性・・・伊勢貞房(さだふさ)の娘さんという事なので、貧乏本願寺としては願ってもない良家のお嬢さんだったわけですが、そんな良家のお嬢さんだったワリには、おそらくは下積み時代の蓮如をやさしく支えた良い奥さんだったんでしょうね。
・・・というのは、この奥さん、結局は、蓮如が本願寺を継ぐ以前に亡くなってしまうので、一緒にいた間は、おそらくずっと貧乏で苦労の連続だったのでしょうけど、普通、産みの母を追い出して、なおかつ自分をイジメ抜いた継母に育てられた息子ならば、女性不信におちいりそうなものですが、蓮如さんには、そのようなところがまったく見受けられません。
この如了さんが亡くなった後、蓮如は4回も結婚しますが、それはすべて、奥さんとの死別による再婚・・・「側室が何人も」という時代に、同時にダブる(不倫関係になる)事なく、その時の奥さん一筋に良好な関係であったという事は、やはり蓮如自身が、女性に対する不信感を抱いていなかったわけで、個人的には、この1番目の奥さんが良い人だったからなのかな?って思っています。
そんな如了さんとの間には、4男3女をもうけた蓮如でしたが、上記の通り、未だ、本願寺は貧乏真っただ中・・・しかたなく長男の順如(じゅんにょ)以外は、皆、里子に出しますが、それでも、一杯の汁を親子3人で分け合うような食事情だったと言います。
この頃は、赤ん坊のオムツも、蓮如自らが洗濯するというイクメンぶりだったとか・・・
やがて長禄元年(1547年)、父の存如が亡くなり、蓮如は第8代本願寺法主を継ぐことになりますが、かの継母は、この時も、自分の産んだ息子・応玄(おうげん)を後継者にしようと画策したのだそうな・・・
慌てて加賀から京都へと駆けつけた父の弟=如乗(にょじょう)によって「生前の存如は長子が後を継ぐべきとの考えであった」との助け舟が出され、なんとか大丈夫でした。
後継者争いに敗れた継母と応玄は、味噌桶一つと小銭だけを残して、土蔵にあったいっさいがっさいを、奪うように持って本願寺を出て行ったのだとか・・・
それでも蓮如は女性不信にならず・・・とにかく女性にやさしい(*≧m≦*)
本願寺を継いでからは、以前書かせていただいた見事な経営戦略で、本願寺を建てなおす(2月25日参照>>)蓮如ですが、そこには、その経営戦略とともに、彼独特の思想という物もありました。
それが、女性蔑視(べっし)の排除・・・
この時代には、「女性は罪深くて穢(けが)れが多いため仏にはなれない」という、女性差別とも言える見方がまん延していましたが、そこを「女人成仏(にょにんじょうぶつ)」という「女性だって救われる」てな事を説いていたのが、法然(ほうねん)であり、親鸞であったわけですが、その思想を受け継ぐ蓮如は、特に熱心に女性の極楽往生に説いたのです。
「たとえ女性であっても、一心不乱に阿弥陀如来様におすがりすれば、男性と同様・・・いやむしろ阿弥陀様は女性こそ救ってくださる・・・必ず極楽へ行って、べっぴんの仏さんになれるんやで~」
貧乏所帯で子供のオムツを洗った蓮如さん・・・おそらくは、夕げの支度など、その他の家事も手伝っていた事でしょう。
だからこそ、家や村での女性の役割の大きさ、その重要性を充分に知っていたのですね。
そして、それが見事、的中!!
嫁が祈れば夫が祈る、夫婦が祈れば家族が祈る、家族が祈れば隣も祈る、隣が祈れば村が祈る・・・村全体の祈りは、やがて、大きなうねりとなります。
そうです。
あの一向一揆です。
ただ、蓮如さん自身は、
「今の社会に生きる以上、天皇を頂点とした現政権に従い、法を守り、規律正しい生活を送りながら、信仰を大切にすべき」
という考えを持っていて、武力によるエスカレート気味の一揆には、ずっと反対の姿勢をとっていたようです。
結局、文明七年(1475年)・・・大きくなりすぎた一揆勢力に反発するかのように、蓮如自身の生涯の中で一番多くの「御文(教えをやさしく説いた蓮如の手紙)」を出し、一番多くの「名号(本尊の代わりとなる蓮如の書)」を書き、一番充実した日々を過ごした越前(福井県)吉崎を、彼は去る事になりるのです。(8月21日参照>>)
吉崎を出て3年後には、京都山科に壮大な伽藍を完成させた蓮如でしたが、その思いとはうらはらに一揆の勢いはとどまる事を知らず、とうとう加賀で、守護の富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込むという出来事も起こってしまいます(6月9日参照>>)。
その責任を取るかのごとく、本願寺を五男の実如(じつにょ)に譲った蓮如・・・明応五年(1496年)には摂津・大坂に隠居所を建て、そこを住まいとしました。
石山御坊と呼ばれたその場所は・・・そう、後に、あの織田信長と戦いで一大拠点となる石山本願寺です(5月3日参照>>)。
戦いを避けて移り住んだ地が、本願寺最後で最大の武装拠点となろうとは、さすがの蓮如さんも、この時は思ってもいなかった事でしょう。
やがて明応八年(1499年)・・・体力の衰えを感じ、死期が近づいた事を悟った蓮如は、山科本願寺へと戻り、親鸞の御影(ごえい・肖像画)を祀る御影堂へ参拝します。
親鸞の肖像画を前にして
「極楽へ参ります、いとま乞いを…必ず、極楽にて再びお目にかかりたい」
と、声高らかに言い放った後、5人の子を呼び、
「兄弟、仲良くせなアカンぞ!」
と言い、眠るように逝ったと言います。
明応八年(1499年)3月25日・・・蓮如、85歳の春でした。
「往生した後は、御影堂に入れて、人にも見せよ」
との遺言に従い、遺体を安置したところ、この25日の晩だけで数万人の信者が訪れたのだとか・・・
もちろん、その中には、数多くの女性信者もいたと言います。
底辺を味わいながら、本願寺を日本一の大教団へと成長させた蓮如は、(スケベな意味ではなく)最も女性を愛した宗教家だったのかも知れません。
.
★あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 松山城奪取戦~上杉謙信と北条氏康の生山の戦い(2024.11.27)
- 戦国を渡り歩いて楠木正成の名誉を回復した楠正虎(2024.11.20)
- 奈良の戦国~筒井順賢と古市澄胤の白毫寺の戦い(2024.11.14)
コメント