「若者よ!本を読め」~黒田如水の名言
慶長九年(1604年)3月20日、豊臣秀吉の側近・軍師として知られるキリシタン大名・黒田如水が京都・伏見藩邸にて59歳の生涯を閉じました。
・・・・・・・・・
黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)・・・
戦国屈指の名軍師・・・その有名な逸話も数知れずって事で、これまでにも何度もブログに登場していただいている如水さんですが、今日は、ご命日という事で、そのスルドさを褒めまくりでいきましょう!
・‥…━━━☆
もともとは、近江(滋賀県)黒田村(木之本町)が発祥の地とされる黒田家は、近江源氏の流れを汲む家柄で、足利将軍家に仕えていましたが、如水の曽祖父・黒田高政の代にモメ事を起こし、一族郎党、逃げるように備前国(岡山県)の邑久郡(おくぐん・瀬戸内市)に・・・。
やがて祖父・黒田重隆(しげたか)の代になって播磨(兵庫県)の小寺氏の家臣となり、父・黒田職高(もとたか)の頃には、主君の小寺姓を名乗る事が許されるほどの信頼を得る事になります。
やがて、その父から家督を譲られる如水ですが、その頃に畿内を制し、さらに西へ西へと進撃して来たのが、かの織田信長・・・
それまでは、中国の覇者=毛利の影響を受けていた播磨の小大名・小寺家では、当然のごとく毛利につく事を主張する家臣の中でただ一人、信長の傘下になる事を提案して周囲を説き伏せたのが如水でした(11月29日参照>>)。
こうして、信長の命により山陽の平定を任されている羽柴(後の豊臣)秀吉の配下となった如水・・・しかし、まもなく起こるのが、あの荒木村重(むらしげ)の謀反です(12月16日参照>>)。
この時、謀反の真意がわからない信長は、村重の籠る有岡城へ何度も使いを出しますが、その中の一人として向かった如水は幽閉されてしまい、最終的に助け出されるものの、劣悪な環境での幽閉で足腰を痛めてしまいました(10月16日参照>>)。
その後の如水は、幽閉中に固く自分の事を信じてくれながらも病死してしまった竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)(6月13日参照>>)の代わりをするがのごとく、秀吉の右腕となって作戦立案に手腕を発揮します。
秀吉が備中(岡山県西部)高松城を囲んだ時は(4月27日参照>>)、石を積んだ舟の底に穴を開けて、足守川(あしもりがわ)に沈めて、川をせき止める事を提案し、水攻めに至っています。
さらに、その水攻めの最中に舞い込んで来た本能寺の変での「信長死す」の情報・・・泣き叫ぶ秀吉に対して、
「悲しむ気持ちはわかるけど、これは、天下を狙う絶好のチャンスでもあるねんで」
と、声をかけ、この言葉に秀吉がハタッとする・・・なんてのは、ドラマでも度々描かれる名シーンですよね(6月6日参照>>)。
そう、この如水がいなかったら、秀吉の天下もなかったかも知れない・・・
しかし、そこまでのスルドさは、かえって秀吉が警戒してしまう事となったようで、秀吉の天下となった後は、中央から遠く離れた九州へと追いやられ、しかも豊前中津(大分県中津市)10万石と、その活躍には似合わない少なさでした。
これも有名な話ですが・・・
その頃、秀吉が自らの御咄衆(おはなししゅう)との雑談で、
「俺が死んだら、その後は誰が天下を取ると思う?」
と聞いたところ、周囲は誰も答えられない・・・
すると、秀吉は
「如水しかおらんやろ!」
と・・・
「わずか、10万石で?」
と、周囲が聞き返すと、
「お前ら、アイツの頭ン中、知らんからや。
アイツはな、
俺が、あーやこーやと必死のパッチで考えて考えて・・・
それでも、結論でーへんで相談すると、
“あぁ、それはこうしたら?”と、いとも簡単に答えよる。
それも、俺が、思いもつかん事を・・・
しかも、人の面倒見はええし、男の中の男やし、
アイツ以上のヤツなんかおるかいな」
と・・・
これを人づてに聞いた如水は、即座に隠居して、家督を息子の長政に譲ったのだとか・・・
その長政は、父の如水が後方で指揮を取っていたのとは逆に、戦いのたびに先鋒となって出陣し、先頭にて指揮を取るタイプでした。
それについては、
「人間には得て不得手があるんや。
俺は若い時から槍を持って敵と渡り合うのは苦手・・・その代わり、一つの采配で大量の敵を討ち取る事が得意やってん。
長政は長政で、先手に立って指揮を取るのがええ・・・そうでないと負けるやろ。
自分が先頭に立って働いて、家臣の信頼を得るタイプや」
と、冷静な分析をしています。
その期待通り、長政は戦国武将としてはなかなかのスグレ者・・・わずか14歳で出陣した岸和田城攻防戦では、父・如水の心配をよそに複数の首級を挙げました(3月22日の後半部分参照>>)。
とは言え、当然ながら、天才・如水から見れば、まだまだヒヨっこな面も・・・
それが、これまた有名な関ヶ原での一件・・・
この時、息子・長政は、吉川広家(きっかわひろいえ)や小早川秀秋(こばやかわひであき)をはじめとする西軍のキーパーソンの寝返りに奔走するなど下準備にも活躍し、本チャンの関ヶ原でも大活躍・・・おかげで、戦後は52万石余に福岡藩主に大躍進するわけですが、
「関ヶ原が一日でケリついたんは、俺の働きがあったからやねん・・・家康さんなんか、わざわざ、俺の手を握って、アリガトアリガトて言うてくれはったんやで!」
と、喜んで報告する長政に・・・
「ほんで、その時、家康は、お前の、どっちの手を握っとったんや?」
「いゃ・・・右手ですけど・・・」
「アホンダラ!ほな、あいてる左手は何をしとったんじゃあ~~~!」
と・・・
そう、
以前も書かせていただいたように、この時、九州にて挙兵した如水は、石垣原の戦いで大友義統(よしむね)を破り(9月13日参照>>)、そのドサクサで天下を狙う勢いで北上しようと考えていたのです。
ところが、肝心の関ヶ原が、わずか半日でケリがつき、しかも、それが、我が息子の活躍によるものとは・・・
「家康が、お前の右手を握ってたんやったら、あいてる左手で家康を刺したら、天下が転がり込んで来たのに・・・」
と言いたくもなりますわな。
とは言え、さすがは如水さん・・・叱るだけではなく、ちゃんと教訓も教えます。
『神の罰より主君の罰を恐るべし、主君の罰より臣下百姓の罰を恐るべし』
「神さんの罰は祈ったら避けられるし、主君の罰は謝ったらしまいや・・・けど臣下の者や領民に嫌われたら、その罰は祈っても誤っても国を失うまで許されへんねや」
と・・・
このように、晩年の如水は、戦う事に長けてはいても、まだまだ領国経営に未熟な息子・長政をいつも心配していたと言います。
特に病気になってからは、息子にうるさい父、家臣に厳しい主君を演じきり、わざと疎まれるように仕向けて、自分のカリスマ性を払拭して、譜代の家臣たちがスムーズに長政を主君と仰ぐように仕向けていたとか・・・
そして、いよいよ死期が迫った時、如水は長政に、木履(ぽっくり)と草履(ぞうり)を一足ずつプレゼント・・・
「お前は、合戦に挑む時に、準備万端、整え過ぎやねん。
戦いなんか、いつ起こるかワカランねんさかい、片足に木履、もう片足に草履をはいて行くくらいの勢いないとな」
かくして、慶長九年(1604年)3月20日・・・息子の将来を思いつつ、如水はこの世を去りました。
最後に、先ほどの続きでもある如水の名言をもう一つ・・・
『乱世に文を捨てる人は滅びる』
「ええか?
たとえ侍でも戦うばっかりやのーて、本を読まなアカンぞ。
本を読まへん人間は、理屈がワカランさかいに、ちゃんとしたルール(法律とか)を決められへんで、私利私欲でルールを決めてしまう・・・そんな事したら、家臣や国民に恨みを買うだけで、そんなヤツの治める国は、結局は滅びるんや。
おっと・・・本を読むっちゅーても、単に数をよーけ読むっちゅー事やないで。
もちろん、故事を覚えたり、字を覚えたり、詩を書けたり、なんていう知識を詰め込む事でもない。
その真意を読み解くっちゅーこっちゃ」
ワォ!耳が痛いゾ!こりゃ(;д;)
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コメント
茶々さん、こんにちは!
ホント、昔の人って頭が下がりますよね。他に例を挙げても、吉川元春も戦で対陣中に『太平記』全巻を模写したっていうし…
学生の頃、史料収集に明け暮れてましたが、指導する先生から「コピーするだけなら、すぐ忘れてしまう。必ず書いて覚えるように」と苦言を呈された事があります。
今のご時世、電子ブックが活字本を凌駕する勢いですね。あるお医者さんが言ってましたが、画面を通して観るって事は、文字を画像として認識してしまうだけなので、口を動かして読まない行為は言語中枢神経の発達を鈍らせるそうです。
ワープロ機能にしても、コピーペーストで切り貼りばっかりやってると物忘れ現象が早い時期にやってきそうですね。
そんな、こんなで小生、興味深い本を見つけても未だに筆&ペンを走らせて覚える習性の毎日です(笑)
投稿: 御堂 | 2011年3月20日 (日) 17時09分
御堂さん、こんばんは~
>コピーペーストで切り貼りばっかりやってると物忘れ現象が…
またまた、耳が…\(_ _ ;)ハンセイ
最近、字を書かなくなりました。
たまに住所とか、異常なゆがみを生ずる事があります。
御堂さんエライd(-_^)good!!
投稿: 茶々 | 2011年3月20日 (日) 22時10分
茶々さん、こんばんは。この日の主役は一番大好きな黒田如水。歴史好きになったきっかけが黒田如水の生き方にあります。時代の先を読み、野望を持ち、引く時は潔く・・・カッコ良すぎ!
絶対的な存在である秀吉亡き後、ナンバー2の家康or義に厚く豊臣に忠誠を誓う三成。世の戦国大名が『どっちが勝ち残る?』と迷うなか、“第3の選択”を考え行動に移した如水。鍋島家、加藤家を引き連れて九州平定後は中国地方へ上り、毛利家を説得。次に地元の姫路で兵を集め、そのまま大阪、京都を制圧。ここまでに兵力は10万になっているだろうと計算し、関ヶ原の勝者(家康が勝つと予想してたみたいです)と戦・・・ここまで考えていたらしいです。くたくたで間髪入れずに戦を仕掛けたら、さすがの家康でも・・・。ホントに関ヶ原が長引いていたら、日本はどうなっていたんでしょう?それと、あと1つ思うんです。“竹中さんが生きてたら”って♪
PS・毛利の三男坊とは仲が良かったみたいです。年上の小早川さんが如水に城を築くアドバイスや戦での陣形等を尋ねていたとか。あの時代に、変なプライド持ってない三男坊も好きです。
投稿: 佐賀の田舎モン | 2011年3月27日 (日) 01時24分
佐賀の田舎モンさん、こんにちは~
ホント、如水はカッコイイです。
ただ、竹中さんが生きていたら、逆に、天下は狙わなかったんじゃないかな?
って個人的には思います。
「両雄並び立たない」と察して、野望は抱かなかったかも…です。
投稿: 茶々 | 2011年3月27日 (日) 15時37分
大河ドラマでの黒田官兵衛の出番はもう終わりましたが、なぜか息子の長政と一緒にいる場面がありませんでしたね。この間の「なんでも鑑定団」で、黒田長政の肖像画(晩年の頃か)が末裔の家から見つかった、と言ってました。
今年の大河ドラマの特徴の1つは、「息子が親(父・母問わず)との折り合いが良くない事」ですね。これは秀忠だけではないです。「母・娘」の関係は親密ですが。これは脚本家の私情も絡んでいるのかな?
投稿: えびすこ | 2011年10月 3日 (月) 09時02分
えびすこさん、こんにちは~
鑑定団はちょうど見てました。
「見つかった場所が重要」っておっしゃってましたね。
今年の大河は、急に出てきて急にいなくなる人が多いですね。
それまで、まったく親子でいるところを描かず、「子供を手放したくない」と愛情を語られても、なかなかピンときませんね。
投稿: 茶々 | 2011年10月 3日 (月) 17時24分
茶々さん、はじめまして。個人的にですが、如水さんのことは大変尊敬しています。
如水さんの長政さん宛ての苦言はめっちゃ笑えました。ただ、元福岡県民としてはあまりにも耳が痛すぎる話でもありますが・・・
投稿: なかのり@元北九州市西部民 | 2012年2月17日 (金) 13時16分
なかのり@元北九州市西部民さん、はじめまして…
如水さんは、やっぱりスゴイですよね。
尊敬できる人です。
投稿: 茶々 | 2012年2月17日 (金) 22時17分
茶々さん、こんばんは
上の佐賀の田舎モンさんの話でチラッと出てましたが如水と隆景の事で個人的に好きな話があるんです
如水も隆景も戦国時代を代表する賢者として有名ですが、どうやらこの二人、タイプの違う賢者だった、という事を表す話で……有名なのでご存知だと思いますけど語らせて下さい!
如水はある時隆景に「私は主に求められれば直ぐに良きアイデアを思い付いて提案する事が出来ます。でも、後から後悔する事も多々ある。しかし貴方は何故か、いつも後悔がないように見えるのだが、それは何故でしょう?」
と尋ねます。
すると隆景はこう答えました。
「貴方は賢いので、一を聞いて十まで理解する。だが、私は一を聞いてもその一に引っ掛かるのでうんと考えます。思案に思案を重ねて、決断に時間を掛ければ、自ずと後悔する事はないのです。」
つまり如水が閃き型の天才派賢者なのに対して、隆景は熟考型の賢者、という訳ですね
如水のような天才派はある程度先天的な才能のある一部の人だけですが、熟考する事で誰にでも天才を超える事が出来る機会ってあるのかもしれませんね
そして最後に何だか隆景の話になって申し訳ない…
投稿: 百万一心 | 2016年7月26日 (火) 01時08分
百万一心さん、こんばんは~
『名将言行録』でしたっけ??(違うかも)
出典がうろ覚えですが、そんな内容のお話は聞いた事があります。
如水さんは、弟の元春さんとも仲良しでしたね。
名将の言葉は、重みがあって考えさせられます。
投稿: 茶々 | 2016年7月26日 (火) 01時54分