足利相手に戦う天皇…第97代・後村上天皇
正平二十三年(応安元年・1368年)3月11日、第97代後村上天皇が、41歳で崩御されました。
・・・・・・・・・
第97代というよりも、南朝2代と表現した方が、その時代背景がわかりやすいでしょうか。
そうです。
あの鎌倉幕府の滅亡(5月22日参照>>)後、第96代後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に不満を持った武士の代表=足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗をひるがえし、泥沼となった南北朝時代に、父=後醍醐天皇の皇位を受け継いだ第9皇子=憲良(のりよし・義良)親王が、後の第97代後村上(ごむらかみ)天皇です。
一説には同母兄の恒良(つねよし)親王(3月6日参照>>)が、一旦、後醍醐天皇の皇位を継いでいたものの、足利方に捕えられて毒殺された(太平記)とも言われますが、現在の天皇系図に恒良親王の名は無く、96代の後醍醐天皇の次に97代の後村上・・・となっています。
真偽はともかく、そのような話が浮上して来るという事実だけを見ても、いかに、この天皇が波乱に満ちた時代を生きて来られたかが想像できるというものですね。
そんな憲良親王の波乱は、建武の新政直後の、わずか6歳の時から始まります。
未だ残る北条氏の残党を討伐する事、そして、未だ中央の力の及んでいない東北の地の武士たちを傘下に治める・・・という二つの目的で、憲良親王が奥州多賀城へ入ったのは、建武の新政から約1年後の建武元年(1334年)5月でした。
つき従うのは北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕家(あきいえ)父子・・・北畠氏は村上源氏の流れを汲む家系で、後醍醐天皇の参謀的存在でもあり、この時は、長男の顕家が陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた事を受けて、父子ともども後村上天皇を奉じて下向し、この後は東国経営に当たるはずでした。
しかし、どうにもこうにも、京都の情勢が安定しない・・・案の定、翌・建武二年(1335年)に尊氏が反旗をひるがえし、京へと迫ります(12月11日参照>>)。
やむなく、憲良親王は、北畠父子とともに京へととって返し、新田義貞(にったよしさだ)や楠木正成(くすのきまさしげ)らとともに足利軍を撃破!!・・・再度の入京を試みる尊氏を蹴散らして九州へと追いやりました(3月2日参照>>)。
そして、再び多賀城へと帰還しましたが、その間に、九州で力を蓄えた尊氏が東上し、湊川の戦い(5月25日参照>>)で新田・楠木軍を破り、京都を制圧してしまいます。
北国へと落ちた義貞も討たれ(7月2日参照>>)、比叡山へと逃れていた後醍醐天皇も京にて幽閉され・・・しかし、わずか1カ月後に京を脱出した後醍醐天皇は、吉野の山中にて南朝を開きます(12月21日参照>>)。
やがて延元二年(建武四年・1337年)に、多賀城が襲撃の危機にさらされた憲良親王らは、霊山(りょうざん・福島県伊達市&相馬市)に退いて難を逃れた後、各地を転戦しながら、再び京都を目指します。
鎌倉や美濃(岐阜県)で足利軍に勝利しつつ伊賀から伊勢へ・・・途中、未だ21歳の伸び盛りの顕家を失うという痛手を被りながらも、延元四年(暦応二年・1339年)3月、父=後醍醐天皇のいる吉野行宮(あんぐう・仮の宮廷)に入りました。
その5ヶ月後の8月15日に、父から皇位を譲られ、南朝の2代目・後村上天皇として即位した憲良親王ですが、父の後醍醐天皇は、その翌日に52歳の生涯を閉じます(8月16日参照>>)。
その死に際は、左手に法華経第五巻を持ち、右手には剣を持って・・・
「玉骨は、たとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんばく・たましい)は、常に北闕天(ほっけつてん・北にある宮城の門の方角)を望みたい」
との言葉を残したのだとか・・・
「その魂は常に北を・・・北朝をにらみ続ける」
それは、まさに、後村上天皇に託された父の願いでした。
わずか12歳ながら、父の思いを受け取った後村上天皇は、畿内の寺社や武士たちに精力的に綸旨(りんじ・天皇家の命令書)を発し、南朝へのお誘いをかけまくります。
しかし、圧倒的兵力を持つ北朝・・・正平三年(貞和四年・1348年)には、高師直(こうのもろなお)に吉野を攻められ、紀州(和歌山県)へと逃れたりもしますが、正平五年(観応元年・1350年)、チャンスがやってきます。
北朝内の内部分裂=観応の擾乱(かんのうのじょうらん)です(10月26日参照>>)。
ここまで、二人三脚で見事な関係を築いていた兄・尊氏と弟・直義(ただよし)の仲に亀裂が生じ、まずは弟の直義が南朝に降伏し、その次に兄の尊氏が南朝へと降りますが、その頃には直義が北朝で・・・と、なにがなんだかワカランややこしい状態なので、くわしくは上記ページで↑見ていただくとして・・・
とにかく、関東へと逃げた弟・直義を討伐すべく東へ向かった尊氏に代わって、京都の守りを任されたのは、尊氏の息子の義詮(よしあきら)・・・。
すでに23歳の青年に成長していた後村上天皇・・・このドサクサにまぎれて京都奪回を目指します。
正平七年(文和元年・1352年)閏2月20日・・・南朝方の楠木正儀(まさのり・正成の三男)と北畠顕能(あきよし・親房の三男)は、結ばれていた和睦を破り、義詮へのいきなりの攻撃!!
不意を突かれた形となった北朝方は乱れに乱れ、七条大宮の戦いで細川頼春(よりはる・後の管領家の祖)が戦死するなど、大きな痛手を被って敗退・・・義詮は近江(滋賀県)へと逃れました。
なんと、南北朝の分裂以来、初めて南朝が、都=京都を制圧したのです。
この間に、山城は男山(京都府八幡市)に本拠を遷していた後村上天皇・・・北朝に担がれていた光厳(こうごん)上皇(北朝1代天皇)・光明(こうみょう)上皇(北朝2代天皇)・崇光(すうこう)上皇(北朝3代天皇)の3上皇と、皇太子の直仁(なおひと)親王を男山に連行します。
同時期には、あの義貞の遺児・新田義興(よしおき)も関東にて挙兵していて(2月20日参照>>)、思えば、北朝最大のピンチでしたね。
しかし、潜伏先の近江にて勢力の回復を図る義詮・・・そこには、佐々木道誉(ささきどうよ)・細川顕氏(あきうじ・頼春の同族)・土岐頼康(ときよりやす)・斯波高経(しばたかつね)など、名だたる面々が集まり、3月15日には京都に入り、その後、後村上天皇のいる男山を包囲します(3月24日参照>>)。
ここで注目したいのは、上記のような剛の者に囲まれた男山で、総大将となっているのは後村上天皇・・・にも関わらず、意外に北朝が苦戦するという展開・・・
そう、この後村上天皇・・・戦う天皇だったんですね。
その守りの固さに、やむなく籠城戦へと持ち込む北朝方・・・とは言え、その籠城が1ヶ月・2ヶ月と続くと、飢えの苦しさから、北朝へと寝返る者も・・・
やがて、籠城の限界を感じて意を決した後村上天皇は、わずかの側近を連れて男山を脱出・・・見事、北朝の包囲網を破って河内(大阪府)へと逃れます。
しかも、あの3上皇と皇太子に加え、三種の神器をも手離さぬままの脱出でした。
おかげで北朝側は、神器なし上皇の指名なし=法的根拠のいっさい無い後光厳(ごこうごん)天皇を即位させる(1月29日参照>>)という前代未聞の珍事をせねばならなくなり、戦力こそ、南朝より北朝が勝っていたものの、その権威はかなり落ちてしまったのです。
もちろん、これは、朝廷を立てて幕府を開いているという北朝の大義名分を奪ってしまおうという後村上天皇作戦・・・お見事でした。
その後も、何度となく起こる南北朝のせめぎ合い・・・もはや兵力では到底かなわないにも関わらず、強行姿勢を崩さない後村上天皇・・・
正平二十一年(貞治六年・1366年)の4月には、一度、和睦の話が持ち上がった事があり、後村上天皇は、自らの綸旨を勅使(ちょくし・天皇の使者)に持たせて、義詮のもとに派遣しますが、この綸旨の中に「降参」の文字が入っていたために、この時の交渉は決裂してしまいます。
そう、義詮は、あくまで南北朝の合体という形での和睦を計りたかったのですが、後村上天皇は、あくまで北朝の降参による和睦を主張したのです。
一旦決裂した後でも、義詮は、度々、吉野に使者を派遣して「合体」のお誘いをするのですが、後村上天皇が、その姿勢を変える事はありませんでした。
そんな天皇は正平二十三年(応安元年・1368年)3月11日、摂津(大阪府)住吉の行宮で、41歳の生涯を閉じました。
自ら戦闘する天皇・・・その一方では和歌や書道の才能に長け、琵琶や琴も得意だったという芸術家の一面も持つ後村上天皇・・・
ひょっとしたら、父の後醍醐天皇同様に、その魂は北朝を睨み続けていたままだったのかも知れません。
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コメント
面白く、分かりやすい。感動した。ありがとう。
投稿: | 2015年10月19日 (月) 21時59分
ありがとうございますm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2015年10月20日 (火) 03時17分
妥協なき姿勢はよく似ていますね。
吉野に行って分かったのですが下千本から上千本まで歩いたらかなりどころでないきつさです。南朝の貴族は足が強いのでしょう。
十津川を見ましても頑固です。
こういう時には欧州だと教皇、皇帝の両方の頂点の命令、妥協で終わりですが、日本は両方を兼ねていますので上手く行かないですね。
あの世でも南北朝の天皇は喧嘩をしているでしょうか?
投稿: non | 2016年4月29日 (金) 16時13分
nonさん、こんばんは~
昔の人は健脚です。
今では考えられないようなスピードで町から町へ移動してますね。
スゴイです。
投稿: 茶々 | 2016年4月30日 (土) 03時33分
午前中に7キロ歩きましたが疲れました。
これを見ますと南朝系は体力があるなと思いました。
ところで南朝の方々はチェスだとチェックメイトされていても粘り強いですね。この粘りはどこからあるのでしょうか?
何だか北の湖に対して抵抗している貴ノ花みたいな感じがしました。
完勝は無いが、完敗しないと言う感じがします。
投稿: non | 2016年5月 1日 (日) 14時42分
nonさん、こんにちは~
南朝系…というより、昔の人は皆さん体力あります。
まぁ、移動手段が徒歩しかないからかも知れませんが、そもそも歩き方が違うんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 2日 (月) 16時02分
茶々さん、実は体を鍛えているのですが、昨日まで3日間で30キロ以上歩いたり、車で110キロ以上移動したら今日はばてばてです。
後醍醐天皇、後村上天皇の気力は凄いなと思いました。
後亀山天皇も凄そうです。ところで長慶天皇はいたのですか?日本全国に墓がありますが・・・
投稿: non | 2016年5月 3日 (火) 11時47分
nonさん、こんにちは~
さぁ、どうなんでしょうね?
専門家でも意見が食い違うので…
歴史は答え合わせが出来ないですから…
投稿: 茶々 | 2016年5月 3日 (火) 16時27分
謎と言いますと仲恭天皇の即位、土御門上皇の四国に移られたのと御嵯峨天皇即位前に九条関白が幕府から嫌われている順徳天皇の皇子を即位させようとしたことです。幕府と西園寺太政大臣によって阻止されましたが、謎が多いのです。それぐらいに意味不明と言いますか幕府が反対するのを分かっていて行動する行為が承久の乱後もあります。
ところで長慶天皇の系統は玉川宮と言われていますが、後亀山天皇の系統の小倉宮と違い後南朝に参加していませんし、後南朝、山名宗全も担ぎ上げません。不思議だなと思います。
投稿: non | 2016年5月 5日 (木) 15時40分
nonさん、おはようございます。
天皇には天皇の、貴族には貴族の、幕府には幕府のプライドがあるのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 6日 (金) 06時27分