織田信長の蘭奢待・削り取り事件…その真意は?
天正二年(1574年)3月28日、織田信長が東大寺・正倉院の宝物を見て、「黄熟香」を削り取りました。
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現在も、東大寺・正倉院に保管されている、この黄熟香(おうじゅくこう)とは、東南アジア原産の香木・・・炊くと良い香りがする、いわゆるアロマ(お香)ですね。
正倉院の物は長さ156cm、重さ11.6㎏と大変大きく、これほどの大きさの物は珍しいそうで、特別に『蘭奢待(らんじゃたい)』という名前がついています。
正倉院の黄熟香=蘭奢待…しるしのうち、左部分が明治天皇、右手前の二つのうち右が足利義政で左が織田信長が削った部分。
(*他にも削ったとおぼしき箇所もあり、削ったと噂される人物もいますが、正式に記録されているのは、この3名の3ヶ所です…最新情報は下記「箇条書き部分」参照)
蘭奢待・・・そうです。
今年の大河ドラマの中でで主人公の江が、
「私、この香りが好き!」
と言って、「江=信長の遺志を継ぐ者」をイメージづけるアイテムとして登場しているアレです。
・・・で、以前、【正倉院・アッと驚く豆知識】(6月21日参照>>)のところで書かせていただきました通り、この東大寺の正倉院というのは、あの東大寺の大仏様を建立した第45代聖武天皇が生前に集めた宝物の数々を、奥さんの光明皇后が1ヶ所に納めた倉庫なわけで、中のお宝は、すべて天皇家の物なわけです。
なので、今でこそ、年に一回の総点検を利用して、毎年秋に正倉院展なる物が奈良国立博物館で開かれ、我々一般市民も、お宝の一部を拝見させていただく事ができるわけですが、それ以前は、中のお宝というのは、天皇家の人しか・・・いや、天皇家の人だって、何かの時にしか見る事ができなかったのです。
・・・で、そのページに書かせていただいたように、現在の展覧会ような形以前に、この正倉院を開けて中の宝物を見た人というのが・・・
- 寛仁三年(1019年)、藤原道長が宝物を見る。
- 至徳(元中)二年(1385年)、足利義満が宝物を見る。
- 永享元年(1429年)、足利義教(よしのり)が宝物を見る。
- 寛正六年(1465年)、足利義政が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。
- 天正二年(1574年)、織田信長が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。
- 明治十年(1877年)、明治天皇が宝物を見て、「黄熟香」を削り取る。
追記:2011年11月11日付け読売新聞
裏側にあった記録のない削り跡に対して…
「(現在も残る明治天皇が削ったとされる)付箋の場所と裏側の1ヶ所の合計2か所が同じ年に切られたとみて、ほぼ間違いない」という奈良国立博物館の内藤栄・学芸部長補佐の見解が発表されました。
・・・と、まぁ、最後の明治天皇は天皇なので除外するとして、それ以外のメンバーを見てみると、まさに、その時々の一番の権力者!というメンツですね~。
しかも、よくよく考えれば、足利家はもともと天皇家だった源氏の家系だし、藤原家も姻戚関係にあったわけだし、失礼ながらも、このメンツの中では、信長さんだけが、「どこの馬の骨(本人は藤原とか平とか言ってる)」って感じ・・・
なのに、その中で黄熟香=蘭奢待を削った二人のうちに入ってるなんて!!!
信長、恐るべし・・・ですね。
なので、これまでは、この信長による蘭奢待削り取り事件は、信長の、天皇家への高圧的な態度の一つとして描かれる事が多くありました。
それ以前から、信長が時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇に退位を迫っていた事もあり、あの上京焼き討ち事件(4月4日参照>>)も含め、天下の見えた信長が、その力を誇示し、天皇を思い通りに・・・いや、それどころか、自らが天皇、あるいは神になろうとしていたなんて事も言われます。
・・・と言うより、今年の大河ドラマも、そうであるように、現在でも、それが一般的な見方であります。
ゆえに、「信長=怖い、鬼のような人」というイメージを持っている方が多い事も確か・・・。
なので、このブログでも、度々、その一般的な見方での信長さんを書いてもきましたが、実は、私、個人的には、「信長=いい人」というイメージを持っており、一般的な見方とは違う内容も書いております。
たとえば、あのド派手な御馬揃え(2月28日参照>>)・・・一般的には、これも、信長がその軍事力を誇示するために、天皇に見せつけたかのように描かれますが、そのページで書かせていただいたように、実は、この「御馬揃えを見たい」と言ったのは天皇のほうであって、「天皇さんが来はるなら、メッチャ派手にやりまっさ」という、信長の大サービスだった可能性大です。
あの比叡山焼き討ちも、地質学的には燃えた痕跡もなく、「全山を焼きつくして多くの信者が亡くなった」というのは、どうやら、被害を受けた比叡山の僧侶の言い分で、実際には、そんなに大規模ではなかったのかも・・・(9月12日参照>>)
「信長は神になろうとしていた」という話も、彼をキリスト教信者にできなかったルイス・フロイスの言い分で、実は、単に無神論者=ドップリと宗教にハマるタイプではなかっただけなのかも知れません(4月8日参照>>)。
そういう観点から見て行くと、本日の蘭奢待削り取り事件でも、そこかしこに、信長の天皇家への圧力ではない部分が、見え隠れしてきます。
もちろん、「正倉院のお宝を見たい」と申し出たのは信長のほうでしょうが、この時、滞在中の京都から3000の軍勢を連れて奈良へと下った信長は、「軍勢への非法禁止」を徹底させ、寺院の境内に陣を敷く事すら許さず、最大限に、その治安維持に努めています。
蘭奢待を見るにあたっても、「自らが正倉院に出向いて、倉の中に立ち入る事など恐れ多い」として、蘭奢待を外に持ち出して、「東大寺・大僧正の立ち合いのもとで拝見させていただきます」と申し出ています。
とても、高圧的な態度には見えませんね。
さらに、この時に、蘭奢待は2片削り取られましたが、ここでも信長は「1片は禁裏様(正親町天皇の事)に、もう1片はボク・・・」と、天皇をたてる事を忘れません。
しかも、この一大イベントの後、東大寺や春日大社を参拝する時の信長も、「一段慇懃(いんぎん)」=メッチャまじめで、真心こもった礼儀正しい態度であった事が、関係者の日記(三蔵開封日記・多聞院日記)などに書かれているとか・・・
これらの態度を見る限り、信長が天皇家に圧力をかけるために蘭奢待を見に来たとは、とても考え難いですよね。
では、信長は何のために蘭奢待を見に来たのか?
ここからは、推理の域を出ないものではありますが・・・
「正倉院のお宝が見たい」というのは口実で、実は、信長は、奈良を支配下に治めた事を示すがために、大軍を率いて奈良に来る事こそが目的だったのではないでしょうか?
この前年の天正元年(1573年)の12月に、松永久秀(10月10日参照>>)が信長に降伏し、多聞城を開け渡してからは、明智光秀や柴田勝家などが当番制で多聞城に入り、一応は、奈良を支配下に治めた形にはなっていましたが、この奈良には、その久秀と反目し続けていた筒井順慶(じゅんけい)(8月11日参照>>)もいましたから、未だ、微妙な段階だったのかも知れません(2024年10月10日参照>>)。
そこを、はっきりと、自らの配下に治めた事、
イザという時は、大軍を率いて奈良に来る事が出来るという事を、信長は奈良の民衆に、そして奈良の国人や武将に、示したかった・・・という事なのでしょう。
もちろん、そこには
自分は、「望めば、正倉院のお宝を見せてもらえる程の人物である」という付録がついて来る事も、充分承知していたかも知れませんが・・・
さらにさらに、もし、一般的に言われるように、信長が高圧的な態度で「蘭奢待を削らさんかい!」って言って来ていたとしていたら、当然、正親町天皇は気分良くはないはずですが、この時に正親町天皇が信長に対して不快感を覚えたという記録はありません。
もちろん、記録に残って無いから不快に思わなかったとは言い切れませんが、むしろ正親町天皇は、その信長の願いを、(自分を通さず)勝手にOKした関白に対して「不本意だ」と不快に思っている記録は残っています。
つまり、そこには、相手は信長ではなく、正親町天皇VS近臣のなんやかやがあった・・・って事なのですが、そのお話は長くなりますので、2011年11月4日に書かせていただいた【天皇に対する信長の態度は強圧的ではない?】の後半部分でどうぞ>>・・・
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コメント
な、なんと2014.12に貴殿の説を裏付ける書簡が見つかろうとは。いやはや、脱帽です。
投稿: 鬼日向 | 2014年12月14日 (日) 10時46分
鬼日向さん、こんばんは~
そのニュース、知りませんでした(*´v゚*)ゞ
慌てて検索してみたら、何やら、千葉?で書状が発見されたとの事…
(【2014年:歴史の新発見&ニュース】の12月参照>>)
興味深いですね。
投稿: 茶々 | 2014年12月15日 (月) 00時05分