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2011年4月11日 (月)

見事なネバり勝ち!島津義久の関ヶ原

 

慶長七年(1602年)4月11日、徳川家康島津義久本領を安堵し、弟・義弘の助命とその息子の忠恒の家督相続を認める誓約しました。

・・・・・・・・・

見事な島津の粘り勝ち!
いや、相手の痛いところを見抜いての交渉術のうまさと言ったところでしょうか・・・

事の始まりは、あの関ヶ原・・・慶長五年(1600年)9月15日の天下分け目の戦いです。

当時、薩摩(さつま・鹿児島県西部)島津家では、兄の島津義久(よしひさ)大隅日向(宮崎県)を、弟の義弘(よしひろ)鹿児島周辺を治めるという「両殿体制」という形をとっていました。

これは、豊臣政権が義弘を事実上の当主として扱っていたものの、国許の領内では、やはり兄=義久が実権を握っていたからなのですが、関ヶ原の開戦当時は兄=義久は九州にいて、弟=義弘は京都に滞在中・・・

Simaduyosihiro600a そして、ご存じのように、この義弘が、なりゆき上西軍として関ヶ原に参戦・・・両軍の戦況を見ながら、最後の最後に「敵中突破」という命がけの離れ業で戦場を離脱し、最後には、わずか80騎になって故郷にたどりつきました(9月16日参照>>)

たった半日の天下分け目の戦いで、島津は完全に負け組となってしまったのです。

命からがら逃げかえった弟に対して、兄は、いたわるどころか怒り爆発!・・・なんせ、この時の島津は、徳川家康と誓詞を交わしており、本来なら東軍として参戦しなければならなかったのに、なりゆきとは言え、石田三成(みつなり)加担し、しかも負けちゃったわけで・・・

早速、義久は、義弘を蟄居(ちっきょ・自宅謹慎)させ、
「関ヶ原で西軍に加担したんは義弘の独断で、豊臣秀頼公への忠節つくすため以外の何物でもありませんので・・・」
てな、内容の書状をしたため、東軍の諸将に、家康へのとりなしをしてもらえるようお願いしまくりますが、9月の末には、家康からの島津討伐命令が出されます。

・・・と、ここで、関ヶ原の負け組の皆さまの戦後を見てみますと・・・

戦死や自刃・刑死や流罪など、とにかく罪人として処分されたのは、
石田三成小西行長宇喜多秀家織田秀信増田長盛(ましたながもり)宮部長熙(ながひろ)など・・・

改易となったのが、
立花宗茂(むねしげ)小早川秀包(ひでかね)長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)前田利政青木一矩(かずのり)など・・・

減封・転封となったのが、
個人的には怪しいんですけど(5月10日参照>>)豊臣秀頼
上杉景勝(かげかつ)佐竹義宣(よしのぶ)毛利輝元秋田実季(さねすえ)など・・・

特に、大大名だった上杉(8月24日参照>>)毛利(9月28日参照>>)は、ここぞとばかりに大幅減封・・・3分の1以下になるというあり様でした。

Tokugawaieyasu600 そんな中で、最終的に所領安堵・・・つまりお咎め無しとなった島津さん・・・

同じく、所領安堵となった大名には、鍋島直茂蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)生駒親正(いこまちかまさ)などがいますが、いずれも、親子で東西に分かれた人たちで、直茂なんて最後には先頭にたって立花を攻めたりなんぞしてますから・・・(10月20日参照>>)

つまりは、完全に西軍として戦場に赴いておきながら、所領安堵となったのは島津ただ一人という事になります。

実は、先に書かせていただいた通り、9月の末に島津征伐を宣言する家康ですが、早くもひと月半後の11月12日には、その中止を言い渡しています。

さすがの義久さん・・・「ここに勝機アリ」というのを見い出したのでしょうね。

そう、当然の事ながら、戦後処理に忙しい家康が、自ら島津討伐に向かう事はできませんから、ここで島津討伐軍として先頭に立っていたのは、上記の鍋島直茂や加藤清正黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)九州勢・・・(11月3日参照>>)

ご存じのように清正は秀吉恩顧の武将だし、如水に至っては、これきっかけで天下を狙うつもりだったとも噂されている人物です(9月13日参照>>)

彼らが島津を倒せば、当然、その恩賞を与えねばならないわけですが、今の家康にとって、彼らがあまりに強くなる事は避けたいわけで・・・遠く離れた九州に、強大な国を造ってもらっちゃぁ困るわけですよ。

かくして、義久に、島津討伐を中止させたったんやから」と、上洛しての謝罪と臣従を求める家康・・・

さぁ、ここから義久の交渉術・・・

上洛要請には
「ちょっと、今、お金ないんで・・・」
断わる一方で、
「我が家の先祖は源頼朝公のご落胤・・・アンタとこも源氏やろ?同じ先祖やんかいさー」
と、軽く矛先をかわしていきます。

さらに、義久には、「ネバりにネバれば、最後には家康が折れるだろう」という切り札がありました。

それは、(みん・中国)との貿易です。

島津が正式に琉球を手中に納めるのは、7年後の慶長十四年(1609年)ですが(4月5日参照>>)、なんだかんだで琉球と薩摩の関係は切っても切れない仲・・・さらに、その琉球を通じての明との貿易は莫大な富を生むわけで、そこからあがる“うまみ”は、家康だって絶対に欲しいはずです。

「ここは中途半端に妥協するまい」
と義久の決意は固かった・・・

その後、島津と家康の間で、何度も何度も使者や書状が行き交いながらも、いっこうに話が進まないまま、ネバる事1年半・・・

慶長七年(1602年)4月11日、ようやく家康が、
「薩摩・大隅の両国と日向諸県郡という現在の島津所領を安堵し、弟・義弘の助命とその息子の忠恒の家督相続を認める」という誓嗣を義久に送ったのです。

合戦には負けても、交渉に勝った島津義久・・・

その後、同じ年の8月には、義弘の息子・忠恒(ただつね・家久)が上洛し、暮れには伏見城にて家康と会見・・・ここに、島津の関ヶ原は、ようやく終わったのでした。
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コメント

島津氏は交渉上手でしたね。子孫にも恵まれています。
鹿児島茶(知覧茶)も美味しいです。東京では人気ないけど。

投稿: やぶひび | 2011年4月12日 (火) 08時17分

やぶひびさん、こんにちは~

距離的にはスゴく遠いのに、島津は中央政府に影響力ありますよね~

かはり薩摩隼人の心意気ですかね~

投稿: 茶々 | 2011年4月12日 (火) 13時50分

島津義久は、島津家16代当主として、多くの家臣や島津義弘・島津歳久・島津家久の弟3人をまとめ上げることに成功したリーダーといえるでしょう。ただし、義久は、4兄弟の中で最も大人しい性格だったため、周囲から武将としての資質を疑われていたようです。そんな時に、祖父の島津忠良からは「大将たるものは、常に冷静な視線を持ち、みだりに動かぬものである。」として、大いに評価されました。後に徳川家康が、義久と対面した際には、「私は出陣したというだけで、指揮は、すべて弟の義弘・歳久・家久のほか、家臣らに任せていた。彼らの活躍で勝ちを拾ったに過ぎないので、私の働きではありません。」と義久は語りました。それを聞いた家康が、義久を絶賛したそうですから、忠良が、当主としての義久の資質を見抜いてアドバイスをしたのは、至極当然だと思いました。

投稿: トト | 2016年4月14日 (木) 10時06分

トトさん、こんにちは~

未だ薩摩統一を果たせないまま、肝付との抗争のさ中に病死した父の無念が、彼ら島津兄弟の結束をより固めたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年4月14日 (木) 18時15分

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