沖田畷の戦い~龍造寺隆信の敗因
天正十二年(1584年)3月24日、肥前島原半島の領有権をめぐって龍造寺氏と島津氏が争った沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が討死しました。
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すでに、その波乱万丈の人生をサラッとご紹介させていただいている(11月26日参照>>)肥前(佐賀県)の戦国大名・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)さんですが、本日は、そのご命日という事で、最後の戦いとなった沖田畷(おきたなわて)の合戦を中心に・・・
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主君にあたる少弐資元(しょうにすけもと)に離反の疑いをかけられ、祖父や父をはじめ一族のほとんどを騙し討ちされてしまった(1月23日参照>>)龍造寺分家=水ヶ江(みずがえ)龍造寺家の隆信少年は、ただ一人生き残った曽祖父・家兼の遺言を受け、還俗(げんぞく・僧侶をやめて一般人に戻る事)して龍造寺家を継ぎ、母・慶誾尼(けいぎんに)(3月1日参照>>)の助けを借りながら再起をはかります。
やがて本家龍造寺家の龍造寺胤栄(たねみつ)が亡くなった事で、その奥さんと結婚して本家の当主となった隆信は、主君の少弐氏を滅亡に追いやり(1月11日参照>>)、今山の戦いで大友氏を蹴散らし(8月20日参照>>)、
さらに、筑紫・肥後北部の平定を完了した後は、豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん)、薩摩(鹿児島県西部)の島津義久と並んで「九州三強の一角」となり、『肥前の熊』と恐れられる存在となります。
しかし天正十二年(1584年)・・・ここに来て島津が島原半島に侵出し、その直後に、配下の有馬晴信(ありまはるのぶ)が島津方に寝返るという事件が発生します。
すでに天正八年(1580年)に隠居していた隆信でしたが、未だに政治的・軍事的にに主導権を握っていた事もあって、寝返りの一報を受けて、即座に行動開始・・・
3月19日には、25000もの軍勢を率いて島原半島に進出したのです。
とは言え、冒頭に書かせていただいた通り、本日は隆信さんのご命日・・・つまり、合戦は龍造寺の敗北となります。
上記の通り、隆信の配下は25000・・・いや、最終的には5万に膨れ上がっていたであろうとも言われる龍造寺軍に対して、一方の島津は、有馬の配下は5000程度、島津が連れて来たのは3000程度と、どんなに多く見積もっても1万に満たなかったであろうとされています。
なのに、この時、勇猛に戦った龍造寺四天王と呼ばれる重臣たちが、隆信の死を知ってから命がけの突入を試みて亡くなっている事を踏まえれば、かなり、早いうちに大将が、戦場にて討ち取られるという戦国合戦では珍しい事例という事になります。
これらの観点から、この沖田畷の戦いを、「あの桶狭間と似ている」との見方をされる研究者の方も多いようです。
確かに、桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)も、討たれた今川義元の軍勢のほうが、数として圧倒的に多かったのは、皆さまご承知の通り・・・
しかも、この時の隆信も、義元同様に馬には乗らず輿(こし)に乗っていた事も同じなら、この一戦で家が滅亡するのではなく、次の息子の代で急激に勢力を失い、家は残るものの領地を失う・・・といった所まで似ていると・・・
しかし、一方では、決定的に違う部分も指摘されます。
それは、桶狭間での義元には、まったく落ち度が無いけれど、隆信には明確な戦い方のビジョンがないまま合戦に挑んだという落ち度があったという事・・・。
その桶狭間は・・・
ドラマでは、織田信長のカッコ良さを際立たせるために、あたかも愚将のように描かれる義元以下今川勢ですが、実際には、義元は、すでに信長の攻撃を視野に入れていて、一旦後退する事を考えていた矢先の事だったとも言われ、一方の信長も、たまたま、そのナイスなタイミングで義元の本隊にたどり着き、たまたま、そのナイスなタイミングで天候が大荒れとなって、かなり近づくまで気配を隠せたのが、最も大きい勝因なわけで、どちらかと言うと、運が、信長に味方したといった感がぬぐえない戦いだったとされています。
一方の隆信は・・・
実は、あの宣教師=ルイス・フロイスが、隆信の軍隊を見た印象を記録に残しているのですが、その隊列は、「ヨーロッパの軍隊にも勝るとも劣らない物である」と絶賛しています。
キリシタン大名である大友宗麟や有馬晴信と敵対していた隆信は、フロイスにとっては敵なわけですから、そんな立場からのベタ褒めというのは、かなりのモンだと思います。
その姿は、多数の銃と少量の弓を持ち、長き槍と短き剣・・・さらに、複数の大砲も曳いていたのだとか・・・
しかも、その装備を見た島津勢は、そのあまりの見事さに恐れおののき、一斉に青ざめた・・・という島津方の描写まで、フロイスは書き残しています。
もし、それが本当なら、この戦い前の時点で、龍造寺の勝利は見えていたようなもの・・・しかし、そうはなりませんでした。
いや、むしろ、そのような状況こそが、隆信に油断を与えてしまったのかも知れません。
本来なら、絶対に隆信が負けないような状況・・・逆に島津から見れば、この状況をくつがえさねばならないわけで、その勝利のカギは、少数である事を活かしたゲリラ的戦法を駆使するしかないわけですから、隆信側は、それに逆手を取った大軍を活かした作戦で挑むべき・・・
しかし、「これで負けるわけがない」という少々のおごりが、まったくの作戦無しに戦場に向かうという事になってしまった・・・という事のようです。
かくして戦いの前日、有馬晴信の救援要請を受けて現地に到着した島津家久(いえひさ)は、敵の数の多さに驚いたと言いますが、ただ驚いていては負けます。
上記したように、彼は、少ない兵を活かす作戦として、湿地帯である沖田畷のド真ん中に陣を敷き、周囲に、木戸や鹿垣などの防塁を構築します。
やがて天正十二年(1584年)3月24日・・・その火ぶたが切られたわけですが、隆信は、これらの防塁を無視して沖田畷を突き進んで行ったのです。
その大軍ゆえか、なんなく接近していく龍造寺勢・・・しかし、これが家久の作戦!
できるだけ至近距離へと近づけさせておいて、ここで、いきなり防塁に身を隠していた鉄砲隊が総攻撃!
一旦おさまって進んでいくと、再びの一斉射撃・・・これを繰返します。
さらに、本陣が湿地帯に入った頃を見計らって、真っ赤な装束に身を包んだ軍団を敵方に踊り込ませて部隊の混乱をはかりました。
ただただ湿地帯を突き進んでいた大軍は、大混乱に陥り、そんな混乱の中で、隆信は、島津方の川上忠堅(ただかた)という武将に討ち取られ、命を落としたのです。
実は、この日の合戦で、隆信が輿に乗っていたのは、隠居してから酒に溺れ、芸能に凝り、遊興にうつつをぬかした生活で、ダダ太りとなって馬に乗れなかったから・・・なんて事も言われ、そんな隆信の姿は、家臣の信頼を失い、離反者も後をたたなかった事から、晩年の隆信の態度が、今回の敗戦を招いたとも・・・
しかし、先ほども書かせていただいた通り、隆信の死を聞いて、逃げたり寝返ったりするどころか、逆にその命を捨てて突入する重臣たちの姿を見る限り、未だ、信頼関係が崩れていたとは思い難いわけで、おそらくは、そこのところは、まだ修正可能な段階にあったはず・・・。
やはり、一番の敗因は、隆信のおごりによる作戦ミスの可能性大・・・もし、この戦いに勝っていたら、のちのちには家臣との仲も修正でき、龍造寺家が衰退する事も無かったかも知れないだけに、実に残念です。
残念ついでに、記事が長くなってしまいました。
この日、命がけで奮戦し、隆信の後を追うように散っていった龍造寺四天王の秘話は、2012年の3月24日【龍造寺四天王~それぞれの沖田畷】でどうぞ>>
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コメント
事実としては湿地に乾いた藁を島津は撒いたのです。当時としては卑怯な戦法ですね。
そこに気づいた我が先祖が先陣を切って討死することで鍋島兄を救うことになりました。
鍋島弟が佐賀鍋島家を、鍋島兄が神代鍋島家を治めることになるのです。
また、この戦いは正月をまたいだために
生死のわからなかった神代鍋島家では
門松は門の内側に立てます。我が家の討死は正月前に知らされていたため、我が家では門松は立てないことになっています。
投稿: 沖田畷の戦い討死子孫 | 2016年5月30日 (月) 20時14分
沖田畷の戦い討死子孫さん、こんにちは~
なるほど…やはり、ご子孫のところには、様々な言い伝えがあるのですね。
投稿: 茶々 | 2016年5月31日 (火) 13時19分