夫・源義経との最期を選んだ郷御前
文治五年(1189年)4月30日、源頼朝の要請を受けた奥州藤原氏の4代目=藤原泰衡が、頼朝の弟=源義経の衣川の館を襲い、義経を自刃へと追い込みました。
最後の戦いとなった衣川の戦いでの義経主従の奮闘ぶりは、一昨年の【衣川の合戦~義経・主従の最期】(2009年4月30日参照>>)のページで見ていただくとして、本日は、この時、義経とともに死出の旅路へとつく正室とされる女性について書かせていただきます。
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源義経(みなもとのよしつね)のお相手と言えば、一番に名前があがるのが静御前(しずかごぜん)・・・
確かに、歌舞伎やお芝居に描かれる、二人の悲恋は感動モンですが、この二人の恋を純愛感動物語に描きたいがために、ドラマなどでは、他の女性がほとんど描かれず、あまり歴史に興味のない方々から見れば、まるで、義経の愛した人は静一人のような雰囲気になってしまってます。
しかし、ご存じのように、義経の周りにはいっぱい女性がいて、最初の都落ちの時などは10数人もの女性を連れて逃げてます。
もちろん、これは単に義経がスケベな女好きというだけではなく、彼が平家に代わって実権を握る立場となった源頼朝(よりとも)の弟であるとともに、義経自身も、平家を倒した英雄である事から、それにあやかりたいと思う者が、それだけ大勢いたって事なんですが・・・
そんな中で、おそらくは、義経が静御前より愛していたのでは?と思われるのが、彼の正室とされる女性です。
彼女は、義経が逃亡した奥州平泉では、正室を意味する「北の方」と呼ばれていたので、おそらくは正室・・・『吾妻鏡』など、史料とされる文献に登場する正式名称は「河越重頼女(むすめ)」あるいは「義経室」で、故郷の河越(川越市)では、京の都に嫁いだ姫として「京姫(きょうひめ)」と呼ばれていたと言われ、その実名は記録されていないのですが、本日は伝承の「郷御前(さとごぜん)」というお名前でお話を進めさせていただきます。
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武蔵の国の有力武士=河越重頼(かわごえしげより)の娘である郷御前が、義経との結婚のため、京に向かったのは寿永三年(1184年)9月14日の事でした。
時は、まさに、この年の1月に義経が木曽(源)義仲を倒して京に入り(1月20日参照>>)、さらに2月には一の谷の鵯越の逆落としで平家を破って(2月7日参照>>)、さらに西へと追いやった頃・・・
この重頼という人は、その妻が、頼朝の乳母である比企局(ひきのつぼね)の娘・・・この結婚は、頼朝にとっては、将来、鎌倉幕府を支えてくれるであろう力強い御家人となる人物と、重頼にとっては、まさに源氏の御曹司と血縁を結んで、より信頼のおける関係を築くことのできる、両方にとって万々歳の良縁だったわけです。
しかし、実際には、すでに、暗い影が指していたのです。
・・・というのは、この結婚の1ヶ月前の8月に、義経は左衛門尉・検非違使(さえもんのじょう・けびいし)という治安を守る役どころに任官されていたのですが、これが、頼朝のところには、官位を受けた後の事後報告として届いていたのです。
頼朝は、家臣団の統率を計るため、常々「官位は鎌倉に一任すべし」という事を諸将に対して通達していたわけですが、これを、自らの弟が率先して破ってしまった事になります。
「弟だから・・・」と、それを許してしまっては、家臣たちに示しがつきませんから、当然、頼朝は激怒!
とは言え、この一件が起こった時には、すでに義経と郷御前の結婚・・・どころか、9月の中順に京へ上る事も決まっていたようで、頼朝は、怒り心頭になりながらも、「結婚は結婚・・・命令違反は命令違反として、後に対処する事にしよう」と考えたのでしょう。
結果的に、無事に婚姻は行われ、郷御前は京で暮らす事に・・・
やがて翌年、2月の屋島(2月19日参照>>)、3月の壇ノ浦(3月24日参照>>)と勝ち進み、平家を滅亡へと追いやった義経・・・
しかし、ご存じのように、意気揚々と鎌倉へ凱旋帰国しようとした義経に急展開の運命が・・・腰越で止め置かれ、「鎌倉には入るな」と拒否されてしまうのです(5月24日参照>>)。
様々に理由づけされる、この頼朝の「義経拒否」ですが、やはり、先の命令違反とともに、合戦の作戦立案における義経の単独行動が問題だったと思われます。
義経の周囲の意見を無視した作戦実行は、今回、結果的に平家に勝利したから良いものの、この先も家臣団の一致団結を図りたい頼朝にとっては、そんな綱渡り的な行動をする弟を、弟だからと言って許すわけにはいかなかったのでしょう。
結局、鎌倉に入れてもらえない義経は、京に戻り、いつしか、頼朝に対抗する意思を見せ始めます。
これに対して頼朝は、10月11日、配下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)に命じて夜討ちをかけさせ(10月11日参照>>)、続く11月3日、義経は都落ち(11月3日参照>>)する事になります。
もちろん、郷御前も静御前も同行してます。
この時、一旦西国へ逃れてから態勢を整え、再び、頼朝に対抗するつもりで、いくつかの船団を組んで船出した義経一行でしたが、途中で嵐に遭って船は壊れ、船団も散り散りに・・・やむなく、近畿の山岳寺院を転々として逃避行を続けていますが、なんせ逃避行なので、その所在もルートもはっきりしません。
やがて11月16日には、あの有名な静御前との吉野の別れの話が出てくるのですが(11月17日参照>>)、その翌年、静御前が男児を出産する(7月29日参照>>)同じ年には、郷御前も女児を出産していますので、おそらくは、郷御前は、ずっと義経とともにいたか、どこかに潜伏していた場所に義経が通っていたか・・・とにかく、二人に交流があった事は確かでしょう。
どこを逃げ回ったかはともかく、若い頃に身を寄せていた奥州藤原氏を頼って、東北へと向かう義経・・・文治三年(1187年)2月10日、藤原秀衡(ひでひら)のもとに到着した(2月10日参照>>)一行の中には、赤ん坊を抱いた郷御前がいたのです。
男全員が山伏の姿に身をやつしていた事から、修験者が通るような険しい山道を通っての厳しい逃亡劇であったはずですが、彼女は稚児姿になり、ともについて行ったわけです。
もちろん、義経も・・・静御前とは別れても、彼女は連れて行きたかった・・・という事でしょう。
考えてみれば、この二人、頼朝との不和が表面化した時点で、義経は郷御前を実家に返しても良いわけですし、彼女も、そのようにしても、何の問題もなかったはず・・・なんせ、もともと頼朝が決めた政略結婚なのですから。
しかし、義経は彼女を連れて東北に落ちる事を望み、彼女も、すでに追われる身となった夫について行く事を望んだのです。
それこそが、本当に二人が愛し合った証と言えるでしょう。
しかし、当主の秀衡が亡くなると同時に、その運命は、最終段階へと急速に進んで行きます。
秀衡という大黒柱を失った奥州藤原氏・・・後を継いだ息子・泰衡(やすひら)は、頼朝の再三の要請に屈し、文治五年(1189年)4月30日(義経記では29日)、義経主従の衣川の館を急襲するのです(再び2009年4月30日参照>>)。
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)をはじめとする一騎当千のツワモノが敵の矢面と立つ中、「もはや、これまで」と最後を見てとった義経は、持仏堂へと入り、郷御前と、4歳になる娘を刺し殺してから、自らも自刃を遂げたのです。
義経31歳、郷御前22歳・・・
死出の旅路とは言え、最期までその愛を貫いた二人・・・せめて、少しでも幸福を味わったひと時があった事を願うばかりです。
ところで・・・
以前から、私は、義経とりまく多くの女性の中で、せめて、この郷御前だけはドラマで描いていただきたいと思っていましたが、2005年の大河ドラマ「義経」=タッキー主演のヤツに萌(もえ)という名前で、やっと登場してました。
ただ、ドラマでは、私の描いていたイメージとは真逆でした・・・(ρ_;)
ドラマでは、やはり静御前との純愛路線を描きたいがため、静御前が純心で一途で控えめ、一方の正室がしっかり者の女房って感じで描かれていましたが、私の思いは反対です。
これまでの経緯を見ればわかる通り、郷御前はイイトコの娘さんで、静御前はプロの女性・・・現代風に例えたなら、頼朝大社長の弟で重役クラスの義経が、妻として迎えた子会社の社長=重頼の娘が郷御前で、お気に入りのクラブのチーママが静御前・・・
仕事はデキるけど世間知らずなヤボな男に、恋の手ほどきをする姐御肌の静御前と、それを知りつつ一途に夫を愛する純粋な乙女の郷御前・・・
もちろん、静御前は、プロの中のプロとして、二人の間に入って家庭を壊すような事はしない・・・てな感じの構図が見え隠れする気がしてならないのです。
いつか、そんなドラマも見てみたいっす( ̄ー+ ̄)
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