生涯の誇り~クラーク博士のambitious
明治十年(1877年)4月16日、札幌農学校の基礎を築いた教頭・クラーク博士が北海道を去りました。
「Boys,be ambitious.=少年よ!大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・スミス・クラーク博士です。
・・・・・・・・・
「北海道開拓の指導者を教育する学校を造りたいので、教頭として日本に来てくれないか?」
アメリカはマサチューセッツ州の州立農科大学・学長をしていたクラークのところに、北海道開拓使長官・黒田清隆(8月23日参照>>)からの依頼が舞い込んで来たのは、明治八年(1875年)の事でした。
この頃の日本は、明治という新しい時代になってから、文明開化と富国強兵を旗印に掲げて、外国に追い付き追い越せとばかりに、積極的に外国の技術と文化を取り入れ、近代国家への道を歩み始めていた頃・・・
そんな中で、多くの外国人が、その先進技術を伝えるべく雇われて来日していたのですが、その多くは、イギリスやフランスやドイツといったヨーロッパの国からでした。
しかし、ここ北海道だけはアメリカから・・・やはり、中世の頃から発展していたヨーロッパではなく、新たな土地を開拓して先進国の仲間入りをしたアメリカに、北海道の未来を重ね合わせていたのでしょうね。
そんな依頼を受けたクラーク博士・・・もともと、日本に興味を持っていた事もあり、マサチューセッツ州立農科大学の学長の仕事を1年間休職という形にして、日本へと向かう決意をしました。
時にクラーク=50歳・・・早速、二人の弟子を連れて太平洋を渡り、明治九年(1876年)6月29日、横浜の港に到着したのです。
日本側の対応は、まさに国賓待遇・・・その年棒も、当時、右大臣をしていた岩倉具視(ともみ)とほぼ同じの7200円!=今だと1億くらいだそうです。
(てか、大臣:岩倉の1億のほうにも驚く!!(゚ロ゚屮)屮)
こうして設立された札幌農学校(現在の北海道大学)・・・第1期の生徒は、東京で試験を受けて合格した10人と、札幌で合格した6人の合わせて16名が本科生、他に26人の余科生がいる総勢42人でのスタートでした。
その教育方針は、実に彼らしい物・・・16人の生徒を前にして、クラークは言いました。
「僕はこれから1対1の人間として付き合って行くよって、ややこしい規則なんていらん」
そして、彼が言うたった一つの規則は・・・
「Be gentleman=紳士であれ」
という事だけでした。
この時の生徒たちのほとんどは、徳川幕藩体制での下級武士の出身で、むしろ、これまでは規則&規則に縛られた生活だったわけで、このクラーク先生の発言に大いにとまどいます。
しかし、ほどなく、このたった一つの規則が、どれほど大切な物であるかを気づくのです。
そう、これは、何をやって良いか、何がダメなのかという事を、自分自身で判断するという事・・・いわゆる詰め込み教育でも放任主義でもない、自ら考えて自ら答えを出す自己啓発主義の教育方針だったわけです。
それでいて、フォローせねばならない部分はちゃんとフォローします。
なんせ、教科書なんかもない時代に、日本語のわからない教師3人(クラークと弟子二人)が英語で授業するのですから、さすがに難関の試験をくぐりぬけたある程度英語に堪能な生徒たちでも、容易について行ける物ではありません。
クラークはそんな生徒たち全員に、授業で書きとめたノートを提出させ、間違って解釈しているところを一つ一つ直してくれたのだとか・・・
一説には、アメリカでのクラークの評判は大して良くもなく、その道の学者から見れば「アイツが植物学を教えるなんて・・・」と苦笑する人もいたようですが、「教育をする」という事においての重要性は、その道の権威であるとか、その道の知識をたくさん持っているとかという事とは別のような気がします。
基礎的な事を教えて「いかに生徒に興味を持たせるか?」
興味を持ってやる気が出れば、あとは、その時々にある程度の道筋をアドバイスするだけで、生徒は、自らでどんどん高みに登って行き、いつしか先生を追い越すほどの知識と経験を持つ・・・それこそ自己啓発ではないでしょうか?
そういう意味では、第1期生16人のうち、13人もが、その後農学士となる事を思えば、やはりクラーク博士は、非常に優秀な教育者ではなかったか?と思います。
具体的には、
午前中の4時間は、英語や数学をはじめ、専門的な農学や植物学・化学工学の学科の授業をし、午後は農作業の実習のほかに、週2時間は軍隊の訓練もあり・・・その後、夜には4時間の自習時間が設けられていました。
この軍隊訓練は、当時の北海道が、対ロシアとい観点からの最前線に位置する場所であったからで、そもそもはあの日本初の洋式城塞=五稜郭だってそのための物ですからね。
ここで、教育を受ける生徒たちは、開拓指導者であると同時に、北の護りの要にもなってもらわなねばならない人材だったのです。
そんな中で、クラークは、初の洋式農園を開き、牛や馬を入れる畜舎の設計もこなしました。
しかし、時が経つのは早い物・・・
1年間の休職と言えど、実質的には8ヶ月半・・・別れの日はやってきます。
明治十年(1877年)4月16日、この日は、教授陣と生徒たち全員が、札幌から2時間ほどかかる島松へと見送りに・・・
第1期の生徒だった大島正健(まさたけ)の記した『クラーク先生とその弟子たち』によれば・・・
この時、クラークは生徒の顔を、一人々々覗き込むようにして、
「1枚のはがきでえぇから、時々は消息をよこしてな・・・ほんで、いつも神に祈る事を忘れたらアカンで~
ほな、元気でな」
と言って、握手を交わした後、ヒラリと馬に乗ってひと言・・・
「Boys,be ambitious.=少年よ!大志を抱け」
カッコイイ~~゜.+:。(*´v`*)゜.+:。
まぁ、実際には
「Boys, be ambitious like this old man」=この老人のように野心家になれ・・・だったとか、
「Boys, be ambitious in Christ (God)」=神のもとに・・・だったとか、
単に、故郷のニューイングランドで流行ってた別れの言葉で、「サイナラ」以上の意味はない・・・
なんて言われたりしますが、やはり、ここは、「少年よ!大志を抱け」と叫ぶのが、一番カッコイイ~~~
こうして、アメリカに帰ったクラーク博士は、もとの学長に戻りますが、わずか1年半で退職・・・その後は、鉱山経営に乗り出すも失敗し、破産の裁判に悩まされ、やがては心臓病を発症して寝たきりの生活に・・・。
しかし、生徒たちとの手紙のやりとりは、ずっと続いていたと言います。
やがて、明治十九年(1886年)3月9日・・・最期の時が近づいたクラークは、そばに付き添っていた牧師に向かって、
「札幌にいた8ヶ月間だけが、僕の生涯の誇りや」
と言いながら、その59歳の生涯を閉じたという事です。
今も、北海道大学のキャンパスに残る彼が開いた学校農場・・・
今も、倉庫やチーズ造りの場所となっている畜舎の元祖・・・
クラーク博士の生涯でたった8ヶ月だった誇りは、今や、北海道・農業者の永遠の誇りとなりました。
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コメント
Boys, be ambitious… の解釈は、いくつかあったと記憶しておりますが…。
「少年よ!大志を抱け!」 が一番似合っていると思います。
羽柴茶々様…
相変わらずやるやん…(笑)
投稿: azuking | 2011年4月17日 (日) 20時42分
azukingさん、こんばんは~
やっぱり、
「少年よ!大志を抱け!」
が、一番イイですよね~
投稿: 茶々 | 2011年4月18日 (月) 01時35分
茶々さん、こんばんは!
「古(いにしえ)の偉人たちのように」という解釈も聞いた事がありますよ!!
クラーク博士の立像ですが、今でこそ画像を貼られている羊ヶ丘公園のヤツが有名になりましたが、私が初めて北海道に旅行した昭和56年(1981)当時は全国的には完成して5年程しか経ってなかったので、まだそんなに知られてなかっったんですよ。
札幌を観光した際、タクシーの運転手さんの案内でまず北大のクラーク博士の胸像を観に行く事にしたのですが、見事に門前の警備さんによりシャットアウト!(関係者以外立ち入り禁止!って奴ですね…笑)
それで残念に思っていた処、運転手さんが「こんな銅像もあるんですよ」って教えてくれたのがこの羊ヶ丘のクラーク博士の立像でした。
それ以降、全国的に広まっちゃたけど、その当時はまだ知れ渡ってなかったので、京都に帰ってから、撮影した写真を先生や友達に見せては、何度となく自慢してたのが懐かしい感じです(笑)
投稿: 御堂 | 2011年4月19日 (火) 03時17分
御堂さん、こんにちは~
>昭和56年(1981)当時…完成して5年程
>その当時はまだ知れ渡ってなかった
えぇ~!(・oノ)ノ
そうなんですか?
実はupした写真…大きくするとかなりボケてますが、これは大昔に自分で写した写真をスキャナーで取り込んでupした物です。
その大昔が昭和55年…(゚ー゚;
初めての北海道だったので、羊ヶ丘という名称に魅せられて、見渡す限りの牧場の、いかにも北海道らしい風景を想像して、名前だけで行ってみたら銅像が立ってたって感じで撮った写真でした。
確かに、今ほど有名ではなかったかも…ですね。
1年のズレは、わが人生では、ほんのひと時…気遇です。
投稿: 茶々 | 2011年4月19日 (火) 17時14分
クラーク博士の出身大学、アマースト大で日本の近代史と日米外交史を教えているムーア教授が大学のホームページにかいた小論文には、
「the Japanese government wanted to create a school to encourage modern agriculture, it turned to Seelye for help. Fortunately, Seelye could recommend his friend William S. Clark (Class of 1847), a Civil War veteran and president of the new Massachusetts Agricultural College」黒田清隆の依頼で、クラークがきたというより、
岩倉具視使節団に通訳として乞われた新島襄の取り計らいで、新島の出身大の大学長シーリー学長の推薦でクラークが来たようです。かれは州立大学の農学校ではなく、アマーストのとなりの小さな農学校の校長を確かに兼任していましたが、これが後に州立大学に発展しただけで、彼が学長をしていた頃は、スターブリッジ農学校でした。札幌農学校が北大に発展したように、もともとはただの農学校です。
こちら地元ですが、あまりクラークは評価されていませんが、むしろ彼を推薦し、新島襄や内村鑑三からクラークより、その徳育教育に尊敬をあつめていたこのシーリー学長が、結局そこまでクラークをかっていたのか、読んだと云うことではないでしょうか。私もこのマサチューセッツのアマーストに住んでいますが、日本からのお客にはクラーク博士の墓とともにシーリー学長の肖像画をお見せします。
クラークの像も肖像画もこちらにはありませんし、州立大学に発展したことで、彼を讃える記念碑もありません。それより、おもしろいことに、日本から来た人はこのあたりを北海道みたいと礼讃します。「それって、北海道はこちらみたいとオリジナルを間違えている」というのですが、それほどクラークは北海道には偉業を残したと云うことかも知れませんね。
投稿: モンタギュー | 2011年12月18日 (日) 06時01分
モンタギューさん、こんにちは~
色々、情報ありがとうございました。
>日本から来た人はこのあたりを北海道みたいと…
人間…やはり、どうしても、自分の身近な場所や物を基準に考えてしまいますね。
モンタギューさんが「それって、北海道はこちらみたいとオリジナルを間違えている」と感じられるのは、それだけ、現地に馴染んでおられるという事なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年12月18日 (日) 11時00分
私の最新のプログ「モンタギューだより」
http://cyamazaki-heineman.blogspot.com/2011_12_01_archive.html
投稿しましたが、
私自身が現地に馴染んでいるかは別として、
私のすんでいるアマーストも、町の中心にあるアマースト大も現在のマサチューセッツ州立大学も、日本の近代に大きな影響を残しました。
また、ここから2時間以内のペリー提督の出身地ニューポートや、ジョン万次郎が学んだニューベッドフォードも先月に歩いて来ました。その地にいって、150年前の先人に思い馳せると、この地で彼らは何を見、考え、日本と比較したのだろうと考えます。当時の日米の暮らしぶりはとても違っただろうに。そんなころに自分の身近からしかものが、考えられないと今の日本は築いてなかったでしょうに。
また上記の文章の訂正、追加ですが、シーリー学長とあるのは、アマースト大の学長で、内村鑑三や新島襄が学び、多大な影響を与えた人物と言われていますし、一説には新島がクラークを推薦したとも言われています。
投稿: モンタギュー | 2011年12月18日 (日) 12時11分
モンタギューさん、こんばんは~
歴史があり、しかも日本との深い関わりがある町を、先人たちの息吹を感じらながらの散策…得る物が多い事でしょうね。
先日の伊藤博文ではありませんが、この頃の日本は、未だ大きな海原に上ったばかりの国…欧米に憧れを抱くと同時に、最先端の文明のすべてを身につける事を欲した彼らがいたからこその、今の時代があるのだとしみじみ感じます。
投稿: 茶々 | 2011年12月18日 (日) 18時31分